神のみぞ知る

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神のみぞ知る

 外は小雨がぱらついていた。

 黒澤哲也くろさわてつやは、地下の店にいる間に激しく消耗した気がした。人生で最もイケてない時間に分類される時間だったかもしれない。相手をしてくれたアサミの言葉が耳についている。曰く「気にしないで。わたしにもっと魅力があれば、違ったはずだから」。しかし、アサミは顔といい、体といい期待以上に魅力的だった。

 帰り際にアサミからもらったカードには、丸文字で「また来てね」などとメッセージが書かれていた。哲也はそのカードを上着のポケットの中で丸めた。

 哲也はネオンがうるさい道玄坂大通り沿いのコンビニに立ち寄り、小瓶のウイスキーを買うと、歩道脇の花壇の縁に座り、ウイスキーをちびちびやった。卒業式のイベントの帰りだろうか。正装の若い男女の集団がこちらに一瞥も与えることなく行き過ぎた。哲也はもはや習慣になっていたネット配信をやりたいという誘惑に駆られたが、我慢した。

(今やってもリスナーのコメントは目に見えている。一昨日の配信で宣言したのだから)

 やがて雨足が強くなってきたので、目についたHUBに入ることにした。地下への階段を下り、若い男の店員に指で一人であることを示すと、今は満席なので、立ち飲みになると言う。哲也は了承して店に入った。生ビールを注文すると、狭いカウンターに陣取った。洋楽がかなりの音量で流れる店内は、哲也がここ数年よく行っている立ち呑み屋とは異質の雰囲気だった。昔は女子との出会いを期待してこの手の店によく訪れたものだった。今ここにいる二十代の若者と同じように。四十過ぎのオヤジはすでに相手にされないだろうが、年齢がどうであれ、この雰囲気は今の哲也には皮肉でしかなかった。

 今夜で人生を終える覚悟をしていた哲也は、ビールを飲みながら、四一年間の人生について考えた。

(どこでこうなったのか? どこかで道を外れたのだろうか? たとえば、友達も彼女もいなかった高校時代なのか、それともテレビゲームに熱中していた中学時代なのか。いろいろと考えられるが、すべては生誕したことの帰結だとしたら、どうだろうか。道を外れた個所を特定することはできないだろう。そうでなかった人生と比較することはできないのだから。誰もが自分では選べない特定の環境で育ち、配られたカードで人生を切り開いていかなくてはならない。その中で、俺は失敗したんだ。それがすべてだ)

「こんばんは~。飲んでる?」

 そう、話しかけてきたのは、女だった。その笑顔が眩しくて、心がざわめいた。

「……」

 哲也はあまりに意外な出来事に声が出ず、ただうなずくだけだった。

「乾杯~」

 女はそう言うと、ギネスが入ったグラスをビールが三分の一ほど入っている哲也のグラスに軽く当てた。

「なんか悩み深そうだね」

「……わかる?」

「今にも自殺しそうな雰囲気だよ」

「……」

 誇張だとしても「自殺」という文言に哲也は見透かされた気がした。

「あれ、もしかして本当に自殺する気だった。ねぇ、そうなの? 止めなよ。自殺しても、楽になるとは限らないよ」

「でも、楽になるかもしれないし」

 女はため息をついた。

「まあ、好きにしなよ。でもね、せっかくだから、今夜はパァっとやろうよ。わたしが付き合ってあげる。わたしはマリ、よろしくね」

 マリはそう言うと、哲也の手を取り、自分の頬に当てた。それから徐々に下げて、自分の胸に当てた。哲也の手に柔らかい感触が伝わってきた。

「どう? 触りたい?」

 触りたいに決まっている。哲也はその手を動かすことなく思った。しかし、何が彼女をここまでさせるのか。

「何が目的なんだ? 俺をおちょくってるのか?」

「まあ、余計なことを気にせずに飲もう。奢るよ。何飲む?」

「ハーパーロック」

「オーケー」

 そう言うと、マリは哲也から離れて、ドリンクの列に並んだ。哲也は今、店を出ることもできた。しかし、実際はマリから目が離せなかった。肌の感じから年齢は三十代後半くらいか。黒のプリーツスカートにグレーのロングカーディガンという服装。背が高くて、美人だった。実は知っている人なのではないか、という気がしてきた。しかし、そうだとしても、自分に優しくする動機などあるだろうか?

「はい、どうぞ」

 ドリンクを持って戻ってきたマリに哲也は心が和らいだ。哲也はウイスキーをすすりながら、自殺という企図が揺らぐのを感じていた。

(もし自殺を阻むためにやっているのだとしたら、大したものだ。しかし、もし何かの打算でやっているのだとしたら、そのときは、躊躇なしに自殺に突き進めるというものだ)

「……実は俺、仮想通貨投資で財産を失ったんだ」

 哲也は口内に広がるバーボンの味を噛みしめながら言った。

「そうなんだ。でも、それは自業自得じゃない。同情できないな」

「そうさ。同情はいらないよ」

「仮想通貨で一攫千金を狙って、全財産をつぎ込んだ。当たり?」

「その通りだ。億単位のカネをつくって、しみったれた人生から抜け出たかった。最初は上手く行ってた。一千万ほど儲けたんだ。その後、バブルが弾けたのと、取引所から盗まれたりして、ほぼ十分の一になった」

