第89話 冷気

 食堂には、オレと由紀さんだけが残った。

 この機会にさらに聞き出せることをとことん尋ね、新たな情報を得ることにした。


 大宮と沢口は、屋敷を訪ねたときの振舞いからして、知人ではあるようだったらしい。ところが、互いに敬遠しあってるような雰囲気が漂っていたという。

 ちなみに由紀さんが2人をストーカーだと睨んでいる理由は、シンプルに自分を見る目が恐ろしいらしく……

「特に大宮さんなんだけど……私を見る目がなんというか、じろじろと舐め回すような、そんな寒気を禁じ得ない視線なの」

 とのこと。

 女性は感覚的な認知がかなり鋭いときがある、と江が熱弁してたので、由紀さんの畏怖はあながち間違いないかもな。

 それに、あの男の獣感はオレも見て取れた。

 明らかに由紀さんに食い入るような質問もあった。ちょっとカマかければボロを出すかもしれない。

 江がいない手前、下手なことはしたくないが。




※※※




 暫くして、赤崎たちが昼食を運んできてくれた。

「質素で若者には歯応えはないかもしれないけど、堪忍してな」

 謙遜しながら千恵子さんが食卓に並べたのは、湯気が淡く立ち上るクリームシチューだ。

 ニンジンやブロッコリーが煌めく白濁の中で彩り豊かに点在し、見た目も香りも申し分ない。

 全員で「いただきます」と唱和し、ゆっくりとスプーンで口へ流し込む。

 舌に触れた途端、計り知れない熱に思わず顔を顰めるが、すぐに独特の風味が味覚を支配する。意識は完全に、口腔内を駆け巡るシチューの味に持っていかれた。

 ほろほろと崩れる野菜や肉で食感を堪能し、気付けば激しい熱も身体をポカポカと温める優しい熱になっていた。

 食堂にも暖房は稼働しており、確かに外よりはずっと温度は高いが、冬の肌寒さはそう簡単に離れてくれてなかった。ところが、眼前のシチューをたった一口飲み込んだだけで、身も心も聖母に包まれるかの如く温もりに染まった。

 無口になって一心不乱に昼食を胃に運ぶ。夢中になってるのは他の4人も同じで、それから5分程度は食器の音だけが鳴り響いた。


「くはーっ、やっぱおばあちゃんの料理はおいしいね」

「そう言って貰えると、作り甲斐があるよ」

 手を合わせて赤崎が「ごちそうさま!」と完食を告げる。それを受け、他の全員も各々のタイミングで手を重ねる。

 口直しに紅茶を啜り、オレは何気なくスマホを開いた。

 そこには赤崎からのメールが届いており、

『特に怪しい動きはなかったよ』

 と書かれていた。

 この昼食の間も、大人しく舌鼓を打っていた大宮は、オレと同じように紅茶で喉を潤し、

「沢口は流石に腹を空かせてる時分じゃないかな」

 自分の食器を持ち、立ち上がる。

 そして視線を千恵子さんに向け、

「もし良ければ、さっきの衝撃音の確認も兼ねて、昼食を部屋に運びたいのですが……」

「……構わんよ」

 ポツリと呟き、大宮と千恵子さんは食堂からゆっくり消えた。

 赤崎や由妃さんと話すときと、大宮と話すときで、千恵子さんの声のトーンは全く違う。それが先程から気になっていた。

「もしかして、ストーカーのこととか、大宮や沢口のこと、千恵子さんに言いました?」

 明らかに千恵子さんは嫌悪感を尖らせている。

 その原因があるとすれば、可能性は由妃さんにある。

 しかし……

「いや、言ってないよ?不安にさせたくないし」

「え?」

 オレより先に、赤崎が驚く。

 となると、なぜ千恵子さんは大宮に対してあんなに声色が暗くなるのか……。

 疑問は膨れ上がるばかりだが、千恵子さんに関して言えば、決して悪意のある人ではないだろう。

 顔見知りへの柔和な対応はともかく、初対面のはずのオレに鋭い目を向けることはない。

 赤崎の連れ、ということで受け入れられてるのだろうか。

 考えが逸れたな。由妃さんが警戒すべき相手として、大宮は立派な容疑者だ。

 陰険なストーカーの割に活発に行動してるのは少し不可解だが、その違和感も含め怪しさは拭えない。

 改めて警告しようと、由妃さんに向き直り——



「——ぅわぁぁぁぁ!」



 ——その時、ずっと遠くから、大宮の悲鳴が響き渡った。

「な、何っ!?」

 さっきの衝撃音と似たような篭り方。恐らくさっきの部屋辺りだろう、と容易に推測できる。

「今のは——まさか!」

 椅子を押しのけ、一目散に走り出す。後ろから2人がついて来る足音がした。

 食堂に待機させようか迷ったが、立ち止まって指示するのも面倒なので、とりあえず無視しておく。

 先程通った道を駆け上り、沢口の部屋の前に着く。

 前回と違い、ドアが開いている。そして、

「み、水溜り?」

 部屋の玄関に、小さな水溜りが出来ていた。その表面は、薄く氷を張っている。

「……って、氷?」

 部屋の中は、外と変わらぬ極寒だった。

 廊下は空間の広さと僅かな暖房のおかげで外界より数度暖かいが、この部屋は冷蔵庫のように冷気が支配していた。

 そして、何より異色なのは——部屋が、荒らされていること。

 靴箱の戸は破壊され、玄関の水溜りとは別に洗面所から水が流れ出ていた。一直線に伸びる廊下は服が散乱し、床はまだら模様に見え隠れしている。

 そしてその延長線上で、千恵子さんが立ち尽くしていた。

「おばあちゃん……!」

「お前らはここで待ってろ!」

 掠れ声を漏らす由妃さんを手で制し、オレは服を踏みながら千恵子さんのもとへ急ぐ。

 目を見開いており、ただ一点を見つめてる。

「どうかしましたか?」

 どうにか足場の悪い廊下を抜け、千恵子さんの傍に到着する。

 一向に反応する様子はなく、しかしオレはそれを待たず彼女の視線の先を追う。そして——


「———な、に?」

 その光景に、絶句した。

 壁で玄関からは死角になっていた場所、そこはリビングだった。

 廊下と同様に部屋は荒れている。机は倒れ、ジュースはぶちまけられ、2つしかない椅子のうち1つは大破していた。

 カーテンも無造作に切り裂かれ、嵌め殺しの窓から外の銀世界が覗かせていた。

 しかし、この場所ではどれも付与された背景に過ぎなかった。

 眼下、大宮が腰を抜かして尻餅をいている。時折、喉から「あ、おあ……」と哀れな声が漏れ出す。

 そんな無様な風体を曝け出す理由は、彼の目の前にあった。



 ——胸から鮮血を垂らす、中肉中背の男がいた。



 壁に凭れ掛かるように床で腰を降ろして、手足を前方に投げ出している。

 瞳から光は失われ、半開きの口と、そこから顎へ垂れる一筋の血の川が、男の命運をなまぐさく示している。

 周囲の床でどす黒い血液が湖を形成し、オレたちが来た振動で湖面は僅かに揺れている。

 そして、何より目を引くのが——男が左手に握るナイフ。

 刃も持ち手も紅蓮に染めており、その刃先は無機質に天井へ向けられていた。


 部屋の冷気に混じって、死の悪臭が冷たく漂う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る