第94話 ホワイトクライシス

 万が一のために備えていた捜査用のビニル手袋を装着し、改めて部屋を見回す。見るに堪えないほど荒らされた殺人現場の部屋を。

 部屋に充満する鉄の匂いには慣れつつある。死臭は既に経験済みなのだが、その匂いは感じられない。

「殺害されたばかりなのか……」

 死臭とは遺体が腐敗することで生じる、腐卵臭よりも酷い悪臭のこと。状況によるが、冬なら4日ほどで発生するだろう。

 しかしこの部屋は未だ鉄の匂い——血に含まれる鉄分の匂いだけが蔓延している。

 本来なら死後硬直や背中の死斑を確認して死亡推定時刻を推測するのだが、今回はそうはいかない。

 部屋の温度は屋外の寒さに等しい。死後硬直は安易にズレるだろう。そもそも、外気に触れると寒さのあまり手はかじかんで感覚が鈍くなる。

 幸いなことに思考が鈍る気配はないので、手を動かさず頭を動かそう。


 部屋が荒らされた理由は不明だが、初見で自殺だと判断した場合、下手に推測すると、

「何か死にたくなるような出来事に苦しみ、狂気的な混乱のあまり部屋を荒らし尽くしたが、それでも抑えきれず遂に胸を一突き……」

 といったところか。かなり無茶ではあるが、考察としては強ち間違ってはいないはず。

 となると、犯人はその動機を演出するためだけにここまで部屋を荒らしたということになる。

 ……些か疑問の余地はあるが、このままでは何も進まないので、ほかの物証も確認しよう。


 廊下で床に散乱する衣類をどうにか踏み抜いて、玄関に辿り着く。

 ドアは解放状態で放置しており、相変わらずドアの真下では謎の水溜まりが水面を揺らしている。

「まずは密室の謎を解かないとな……」


 確かに、オレが最初にここに来たとき――被害者が出した騒音に反応して駆けつけたとき――しっかり施錠されているのをオレが確認している。

 あの瞬間、被害者は生きていたと考えるのが無難だろう。被害者がすでに殺されていたとしたら、犯人はあの時に現場に予め居た大宮ということになるが、そうなると彼は部屋の中で椅子か何かを破壊して衝撃音を響かせたのち、オレたちが到着する前に部屋から出て鍵を使わず施錠し、廊下側から部屋の中へ沢口さんを呼びかける必要がある。廊下の足場の悪さも相まって、あの短時間では不可能なはず。

 しかしそうなると、次に犯行が可能なタイミングは存在しない。そこからは別の誰かと必ず一緒になっているからだ。

 完全に手詰まり、と言わざるを得ないだろう。

 ただ、いくつか気掛かりはある。例えばこの水溜りも……。

「ん?」

 何気なく足元に広がる水面を見つめていると、何かが浮いているのを見つける。拾い上げると、それは青色の細い紐だった。両端同士をきつく固結びされており、とても大きな輪が形成されている。

「って、長いな」

 簡単に見積もって、結び目を解くとオレの身長より少し長くなりそうだ。

 ……ただの糸が落ちてる程度なら近くの衣類からほつれたと思うだろうが、これは安易に見逃していいのだろうか?

 周囲に青いニット的な衣服は見当たらないし、キツく固結びされてるのも気になる。

「そういえば、ドアの周りまで服は侵食してないな」

 廊下を埋め尽くすような服は、玄関まで届いていない。確かに男性1人しかいない以上、それほど沢山の服があるわけではないが。

 玄関は靴が乱雑になっているものの、ドアの開閉に支障を来すようなほどではない。

「まるで、意図的に開閉はできるよう仕組まれたような……」

「仕組む、って何を?」

 唐突に廊下から声が聞こえたので、顔を上げる。

 まるで他クラスに遊びに来たかのような表情で顔を覗かせたのは、もちろん赤崎だ。

 コイツには容疑者たちの部屋を調べさせたはず。無意味だろうと予想していたが。

「早かったな」

「まぁ由妃ちゃんとおばあちゃんは同じ部屋だから、すぐ調べ終わっただけなんだけどね」

 由妃さんと千恵子さんの寝室はキッチンの奥にあるという。昔、パーティ会場として機能していたときに使用人たちの休憩スペースの名残があるらしい。

 ちなみに大宮と沢口さんの部屋は、もともとは来客者を宿泊させる場合に備えた場所だったらしい。外の吹雪の様子を見ると、オレと赤崎も世話になりそうだ。

「白澤くん、今報告してもいい?」

 オレが思考の中でしていた状況の整理を中断させた赤崎は、ヒラヒラと手を振っている。どうやらオレが無視してる可能性を危惧してるらしい。

「報告……することあるのか?」

「あるよ!私も無駄足かなって思ってたけど!」

 意外なことに、どうやら赤崎も何もないと思っていたらしい。ならどうして行ったのだろう。バカだからかな。

「由妃ちゃんとおばあちゃんの部屋に気になるものは無かったよ。けど……」

「大宮の部屋に何かあったのか?」

 大宮が犯人だとしたら、今回の策略は非常に良く仕組まれている。安易に証拠を手元に残すとも、それを赤崎に見せるとも思えない。

「具体的に何かあったわけじゃないんだけど……コレ」

 取り出したのは、一台のデジカメ。話の流れからして、大宮のものだろう。見た目で特に違和感はない。つまり、中身に何かあるのだろう。

 それを受け取り、軽く操作してデータを開……こうとするが。

「あれ……データが、ない」

「コレっておかしいよね?」

「あぁ。あの男、風景写真を撮りに来たって言ってたよな。いくら吹雪に襲われたからって、1、2枚は試しに撮っているはず」

 そもそも、風景写真を撮るのにこんな小さなデジカメなのも些か無理がある。趣味程度とはいえ、もう少しお金を掛けて高性能のカメラを使うはず。

「カメラ小僧じゃあるまいし、今どきこんなデジカメで……ん?」

 そこまで言って、徐々に口の動きが止まる。


 頭の中で音を立てて推理のピースが組み立てられ始めた。

 神経が鋭利に研ぎ澄まされ、すべての刺激に敏感になり始める。そのすべてが、オレの推理をサポートしてるような感覚に覆われる。

「ねぇ、関係ないけどさ、さっきから外凄いね」

 脳内で徐々に推理パズルが組み上がる中、赤崎が廊下の窓を見つめて呟いた。その視線の先、つまり窓の外では、さらに威力を増している吹雪が荒れ狂っている。

「屋敷の前にあった氷像は大丈夫かな。壊れてないといいけど……」

「今はそんな気遣いはいらな……」

 赤崎のことを軽くあしらおうとして、不意に口が止まった。

 理由は単純。氷像の映像が、急に脳裏に映し出されたから。

 そうだ———あの氷像だ!



 突然、パズルのピースが繋がり始めた。

 本当に些細な、赤崎の言葉で。

 決して意図的でない、天然な発言で。

 全てが、求めていた真実への道筋を示す。



「——ありがとな、赤崎」

 つい、感謝を口にしてしまった。

「ふぇ?」

 相変わらず間抜けな声を漏らす。

 まさかコイツがここまで重大なヒントをくれるとは思いもしなかったが、最後の一押しをしてくれたのは事実。だからオレは——


「さて——銀世界の死神の、血に染まったベールを暴くとしようか」


 ——信頼の眼差しを、赤崎に向けた。

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