「あなたのような人は他にもいると思うよ。死ぬことはないでしょ。生きていればいいこともあるのに」

 哲也はマリの目の中を覗いた。マリに言われると説得力がある。

「……なぜ俺にかまうんだ? 痴女みたいな真似までして」

「痴女だったらどうする?」

 マリは挑発するような眼差しを向けた。

「驚くけど、どうもしない」

「女に興味がないの?」

「あるけど、もう歳だし、合体できなんだ」

「インポってこと? そんなの薬でなんとでもなるよ」

 哲也は頭を振った。

(この女は俺にセックスさせようとしているのか。どれだけありえない状況なんだ。これまで生きてきて、こんなこと一度もなかった。それどころか、自分から行ってもことごとく拒否されてきた。それがこの状況で……。もし痴女であっても、打算抜きなら、何という皮肉なんだ。おもしろい。何が待ち受けているのか確かめてみたい)

「……そうなんだ。それで、あなたは俺と同衾してくれるの?」

「フフフ、それは君次第だよ。わたしをその気にさせたら……」

「それは難しいな。俺にはそんな女性を誘惑するスキルなんてないから」

「決めつけないで。やってみてよ」

 マリは挑発的な眼差しをこちらに向けた。

「かわいいね」

 哲也は投げやりな調子で言った。

「ダメだよ。そんなんじゃ。やる気ゼロだね」

「そうだよ。やる気なんてないよ」

「生きる屍か。哀れだね。だけど、わたしを抱かないで死んだら後悔するんじゃない?」

「煽るね」

 マリと押し問答するのに飽きた哲也は、マリの手を取って、言った。

「じゃあ、ホテル行こうか」

「いいよ」

 HUBの階段を上がっているときに、哲也は足を踏み外した。

「大丈夫? 酔っ払いすぎじゃない?」とマリ。

 実際、哲也は普段の倍以上飲んでおり、まともに歩くことはできなかった。

「わたしについてきて」

 哲也は差し伸べられたマリの手をつかんだ。


 ホテルの部屋に入ると、マリは両腕を広げて、哲也を抱擁する仕草をした。哲也はそれに応じて、相手の中に飛び込むと、女の体の温もりや柔らかさを堪能した。それから抱擁を解くと、二人は見つめ合った。

「わからない? わたしのこと」

「えっ、俺のこと知ってるの?」

 マリは「フフッ」と笑って、逆立ちした。スカートが捲れて、白くて肉付きの良い脚と水色の下着が露わになった。哲也はその光景に興奮した。自分が見ているものに触りたいという強い欲望を感じた。マリは下着が見えていることを気にするそぶりも見せずに、そのまま逆立ちで歩き出した。その動作には見覚えがあった。「どう思い出した?」とマリ。

「あっ、もしかして、八木さん?」

 中学の頃、転校してきた逆立ちが得意な八木可南子さんだった。

「やっと気づいたか」

 可南子は逆立ちを止めて立つと、セーラー服の少女になっていた。

「嘘だろ。子どもとこんなとこ来たら、シャレにならないじゃないか」

「そういう君はどうなんだよ」

 哲也はまさかと思い、トイレの鏡を見ると、そこには学生服を着た、中学生になった自分が映っていた。

「な、なんだこれは?」

 可南子が鏡に映り込んだ。

「ああ、懐かしいね」

「『懐かしいね』じゃなくて、どうするんだよ。俺たち」

「中学生に戻るんだよ。明日から学校だよ」

「バカな」

「本当だよ。明日、ゴールデンウィーク明けの五月六日だけど、学校で会おう。わたし初日だから、よろしくね」

「……学校って、ここから何百キロも離れた場所だぜ。どうやって明日学校に行けるんだよ」

「このホテル出たら、家まですぐだよ」


 外は、灯りが少ない暗い場所だった。見覚えがある場所だと思ったら、郷里の役場前の広場だった。今自分たちが出てきた場所は公民館だった。

「どうなってるんだよ?」

「まあ、そういうことだから、明日ね」

 可南子はそう言うと、哲也と別れた。


 哲也はなす術なく、実家の場所に行くことにした。実家は五年前に解体されてなくなっていたが、そこには当時のままの実家があった。

(すげえな)

 哲也が家の玄関を開けると、そこにはまだ髪のある中年の父親がいた。

(マジかよ)

「おかえり、今日は塾か?」

「……ああ、そうだよ」

「早くご飯にせえ」

 台所に行くと、婆さんが洗い物をしていた。哲也はその姿にドキリとした。哲也が大学生の頃に亡くなっていたから。食卓には、天ぷらやだし巻き卵などの家庭料理が並んでいた。

「あら、今日は遅かったね~」

「……いただきます」

 哲也は目を赤くしながら飯を食べた。


 翌日、五月六日に中学二年生の哲也は教科書をぎっしり詰め込んだ学生鞄を持って、登校した。五月晴れの中、田舎の道を歩くのは清々しかった。

 教室に着くと、知った面々がいた。不思議と、哲也は自分の席がわかった。当時の記憶も保持しているようだった。

 朝のホームルームのとき、担任の先生に続いて、可南子が教室に入ってきた。教室がシンと静まり返った。

「八木可南子です。どうぞよろしくお願いします」

 担任の紹介に続いて、可南子が声を発した。おさげで子どもっぽい雰囲気だったが、昨日会ったビッチになり果てた可南子を思い出して、哲也はニヤけた。

 可南子は哲也の斜め前の席に着いた。哲也は彼女が席に着くときに、視線を投げたが、可南子はこちらを見なかった。

(はぁ、こんなことになるとはな。何というプレイなんだよ。しかし、あの夜死んだと思えば儲けものか)

 誕生日にもらった可南子からのプレゼント。自分はそれを無下にしてしまった。哲也は嬉しかったが橘真琴たちばなまことへの思いから受け取らずに、彼女を傷つけたのだった。中学生の頃は、女子との恋愛はどこか大っぴらにできないものがあった。それは日常を脅かす脅威のように当時は感じられた。結局、周りの目が怖かったのだ。

