第6章 緑青の軋轢

第100話 錆びた臭い

「あのね!いーちゃん、リレーの選手に決まったんだ!」

 隣で、手を繋いではしゃいでいるのは青里家の三女で私の妹——青里 泉実いずみだ。

 この時、泉実は小学校1年生で私は4年生。つまり、これは今から6年前の記憶か……。私も妹もランドセルを背負ってるから、下校中かな。

「いーちゃんは足が速いんだね」

「うん!クラスで一番なんだよ!」

「そっか。じゃ、速く帰ってお母さんに自慢しないとね」

「きっとママ、すごく喜ぶよ!」

 天真爛漫に笑顔を絶やさないその幼顔は、天使という形容が最適だ。

「でも、あーちゃんは走るの苦手だから、褒めてくれないかも」

「そうね。あの子は強がりだから」

 泉実があーちゃんと呼ぶのは、私の1つ年下の妹——青里 あかねのこと。

 茜は私を真似て冷静を装っているらしいが、どこか抜けてるところがあり、そこが可愛らしい。本人はそうやって子供扱いされるのを良しとしないが。

 高揚を抑えられない泉実は、思わずスキップを開始する。とても軽やかな足取りは、その瞬足さをほのかに感じさせる。

「車とか人にぶつからないよう気を付けてねー」

「分かってるー!」

 後ろを振り向かず、背中が徐々に遠のいていく。角を曲がり、見失う直前に私は少し駆け足になり、泉実に追い付く。

 すると、遠くに見覚えのある車がある。水色の軽自動車、そしてあのナンバーは……。

「あ!あれってママの車じゃない?」

「ほんとだね。じゃ、隣にはあーちゃんも座ってるはず」

 2人は歯医者の帰りのはず。厳密には、診察したのは茜だけで、お母さんは送迎だけ。

「ついでだし、家まで乗せてってもらおっか」

「そだね!おーい、ママー!」

 だんだん車と私たちとの距離は近くなり、残るは丁字路のみを残したところで、私の記憶の刻は減速を始める。


 あの瞬間から——私たち一家は無秩序に引き裂かれた。


 眼前、丁字路から一台の自転車が車の前に飛び出す。男が全速力で漕いでいた。

 驚きに身を任せ、咄嗟に私は泉実を庇うように抱きしめる。自転車が飛んでくるような距離では無かったが。

 丁字路に背を向け、泉実を力強く抱き締める。背後から、壮絶な衝撃音が響き渡った。

 ——頭の中は真っ白。何をすべきなのか、何ならできるのか、何かしていいのか、何がしたいのか。

「みーちゃん……?」

 泉実が、か細い声で呟いた。

 それが聴こえたとき、私は迷わず、胸の中の泉実に囁いた。

「……すぐ小学校に戻って。小学校の先生に、お母さんが近所で事故に遭って、どうすればいいか分からない、って伝えて」

「え……でも……」

「振り返らないで、行っておいで。走るの速いんでしょ?」

 出来る限り微笑みを残して、泉実を送り出す。

 果たして最善の判断なのか分からないが、今は泉実のことばかり考えていられない。

 意を決して、私は背後の惨劇に向き直る。絶望が立ち込めているのは、野次馬の喧騒から容易に読み取れた。

 どうにか人混みを掻き分け、ひたすら車に近づく。見慣れた軽自動車は、フロントガラスにヒビと血を不規則に点在させている。正面部分は大きく凹み、錆びた鉄のような臭いを醸し出す。

 ショッキングな損傷具合だが、どれも私の意識を引き止めるほどではなかった。

 私の思考を埋めてるのは——車内にいるお母さんとあーちゃん。果たして、無事なのか。

 野次馬を抜けると同時、運転席側のドアが開く。中から、左横腹に両手を当ててしかめ面のお母さんが転げ出てきた。

「お母さん!」

 私は思わず叫び、肩を支えるように駆け寄る。

「う、ぐ……」

「どこか痛いの!?お腹?」

「……わ、私のことは、いいから……茜を……」

 その名にハッとし、近くに立ってる人に母さんの介抱を任せ、先程開けられた運転席側のドアから車の中を覗く。

「———あーちゃん!」

 助手席で、目を見開いてる茜の横顔を見て、さっきお母さんを呼んだ時の比にならないほどの大声を絞り出す。

 かなりの声量にもかかわらず、茜は微動だにしない。それどころか、瞳は難破船の如く揺れ動くばかり。

「どうしたの!?しっかりして!」

 肩をゆすると、やっと眉をひそめた。そしてすぐ両手で首を覆った。

「い、てて……」

「首を痛めたの?」

「……あ」

 肩に手を添えながら目を見て尋ねると、ようやく私のことを認知したのか、掠れ声と共に涙を零す。

「み、みーちゃん……さっきの……」

 その瞳は、悲劇そのものが浮かび上がっていた。居た堪れなくなり、無意識に抱き締める。

「大丈夫……大丈夫よ……」

 それ以上、言葉は続かなかった。

 可愛い妹は、止めどない涙と対照的に、声を完全に失っていた。


 その静寂すら、家族を引き裂く雑音だったと知るのは、数日後のことだった。

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