第90話 挑ませて

「沢口、さん……」

 掠れた声を漏らしながら、大宮が手を伸ばす。名前を呼ばれた男は一切反応しない。

「無闇に触るなよ」

 オレは咄嗟に伸びた腕を掴み、冷静さを保たせる。下手に現場を荒らされては困るからな。

 突然の接触に驚き固まる大宮を他所よそに、オレは沢口と呼ばれた男の傍に近づく。念のため生死を確認しようと指を手首に添えたとき、その異変に気付いた。

 ——指先の震えが、とまらない。

 理由は明白。極寒の空間にいることだ。おかげで正確に脈を測れない。

「この部屋、寒すぎるだろ……」

「この時期、暖房を切るとどの部屋も厳しい寒さが支配する。この部屋とて例外ではない」

 千恵子さんが手を擦りながら答える。よく見ると、喋るたびに薄く白い息が雲散する。

 部屋の奥にある唯一の窓から外の吹雪の様子を覗くが、視界は完全に遮られている。確かにこの気候では、これほどの冷気が襲いかかってもおかしくない。

 脈は測れないが、瞳孔は完全に開ききっていることと、胸からの尋常ではない出血量から彼の命運は容易に推察できる。救えない命を目前に、思わず嘆息してしまう。

「取り敢えず、警察と救急車を呼ぼうかね」

 千恵子さんもため息混じりに、部屋の外へ向かう。大宮にも着いていくよう促し、3人で廊下に戻る。

「お、おかえり……」

「なにかあったの?」

 由妃さんと赤崎は手を繋ぎながら、恐る恐る事態の内容を尋ねてきた。千恵子さんも大宮も話す気力はまるでないので、仕方なくオレが返事する。

「詳細は後で伝えます。まずは、食堂に戻りましょう。オレはここに残りますので、千恵子さん、通報お願いします」

 背中を向けたまま、「はいよ」と応えて歩き出した。鈍い動きをする後ろ姿を案じ、由妃さんが隣に駆け付ける。

 淀んだ雰囲気を携えたまま全員が階段を降りて行き、姿が見えなくなったところでオレは眼前の部屋と向き合う。


 カタカタと、窓が風に打たれて揺れる。

 この荒れた天候から察するに、警察はこんな山奥にすぐ駆けつけることができない。

「……となると、今回の事件ヤマは、オレがイチから捜査するべきか」

 立場を理解し、意を決して部屋へ踏み込み——


「やっぱ、事件なんだ」


 ——足を下ろすと同時、その声が聞こえた。

 階段の方に首を向けると、ゆらりと赤崎が現れた。今は、隣に由妃さんはいない。

「お、お前、どうして……みんなで食堂に行けって言ったのに」

「さっき、おばあちゃんに『通報お願いします』って言ってたでしょ。それに……」

 語尾が萎んだかと思えば、意を決したような面持ちが表れる。

「——私、探偵部員だもん。無茶だと分かってても、事件が起きたなら解決するのが役目だよね」

 微量の怒気と、淡い慈愛を含んだ言い方だ。

 大宮と由妃さんのことが心配になったが、現状では杞憂だろうと割り切ることにした。

 仮に大宮が例のストーカーだったとしても、千恵子さんがいる前で下手な動きをするとは考えにくい。まして、あまりに突然の出来事が起きた手前、犯人は新たな事件を生むことはないだろう。

 となると、赤崎は本気で事件を解決しようとしてるのか。

 目の前、彼女の瞳は真剣そのものだ。この意志と勇気に嘘がないことは、江のテクニックがなくても読み取れる。


「——恐らく、殺人事件だ」

「うん……」

「これまでと違って、部員はオレたち2人しかいない」

「そうだね……」

「それでも、挑むのか」

「……」


 刹那の空白の末、赤崎は右手を差し出した。


「美咲さんや江ちゃんみたいに頭は良くないけど……私、犯人のことは許せないの。だから、挑ませて」


 身体を襲う寒気を跳ね除けるほど、熱意の篭った宣言だった。


「私たちで、悪い人を捕まえよう」


 オレは返事を口にせず、そっと右手を握り返した。

 どんな表情をしてるかは……赤崎に聞いてくれ。

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