 だが、彼女がいた奴はいた。そして、彼らは一目を置かれていた。自分が選んだのは、より楽な道だったのだ。女子をどこか自分よりも劣る存在と見なすことで、向き合おうとしなかった。当時は享受していた気楽な日々を手放したくなかった。


 中学生としての生活はつつがなく過ぎた。哲也は部活と授業と自宅のトライアングルに適応した。国語の授業のとき、自分の作文を全員の前で朗読させられた。それは野球部に特有の五分刈りを題材とした作文だった。それは最初はショッキングだった髪型もやがては受け入れられるようになるという、学校が称揚する質実剛健を是とする内容だった。そこには打算があった。自分の意見ではなく、借り物の、承認済みの意見で自らを偽っていた。それは、教師を満足させるかもしれないが、思考停止でしかなかった。ひとり立ちできない子どもにとって、親や教師に気に入られることを目指すことは楽な道である。しかし、その代償は決して小さくなかっただろう。

「……五分刈りは、皆そうなので、あまり気にしなくなりました。髪型はそれほど大切なことではなかったことに気づきました」

 哲也は読み終えると、何とも苦々しい気分になった。野球部である以上、髪型には目を瞑ろう。では、周りと差をつけるにはどうするか? てっとり早い道は恋愛だ。しかし、容易ではないだろう。そもそも、会話できる話題がない。まずは書籍を通して、教養を身につけるべきだ(中学以降身につけた知識・教養はまったく保持してなかった)。

 しかし、離島の田舎ではそれも容易ではなかった。まずまともな本屋がなかった。インターネットがない時代なので、船で新潟までいかないと豊富な書籍に触れることはできなかった。結局、ここでは、狭い了見に閉じ込められるのは無理からぬことだった。

 またたとえ十分な教養を身につけたとしても、デートする店がない、周りの目を気にすることなく、二人きりになれない、といった理由から女子との交際自体が田舎では難しいものがあった。

 しかし、そうした障害にもかかわらず、哲也は何とかする気でいた。それは、恋愛を通して、ダサい自分から抜け出すという自己実現的な動機ではなく、哲也はチャンスがありながら、前に進まなかったことを大人になってからも後悔していたからだった。


 最初に哲也が橘真琴を意識したのは、野球部の練習でライトの守備についてノックを受けた後だった。

「ねぇ、わたしにもボール取らせて」

 後ろを振り向くと、橘真琴がいた。一段高くなっている道路がグラウンドの外縁になっていたが、真琴はそこに立っていた。哲也が答えに詰まっていると、彼女はグランドに降りてきた。

「ノックの球は無理じゃない?」

「そりゃあ、無理よ。グローブ貸して。ちょっとボールを上に投げてくれない?」

 そう言うと、真琴は軟式ボールを哲也に差し出した。彼女の目は輝いていた。哲也は何か嬉しくなった。

「じゃあ、行くよ」

 哲也はそう言うと、真上に白球を投げた。まだ陽の落ちていない青空に白球が吸い込まれた。真琴は球を追って、キャッチできると満足げだった。球を取るだけのことが真琴がやるとあまりにも輝いていた。

「ありがとう。練習邪魔してごめんね。頑張ってね」

 真琴はそう言って、グローブを返すと、去っていた。哲也は後ろ姿を目で追った。もっと何回もボールを投げて、キャッチする姿を見たいと強く思いながら。


 そのときがやがて訪れた。

「野球好きなんだ。今度、キャッチボールでもやろうよ」

 哲也は真琴からグローブを受け取るときに言った。

「えー、でもわたしグローブ持ってないし」

「グローブならぼくのがあるよ。今度の土曜日でもどう?」

「でも、場所はどうするの?」

「そうだな。S神社のスペースでいいんじゃない?」

「……わかった。いいよ」

 真琴はそう言って、はにかんだ。

「じゃあ、土曜日に」

 哲也はそう言うと、手に汗をかいていることに気づいた。ふと、視線を感じて見ると、遠く離れたベンチから可南子がこちらを見ていた。可南子は、野球部のマネージャーになったのだった。

(そうだ。可南子からアプローチがあるのだ。だけど、もし俺が真琴と良い仲になったらどうだろう? そうすれば、変わるのではないだろうか?)

 哲也はそうなることを期待した。


 土曜日の午後、哲也は徒歩数分のS神社の空き地に行った。五月晴れではなかったが、幸い雨は降ってなかった。ここはしかし、キャッチボールをやるには少しばかり狭いし、ボールを取り損なったら、ボールが崖下に落ちて、なくなる可能性が高かった。

 真琴は午後一時ちょうどに来た。ジーンズに白いトレーナーという服装だった。その服装には学校で見せる表情とは異なる、真琴のプライベートが表れていた。

「こんにちは」

 真琴は小さな笑顔を見せた。

「こんにちは」

 二人は向き合った。

「はい、これ、グローブ」

 哲也はそう言ってグローブを手渡した。真琴はグローブを左手にはめた。彼女の手にはやや大きそうだ。

「大きいかな?」

「うん、まあ、大丈夫だよ」

 それから、二人は狭い敷地が許す限りで目一杯離れて、ボールを投げ合った。真琴は女の子投げだったが、コントロールが良かった。またキャッチングも問題なかった。

 哲也は真琴とこうしてキャッチボールすることに強い快楽を感じた。それはある程度はお互いが共有している秘密に由来していた。誰が二人でこうしてここでキャッチボールをしていることを知っているだろうか? ぼくらは今、二人の世界にいるのだ。それこそはカップルへの一里塚ではないだろうか。

