第一章 夏の雲
青空の下で
どこまでも遠く、手の届かない青が頭上に広がる世界。
直視出来ないほど眩しい太陽がその中心を捉える時、彼らは祈りを捧げる。
細い指を組み、青と青のグラデーションが美しい空を見上げていた女は「よっしゃ」と気合の入った声と同時に顔を正面に戻した。壁に立てかけてある箒を手に取り、反対の手を腰にあてた。
そして、見上げる。今度は空ではなく、それよりももっと下。彼女が先程まで背にしていた木製の扉だ。そこには宿スミレと書かれた看板が掛かっている。
「さあて。そろそろ声をかけてやらないとね。すぐに時間を忘れちまうんだから」
ふんすと鼻を鳴らした彼女は豪快に宿スミレの扉を開く。
カラカラカラン。
扉の上部についたドアベルが大きく揺れて音を鳴らし、彼女の登場を室内に知らせた。
奥にあるカウンターの内側にいた小太りの男がドアベルに気付いて顔を向ける。空――と言ってもここでは天井しかない――へ祈るために組んでいたソーセージのような指を解いた。
彼と彼女の視線が重なり、二人の歯車がかちりと動き出す。二人は同時に、にっと歯を見せて笑う。
「ようし、ダイダ! 今日も神さんのご機嫌がすこぶるいいよ。しーっかり稼ぎな!」
「よしきた、レクト! 今日も腕によりをかけてすこぶる美味えもん作ってやらあ!」
宿スミレには小さな庭がある。
そこには立派な木が一本だけ植わっており、その足元には短く切られた丸太が椅子代わりに置かれていた。
昼夜、天気問わず外に置かれたままの丸太椅子は少々がたつきが目立つが、気にせずじっと座っている姿が一つ。その姿は太陽の位置などお構いなしか、空に祈りを捧げることもなく下を向いていた。細い指に彫刻刀を持ち、真剣な表情で手元の木を削っている。静かな中庭で、頭上の枝葉が擦れる音と彫刻刀が削る音が中庭に充満していた。
「ココノア!」
箒を持ったままの彼女――レクトと呼ばれていた豪快な女――が大声を出すと、呼ばれたココノアが彫刻刀の動きを止めてから顔を上げた。長い前髪はばさりとまとまって揺れ、透き通るように赤い瞳は穏やかに細められる。
「はい」
ココノアは柔らかな返事をし、小首を傾げた。額の真ん中で割れた茶髪がさらりと重力に従う。
「はい、じゃないよ、もうお昼だよ」
箒の女が上を指差すと、ココノアはそれをなぞるように空を振り仰いだ。真上の太陽が生い茂った葉の隙間からちらちらと光を降らしている。
「今日は午後から仕事だって言ってたろう。まあた時間を忘れてるんじゃないかと思ってね」
ココノアは「ああ」と溜息のように呟いてから、手に持っていたものを膝に置いて指を組んで目を閉じた。
極々短い祈りを捧げたココノアは膝についた木屑を払い、足元にあったウエストポーチを拾い上げた。彫刻刀を外側のポケットに仕舞い、削っていた最中の木製の腕輪は手に持って立ち上がる。
「すみません。すっかり忘れてた」
「ほうら、やっぱりね。さっさと用意しな、遅刻しちまうよ」
箒の女がどっしりとした胸を張って、用意を促すように顎をしゃくった。
ココノアははにかんで返事をしながらウエストポーチを腰に巻き、中庭と宿を結ぶ扉へ早足で向かう。
と、その様子を目で追った箒の女が長い睫毛をぱちぱちと揺らした。
「おや、ツィーネはいないんだね。珍しい」
「残念、珍しい日じゃないよ。ツィーネなら、たぶん、その辺りに」
ココノアが宿に入る前にともう一度木屑を払ってから、先程まで影を借りていた木を親指で差す。すると、誰もいなかったはずのそこに一人の男が立っていた。
「教えてくれてありがとう。俺もすっかり忘れていたよ、仕事だってこと」
端正な顔をしたツィーネが細めた瞳は水晶のように透き通ってるようにも見え、その透明に目一杯光を遊ばせるような虹彩を持っていた。日差しの加減で木漏れ日がきらきらと踊っているように見えるが、その目が実際に何を見ているのかはよく分からない。
「まったくあんたは神出鬼没なこと」
「俺はココの側にしかいないよ。今もそこでうとうとしていただけで、突然湧いたわけでもないしね」
木の裏を指さしたツィーネが微笑んでいるうちに、そのココノアはさっさと宿の扉をくぐって行ってしまった。バタン、と寂しくなるような音が聞こえ、ツィーネと箒の女はそろってそちらを見る。
「側にいるんじゃなかったのかい」
「……この距離は側に含まれないのかな?」
「おい、ココ! こいつを持っていきな。飯を抜いちゃあ働けるもんも働けねえぞ!」
カウンター奥の男の呼びかけに振り返ったココノアは先程と変わらない薄汚れたつなぎとウエストポーチに加え、二振りの剣を腰にぶら下げていた。
ココノアは男が投げて寄越した紙でしっかり包まれたパンを受け取ってはにかんだ。
「ありがとう。食べる時間もなくって」
「そんなこったろうと思った! いってらっしゃい、戻りは何時頃だい」
ココノアが木製の扉に手を置いてから頭を傾けると、後頭部でひっつめられた髪束がばさりと揺れた。
「夜になると思う。外で食べて帰るつもりだから、夕食は残しておかなくて大丈夫だよ。――それじゃ、いってきます」
外へ出たココノアは出てすぐにある屋根だけがある乗り物置き場へ足を向けた。パンの包を半分めくると、蒸した鳥や季節の野菜がたっぷりと挟まっている。それにかぶりつきながら、ココノアは一番奥にある二輪車のチェーンを外してまたがった。
二輪車のボディに埋め込まれた透明な石――水晶に触れると、反応してふわりと光を灯した。それと同時に二輪車がかたかたと震えて動き始める。
ココノアは片手でハンドルを握り、ブレーキから指を話して足元を蹴った。二輪車がするすると進み始め、ココノアは片手でバランスを取りながらパンをもう一口。
『転ばないでおくれよ、そんな片手運転で』
そんな声が聞こえてきた気がして、ココノアはわずかに口元を緩める。
『僕が転ぶわけない』
心の奥底でそう答えたココノアは、二輪車のスピードを更に上げた。
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