 普段の野球部での練習のキャッチボールとはまったく趣旨が違っていた。二人の間を行き来するボールは、お互いを近づけるように感じられた。よく会話のキャッチボールというが、キャッチボールの会話もあるのではないか。

 哲也はそんなことを考えながら、夢中でボールを投げて、彼女からのボールをキャッチした。そのうちについに、哲也は真琴が暴投したボールを取り損なった。すると、ボールは崖下に落ちてしまった。もう一つ予備のボールがあったが、もう十分にキャッチボールを楽しんだところで、休むにはちょうど良い頃合いだった。

「ちょっと休もううか?」

「そうだね」

 二人は神社の境内に並んで腰を下ろした。これは哲也が夢見た状況だった。真琴の衣服から洗剤の香りが漂ってきた。静かで、木々の葉っぱがこすれる音くらいしか聞こえなかった。二人で並んで座っていると俄に緊張が高まった。

「野球に興味があるなんて知らなかった」

「お兄ちゃんが野球やってて、その影響かな」

 真琴には四歳年上のお兄さんがいた。

「ああ、そっか」

「女子が野球できないって、不公平よね」

「まあ、体格が違うし、それに結構ハードなスポーツだし、しょうがないんじゃない?」

「そうかな~」

「野球部に女子が一人いてもやりにくいしね」

「それは、そうだけど」

「テニス部でいいじゃない?」

「う~ん、でも野球かソフトボールやりたかったな」

「そうなんだ。キャッチボールならいつでも相手するよ」

「えっ、ほんとに? でもわたしとやっても楽しくないでしょ?」

「……楽しいよ」

 哲也は目を反らして言った。顔がほてってきた。この状況で手を握れば良いのだろうが、とてもできそうになかった。もう相手を正視することも難しかった。中学生ならではの女子に対する気恥ずかしさがあった。哲也はこの場から逃げたくなったが、真琴との関係を飛躍させるチャンスの只中にあることを意識し、そのチャンスを追求することに集中した。

「学校はどう?」

「学校は……、うん、楽しいよ。いろいろと」

 真琴の声のトーンが上がった。哲也が再び真琴を見ると、彼女は微笑んだ。

「何が楽しい?」

「友達とおしゃべりしたり、遊んだりするのが」

「へぇ~……」

 哲也は会話を続けられなかった。

「哲也くんは学校、楽しい?」

「……何と言うか、新鮮だね」

「えっ、新鮮? どこが?」

「あっ、ごめん。間違えた。俺も部活は楽しいよ」

「野球部だもんね。そう言えば、転校してきた八木さんマネージャーになったでしょ」

「ああ、そうだね」

「彼女と話すことある?」

「いや、ないけど」

「彼女、逆立ちが得意なんだよ。知ってた?」

「えっ、ああ、知らなかった」

 真琴は可南子が体育の時間、逆立ちで歩いたことを話した。

「今度、逆立ち見せてって、お願いしてみたら」

「そうだね」

 可南子の話が出たことで、哲也は真琴と仲良くなるという目標を強く意識した。真琴と付き合えれば鼻高々だ。そうなれば、可南子からのアプローチもなくなるだろう。しかし、付き合うとは、こうして二人で時間を過ごすことだ。それが自分にできるのか。今でももう逃げ出したい気持ちでいっぱいだというのに。それよりも友達とゲームをやっていたほうが気楽で、楽しいような気がする。真琴は可愛いし、嬉しいのだが、何か緊張しすぎて、関係を進められる気がしない。

「さて、またキャッチボールする?」

 哲也がそう言うと、真琴はちょっと面食らった風だった。まだ話していたいようだった。哲也もそうしたかったが、如何せん話題も会話スキルもなかった。

 二人はそれからしばらくキャッチボールして、別れた。


 翌週の月曜日、哲也が登校すると、通路を挟んで隣の席の真琴から「おはよう」と声を掛けられた。哲也はそれに応えた。その挨拶は嬉しかった。こういう軽い関係が良かった。中学生にはまだ交際は早いのではないだろうか? だが、大人になってから女と付き合えないのは、中高生時代に彼女がいなかったことに大きな原因があるとしたら、どうだろう。

 次第に真琴とは普通に会話できる関係になったが、哲也は先に進めなかった。恋愛というイベントがいつも男子の友達に囲まれている日常と両立しなかった。男子は男子で、女子は女子で固まっていた。そうした中で、キャッチボールという枠組みを超えて、真琴と付き合うことは、途方もない冒険のように思えた。それは地図なしで外国を歩くようなものだった。そうした状況に加えて、哲也は別のことに気を取られた。よりいっそう肺腑を抉る思い出が哲也を捉えたのだった。

 休日に新潟・万代シティの大型書店で海外小説を漁っているときだった。

「哲也か? なかなか高尚な本を読むんだな」

 同じ野球部の一年上の中野明彦なかのあきひこ先輩だった。白パンツに英字プリントの黒Tシャツで、大人っぽく決めていた。

「こんにちは。いや~、ちょっと見てただけですよ。先輩も探し物ですか?」

「俺はもう買った。漫画だけど」

「そうでしたか。今日は新潟に何か用があったのですか?」

「まあ服を買ったりした」

 中野くんは服屋のものと思われるビニール袋を持っていた。

「いいスね」

 二人とも六時の船で帰る予定だったが、船の時間までまだ三時間くらい時間があった。そこで二人はダイエーの屋上にあるゲーセンに行くことにした。

 二人が選んだゲームは、二人同時プレイ可能な横スクロールの格闘ゲーム「ダブルドラゴン」だった。哲也は中野くんを立てながらゲームをプレイした。二人は同じ小学校の出身で哲也は中野くんを小学校中学年の頃から知っていて、大いに親しみを感じていた。それは彼のどこか動物的で、直接的な独特の接し方のためだった。たとえば、肩を組んだりとか、ふざけてゴミなどを人のポケットに入れたりとか。そういう態度には圧倒的に惹かれるものがあった。だが、いつからか哲也はそういう率直な友情の表現には反応できなくなっていた。

 そのとき、二人は何度もコンティニューして、ダブルドラゴンをクリアしたのだった。哲也は達成感を得ると同時に、中野くんと二人でやったことに大いに満足した。


 それから何か月かして、部活の三年生が引退し、世代交代した後、秋口に哲也がライトの守備についてノックを受けているときに中野くんが現れた。

「おう、しっかりやれよ」

 中野くんは、グランドの外で背後から声を掛けた。

「俺がついてるからな」

 当時哲也はその言葉にどう反応すれば良いのかわからなかった。ただ、機械的にノックの球をさばいているだけで、何もできなかった。中野くんがとんでもないことを言ったという気がしたが、それに報いる言葉や態度が哲也にはなかった。強い磁場を背後に感じながら、哲也は振り向くことができなった。引き裂かれるような思いだった。ノックが終わり、恐る恐る振り向くと中野くんの姿はなかった。

 今、それは哲也が待ち焦がれた言葉だった。哲也は電撃に打たれたような気がしたが、固まることなく、用意していた言葉を投げ返した。

「先輩、ありがとう!」

 哲也はそう言うと、中野くんの方を振り返って、右手でハイタッチの仕草をした。彼もそれに応えて、右手を挙げた。

 哲也の中で積年のどんよりした思いが解消した。晴れやかな気持ちになったところで、哲也は張り切ってノッカーの打球を追った。ノッカーの球はライナー性の当たりだったが、捕球体勢に入ったところで球が空中でイレギュラーした。次の瞬間、顔面に強い衝撃があった。鼻から血が滴り落ちた。

「おい、大丈夫か?」

 中野くんが駆け寄ってきた。哲也は痛かったが、嬉しくて笑っていた。

「笑ってるくらいだから大丈夫か?」

 それから可南子が来て、可南子と一緒に保健室に行くことになった。こんなことは当時ないことだった。もはや過去の繰り返しではなかった。当時とは違う行動により逸脱したのだ。


 保健室で哲也は鼻血が止まるまで、ベッドに横になることになった。可南子はベッドの側で椅子に腰掛けていた。室内の生暖かい澱んだ空気と相まって、よりいっそう沈黙が息苦しくなった。

「俺は大丈夫だから、戻ったら?」

 哲也は可南子の方に視線を動かして言った。

「……でも、心配だからもう少しいていい?」

「……どうぞご勝手に」

 可南子にHUBでの夜のことを訊きたいという思いが強まった。しかし、あまりに突飛な話なので、どう切り出したものかわからなかった。「俺たち本当はおじさん・おばさんだよね?」と訊くのか。しかし、可南子があのときの可南子でなかったら、気が狂ったと思われるのかもしれない。実際、今のところ、彼女から仲間であることを仄めかすサインはなかった。

 哲也は隣の可南子をちらりと横目で見た。彼女はじっとこちらを見ていた。

「学校はどう?」

 都会育ちの可南子がこの田舎をどう思うか興味深かった。

「学校は……楽しいけど、家がね。寮なんだけど、プライバシーがなくて。机の引き出しの中まで大人に見られるの」

「へぇ~、そうなんだ」

「だから、なるべく外にいたいんだけど、居場所がない」

「それは大変だね」

 哲也にとって「居場所」は、友達のタクの家だったが、それは男子だけのたまり場で可南子を呼べる場所ではなかった。女子にとって似たような場所があるのかどうかまったくわからなかった。

「でも、こっちに来て良かったと思ってる。東京の学校にいた頃のようにいじめもないし」

「いじめられてたの?」

「わたしよりも友達がね」

 哲也は会話を続けるべきかどうか迷った。なぜ可南子はこんな話を自分にするのか。哲也は可南子との過去を思い出した。図書館で二人きりになったとき可南子から手渡されたプレゼント。青春っぽい状況だった。しかし、当時、真琴のことが好きだったから断った。嬉しくなかったわけではないが。また同じことを繰り返すのか? しかし、今の可南子は当時の可南子とは違う。そして、真琴は四一の自分を知らない。哲也はふと可南子に逆立ちのことを訊いてみたくなった。

「ねぇ、また逆立ちしてみてよ。あのときみたいに」

「逆立ち? ここでは嫌だよ」

 哲也は「あのときみたいに」という言葉に込めた意味を可南子が理解しているのかどうかわからなかったが、あえて問いただすことはしなかった。

「そっか」


 哲也が中学生に戻ってから約九か月あまりが過ぎ、その間、哲也は真琴にも可南子にもいい顔をして、プラトニックな関係とはいえ、二人との恋愛的な状況を楽しんでいたが、いよいよのっぴきならない場面が来る気がした。というのは、中学生にとって一大イベントであるバレンタインデーが迫っていたからだ。これまでに前のように可南子からのプレゼントはなかった。だが、バレンタインデーでは大いにあり得た。哲也にとって真琴と可南子から選ぶのは酷だった。二人は同じ次元にはいなかった。真琴は純粋に過去であり、可南子は特異な存在だった。おそらくは同じ立場の可南子が自分に相応しいはずだが、真琴こそが哲也がアプローチしておけば良かったと後悔した相手だった。

 そのジレンマの中で哲也は選択できなかった。まさか二人の彼女はあり得なかった。今でも哲也は一部の男子や女子から白眼視されるか、またはやっかまれていて、肩身が狭かった。モテて羨ましいという奴もいたが、哲也にとっては、これは試練だった。

 ついに、その日がやってきた。朝から寒かった。教室に着くと、普段と雰囲気が違っていた。女子はどこかそわそわしていた。紙袋やら普通とは違う荷物を持っている女子も目についた。

 最初に可南子からアプローチがあった。哲也は可南子の呼び出しを受けて、放課後、自転車置場に行った。そこで可南子は「これ、バレンタインのチョコ」と言って。哲也にチョコを手渡した。そのとき、哲也は真琴のことを思っていた。どうして真琴ではないのか、と。

 哲也はチョコをすぐに学生かばんにしまった。まるでチョコを貰ったことを知られるのが恥であるかのように。

 哲也はその日真琴が誰かにチョコを上げたことは確認できなかった。それが救いといえば救いだが、チョコをもらえなかったことは悲しかった。


 家に帰ると、哲也は自室ですぐに可南子からもらったチョコの包装を剥がして、中身を見てみた。そこには、おそらくは手作りの小粒のチョコが数個入っていた。またメッセージカードがあり、「野球部の練習頑張ってね! いつも応援してるよ」と記されていた。それは哲也には嬉しいメッセージだった。こちらに何かアクションを求めるメッセージではなかったので、決断の必要はなかったからだ。

 哲也は部屋に一人になると真琴のことが気になってきた。真琴とのこれまでのキャッチボールの時間は何だったのか、と思った。哲也は真琴に恋人同士になりたいといったようなことを仄めかすことはなかったし、身体の接触もなかったが、その中で、自分が真琴にとって特別な存在になりたいと願っていた。

 真琴の存在は哲也にとって幸福の源泉だった。真琴との会話にこそ幸せがあった。特に真琴が自分の名前を呼ぶとき、哲也はくすぐったくて、とろけるような気分になった。

 哲也はジーンズにセーターにスタジアムジャンパーという服装に着替えると、もはや日が落ちた外に出た。真琴の家までは徒歩で数分だった。父親が内科医である真琴の家は、町で屈指の豪邸で、鉄の門で閉ざされた広い庭があり、門の前にはインターホンがあった。何度かその前まで来たことはあったが、実際にインターホンを押したことはなかった。もちろん今も押す気はなかった。彼女と出くわすことを期待していたわけでもなかった。

(彼女と出くわしたとして何と言えるだろうか? まさかチョコが欲しい、とは言えまい)

 あわよくば明かりの灯った二階に彼女の姿が拝めれば良かった。しかし、そうした幸運は訪れず、哲也は歩いて来た道を引き返した。

「哲也くん」

 哲也が酒屋の自販機の前でコーンポタージュを買おうとしていたときに、真琴が現れた。哲也はこの偶然を嬉しく思ったが、同時にさっきの自分の行動に恥じ入った。

「今帰り?」

「そうだよ」

「よかったら、何か飲む?」

「おごってくれるの?」

「うん」

「ありがとう。じゃあ、わたしも同じもの」

「川まで歩かない?」

 歩いて一分かそこらで、川まで来た。川沿いの道は舗装されいて、ランニングやサイクリングに適していた。二人は道路の柵に上体を預け、川の方に向いた。暗いので、自分たちを認識するには、近づかないと難しいと思えた。二月の寒々とした夕方にこの道を通る人は少ないだろう。

「今日はバレンタインデーだったね」

 哲也は他に話題にすべきことを思いつかなかった。

「そうだね」

「……誰かにチョコあげた?」

 哲也は絞り出すように訊いた。

「あげてない。哲也くんは誰かからもらった?」

「八木さんからもらったけど……、それは野球部のマネージャーとしてのものだから」

「ふ~ん、良かったじゃない」

 真琴はそう言って、コーンポタージュを啜った。

「……いや、別に俺はそんなに嬉しくない」

「えっ、そんなこと言ったら、八木さんがかわいそうだよ」

 哲也は応えずに、手を温めている缶から熱い液体を口に流し込んだ。意外なセリフだった。こうして暗がりに二人きりでいるのに、「八木さんがかわいそう」だなんて矛盾しているのではないか。本来なら抱き合うくらいのことをできるような関係にあるはずなのに。

「俺は君からチョコもらいたかったな」

 哲也がそう言えたのは、これまでのことを思い出して勇気が湧いてきたからだった。

「わたしから……。それは……」

 真琴の表情が曇ってきた。

「……あれ、そんなに嫌なの?」

「違うの。わたしも考えてたの。でも……ダメなの」

「……ダメって、なぜ?」

「それは……言えないけど。ああ、だけど、八木さんに優しくしなよ」

「今、彼女は関係ないでしょ」

 二人は見つめ合った。真琴は何が言いたげだった。しかし、無言で目を反らした。哲也は好意を伝えたくて、ダッフルコートの上から真琴の肩を抱いた。真琴は哲也の手を振りほどいて、「じゃあ、わたし帰る」と言って、一人で歩いた。


 翌朝、哲也は教室の自分の席から当校してきた真琴に視線を送ったが、真琴は一度も哲也と目を合わせなかった。一方、可南子は席に着く前にこちらを見た。哲也が視線を逸した。哲也はますます真琴に気持ちが傾くのを感じた。

 しかし、その日は真琴と一度も目を合わせることも、言葉のやりとりもなかった。

 テスト期間中のために授業が終わると全員すぐに帰宅した。雪降る中、いつもの友達と雪玉を投げ合ったりしながら哲也は通学路をたどった。道中、町で唯一の本屋に寄ると、中野先輩がいた。

「マネージャーからチョコもらったんだってな。やるね!」

「……よくご存知で」

 どこからかはわからないが、三年生にも知れ渡っているようだった。中野くんは、平田先輩と一緒に本屋を出るところだったが、哲也が中野くんに声を掛けた。

「先輩はチョコはどうでしたか?」

「うるせーよ。俺はお前のようなモテ男じゃないからな」

 哲也は友達と別れて、二人と一緒に歩いた。

「止めてくださいよ。ぼく、モテ男じゃないですから。ぼくもチョコ欲しかった子からはもらえませんでした」

「誰よ?」

「橘真琴です」

「ああ、あの子ね。かわいいよね。だけど、マネージャーはどうするんだよ? マジのチョコなんだろ?」

「……それは、どうだか。でも、どうせ付き合うなら好きな子と付き合いたいじゃないですか。先輩もそうでしょ?」

「まあ、そうだな」

 平田先輩が口を挟んだ。主将だった平田先輩は面倒見が良くて、後輩から人気が高かった。

「勝手にしろ」

 中野先輩が吐き捨てるように言った。哲也はその語気に気圧されて立ち止まった。

「これから、長尾でたい焼き食ってくけど、哲也もどうだ」

 中野先輩が振り返って言った。長尾商店は、商店街にあるイートインスペースがあるたい焼・たこ焼き屋だった。

「いいですね」

 店内にはすでに二年生の女子グループの先客がいた。自分たちが店内に入るとおしゃべりが止んだ。哲也はそれをすまなく思った。結局、三人は店を出て、歩きながらたい焼きを食べた。

 二人とも地元の高校に進学し、その後の進路についても哲也は知っていた。ただ、高校に入ってからはほぼ交流はなかったので、今こうして二人と歩いていると、しんみりとした気持ちになった。

(まさかこのままずっとこっちにいられるわけではないだろう。突然四一の自分に戻るか、またはその他想像もできないことに見舞われるかもしれないのだ)

「中学生も間もなく終わりですね。お二人とも進学先は決まってますよね?」

「R高校だよ」

 R高校とは、当時は同級生の九割以上が進学した地元の高校だった。

「高校でも野球やりますか?」

「どうかな。考え中」

 そう言う中野くんは、柔道部に入部した。

「怪我がなあ~」

 中野くんは付け加えて言った。硬球はなかなか怖いものがあった。最悪死ぬかもしれない。

「わかります」

「そこまでのことかな。俺らの一つ上の先輩は一人を除き、皆、野球部入ったぜ」

 平田先輩が言った。

「まあ一つ言えることは、覚悟は必要でしょうね。他の運動部に比べてやっぱりハードですし、危険も大きい。丸刈りにもしなくちゃならない」

「そういうことはすでに経験済みだろ。軟球が硬球に変わったからと言って、劇的に変わることかよ」

 哲也は野球部には入らなかったが、野球への未練は残り、よく家の敷地内で壁当てに邁進していた。代わりに始めたバドミントンも中途半端で、学校の勉強もつまらなくて、友達も彼女もいない――。学業一辺倒で独自に勉強していたが、相当にヤバい時代だった。暴走族の暴走行為は、迷惑だから取り締まりの対象になるが、暴走的な勉強はお咎めなしだ。だから、悪いことをしているという意識はなかったが、そうした勉強に時間を費やすよりも他にやることがあったのではないか。せめて読書とかならまだマシだっただろう。実際、大学に合格しても、生きていく指針のようなものがないので、迷走を続けるだけだった。

「野球を続けても、別のことを始めても、どっちでもいいんじゃないですかね。やりたいことをやるのが一番ですよ」

 哲也は平田先輩の言葉に考え込んだ風に見えた中野くんに言った。

 自宅に着いた哲也は二人と別れた。哲也は自室のベッドに横たわると、ラジカセでTM NETWORKの曲をかけた。不思議なことに、中学生の頃に聴いていた曲しか聴く気になれなかった。哲也はそろそろ潮時のように感じられた。もう中学生をやる理由もないのではないか。真琴の方は望んだ結果にはならなかったが、中野くんとは友情のようなものを維持できた。それで満足すべきではないか。

 そんなことを考えていると、婆さんから呼ぶ声が聞こえた。電話だと言う。哲也は一階に降りて、電話に出た。

「もしもし」

「わたし、真琴」

「ああ、どうした?」

 哲也の中で期待と不安が交錯した。

「うん、ちょっと話したいことがあって。今日これから会えないかな?」

「いいけど、場所はどうする?」

「よかったら、わたしの家に来てくれない? チャイム鳴らさなくていい。直接わたしの部屋に来て」

 真琴はそう言うと、真琴の部屋への行き方を教えてくれた。

 哲也は言われた通りに、家のチャイムも鳴らさずに、庭を歩いて、一階の離れにある真琴の部屋の掃出し窓まで歩いた。

 哲也がガラス戸を軽く叩くと、カーテンが開き、真琴が現れた。

「呼び出してごめんね」

 真琴はトレーナーにスウェットパンツの部屋着に着替えていた。部屋はファンヒーターが稼働中で暖かった。

「いや……」

 哲也は真琴の部屋に来たことに感動していた。ベッド、机、衣装ダンスなどの家具類は、自分の部屋とそう変わらなかったが、色や形がやはり女の子の部屋であることを主張していた。壁には哲也が知らないバンドのポスターが貼ってあった。

 二人は、小さなローテーブルを挟んで絨毯の敷いてある床に座った。テーブルの上にはティーセットがあった。

「紅茶飲めるよね?」と真琴。

 二人はレモンティーを啜った。

「はい、これ。バレンタインデー過ぎたけど」

 真琴がそう言って、テーブルの上に置いたのは、赤い包装紙に包まれた小箱だった。

「これはチョコ? 催促したみたいで悪いね」

「違うの。渡す予定だったの」

「そうか。ありがとう……」

 哲也はそう言って、説明を求めるように真琴を見た。

「わたしね。十三日に八木さんに言われたの。『哲也くんにチョコあげないで』って。八木さんは、もう哲也くんとキスしたって言ってた。だから、彼を惑わさないでって」

「嘘だ」

「ショックだった。でも、昨日哲也くんと話してやっぱり嘘じゃないかって思ったの。だから、やっぱり自分の好きなようにしようと思った」

「八木さんから好かれていることは知ってたけど、応えられなかった。なぜなら、ぼくは真琴さんが好きだから」

 真琴は俯いて、ティーカップの中に視線を落とした。

「ありがとう。嬉しい」

 真琴はこちらを見ないで言った。

「でも、わたしたちまだ中学生だし、これからもお友達でいましょう」

 そう言って、真琴は顔を上げたが、そのとき彼女の顔が歪んだ。

「誰ですか? 出ていってください!」

 真琴は上ずった声を出すと、慌てて立ち上がって部屋のドアまで後ずさった。そのとき、ティーカップが揺れて、紅茶がこぼれた。

 哲也はまさかと思って、部屋の鏡を見ると、そこには四一の自分がいた。

 掃出し窓から出るとき、哲也は真琴の方を見やった。真琴は怯えていた。チョコがローテーブルの上に置きっぱなしになっていた。しかし、取りに戻るわけには行かなかった。


 真琴の家の敷地から出ると、可南子がいた。同じように大人になった可南子だった。暗がりで可南子の表情はよく見えなかったが、愉快そうではなかった。

「戻るよ」

 彼女はそう言うと、一人で歩き出した。哲也は可南子の後に続いた。

「わたしね、充実した人生を送ってたの。つい一年前までは」可南子は哲也の方を振り返って言った。「二十代で結婚して、旦那とも上手く行ってた。インテリア雑誌の編集の仕事は、やりがいもあるし、楽しかった。哲也くんのことは、ニコ生で偶然見つけてね。最初は、わからなかったけど、何度か見ているうちに気付いたわ。よくコメントしてたよ。コテは付けてなかったけど。仮想通貨投資に失敗したのを見て、心配になって、探偵に住所を調べてもらったら、すぐにわかったの。で、土曜日は、探偵に尾行してもらって、あのHUBでご対面というわけ」

 可南子の話に、哲也は忘れたかった現実に引き戻された。

「わたしにも約一年前に辛いことがあってね。離婚されたの。流産がきっかけで。それからニコ生を見るようになったの。その中で他にも出会いがあった。夢の研究をしているドリーマーという生主。彼はついに夢の操作を実現したのね。そのとき哲也くんとドリーマーがわたしの中で繋がったの」

 可南子はそこまで話すと哲也の方を見た。

「続けて」

「オーケー。わたしは佐渡島で過ごした時期が今でも忘れられなくて。夢を見るにはその頃がいいなって思ったの。で、その頃わたしが好きだったのが哲也くんだったのね。せっかくだから、哲也くんもいっしょに夢の世界に招待しようって思いついたの。でも、今思えばそれは失敗だった。たぶんわたし一人だったら、自分の望むような展開になったと思うから」

 ということは、真琴も中野くんも自分の望み通りに動いたに過ぎないということなのか。哲也はそう考えると悲しかったが、一方でこのあり得ない状況の仕組みがある程度わかったことに安堵した。

 二人は川沿いの道に来ていた。

「さあ、もう戻ろうか」

「……そうだね」


 哲也は自分がラブホのベッドに寝ていることに気づいた。可南子の姿はなかった。枕元に書き置きがあった。


『今日はありがとう! 楽しかったよ。またニコ生でね! 可南子』


 ソファには自分と同世代の知らない男がいた。男は禿げていて、痩せていた。

「お疲れ様。気分はどうですか? 八木さんから聞いてると思うけど、ドリーマーです。二人同時というのは、初めてでどうなるかと思ったけど、意外に問題なく進んでホッとました。自分もお二人の夢に潜入して観察させてもらっていました」

「夢という可能性は考えていましたけどね。まあ、ぼくも楽しかったので、良かったです。今度放送を見せてもらいますよ」

「ええ、是非」

 哲也はそう言うと、起き上がろうとしたが、体に力が入らず、床に転げ落ちた。

「大丈夫ですか? あれから二十時間くらい寝ていたので、無理もないことです」

 床には、アタッシュケースに入った機器とヘッドギアがあった。

「宿泊料はすでに支払い済みなので、ご心配なく。先にお帰りください」

 哲也が何とか服を着ると、ドリーマーは言った。

「あの、夢での出来事は、現実には何の影響もないんですよね? つまり、実際には起こっていないことなんですよね?」

 哲也は念のために訊いてみた。

「何の影響もないはずです。もちろん、実際に起ってはいないです」

「……そうですか。わかりました」


 渋谷は夜の八時だった。非常に空腹だった哲也はつけ麺の店に入った。

 哲也はつけ麺を食べながら、HUBでの可南子のアプローチを思い返し、愉快な気分になった。その中で、彼女と性交してなかったことに気付き、残念な思いになった。今更、させてくれないだろうから。

 店を出ると、これからのことを考えた。月曜から工場での単調な仕事が待っていた。繰り返しの毎日。それでも、今となっては、死ぬ気は失せていた。(了)

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