運び屋の春

 ほどほどに寒さの残るすっきりとした空気が体を包む。

 春のまだ浅い、「桜はまだかー」とのんきそうな声がする時分。

 詩乃は相変わらず、六薬堂の奥の小上がりに座り、「寒い」と言いながら火鉢を抱きかかえるようにしていた。それでも、分厚い綿入れやらは脱いでいるので、そこは春を感じているようだった。

 だけど、今日のように寒の戻りが激しく、前日の雨と相まって寒さがひしっと肌に吸い付くと詩乃の不機嫌さが増す。

「ほらぁ、綿入れ片付けたの早すぎたんだよ」

 とブツブツ言っているのを無視して番頭が開店作業に勤しむ。

 大江戸桜はまだかいな―と春の訪れを待ちわびる子供たちが歌って通り過ぎていく。番頭は空を見上げ、今日は雲も逃げたので昼間は暖かくなるだろう。今はまだ寒いけれど、もうじきすると袖をまくっていなけりゃいけなくなるかもしれない。と、たもとに入れているたすきの重みを確認する。

 番頭が空から暖簾に目を下ろしてきて、珍しい男に目が留まる。

 がに股の、いかにも小狡こズルい顔をした男が近づき、「姐さん居るかい?」と言った。店主なのだからいるだろう。という顔をして目玉だけ店内の方へと動かす。

「相変わらずだねぇ」

 と男は言いながら暖簾をはためかせて中に入った。

 なぜ詩乃はあんなインチキな男を使っているのか解らない。あの男はコソ泥棒ドロし、ちんけな恐喝物言いなんぞするような男。だが、あの男が仕入れてくる情報は正確だし、あの男の足の速さで、いろんな場所の長屋に薬を運べたりする。便利は、たしかにいいのだが、やはり、好きにはなれない。

 番頭はそれでも、あまり顔の変化を見せずに店内に入り、番頭台に上った。

 ちんけな男は運び屋と言い、詳しい素性は解らないけれど、コソ泥棒ドロだったような足の短いがに股は、小上がりに腰かけてなおひどく曲がっているようだった。

「珍しいじゃないか、運び屋が店に上がるのなんか」

 詩乃の言葉に運び屋は苦笑し、「オレにも覚えがありましてね」と話し始める。

 いつものことだが、この男に前置きや、時節のあいさつなどと言う粋な文言は無い。ただただ、必要なことだけを話す。どこそこ長屋の婆が死にかけってぐらい咳き込んでいる。とか。あそこの長屋の若妻が子供ができないと姑から折檻されているとか。あちらの長屋の子供が夜泣きがひどいとか。

 とにかくそれだけを番頭に、いつもならば、番頭台横―番頭の居る番頭小上がりは通りに面していて、開け格子になっている―の格子越しにそれだけ言って立ち去るのがいつもだ。その時の訛声だみごえだけでも聞くに堪えないのに、今日はそれ以上の言葉を話すようだ。

「博打を、今でも行きますんで。解ってますよ、ほどほどだぁ。いや、いけないんでしょうけど、これでも情報収集ってやつでさぁな。

 まぁ、それでね、北堀端の(賭博)場に行きましてね、一局打って、あとは酒なんぞ呑んで情報を仕入れるんですが、賭けに関しちゃぁ、まずますの腕で。勝ちもせず、かといって大負けもせず、ほどほど楽しんでいる男が居ましてね。大工の利吉って男です。あの、つち長屋―大工たちが多く住んでいる長屋―に住んでいて、まぁいい歳して一人もんでねぇ。いや、別れた女房と、息子が居るんですがね。腕はいいそうなんですよ。

 それでね、別に、下手な打ち方をしているわけでも、そうそう、あの、将棋のお侍さん―博打将棋にのめりこんだ博打ギャンブル依存症―沼田様のようなんじゃないですよ。そういったものじゃないですよ。

 しっかりとしていて、仕事にも行っている。けれどね、あれですよ。酒がね」

 運び屋はそう言って苦々しい顔をする。

「解ってますよ。オレだって、身に覚えはありますよ。というか、だから、姐さんと会って、こうして姐さんに恩返ししてんだ。

 だからってわけじゃないんですよ。別にね、赤の他人が、酒で死のうがどうってことないんですがね、どうにも、こうにも、……こう、オレの、あの頃の、……解りますかねぇ?」

 運び屋の言葉に詩乃は首を傾げ、煙を燻らせる。

 詩乃ご愛用の赤いキセルがゆっくりと火鉢に帰り、

「それをどうにかしろっていうのかい?」

「いや、違いますよ。ほら、あれだ、世間話ですよ……ええ、世間話」

 運び屋はそういて後頭部に手を回し、「やっぱり、酒ってのはよくねぇですよね」と言った。

「ほどほどなら百薬の長っていうけどね」

「どの程度ならなんでしょうかねぇ?」

「そんなの、人それぞれだよ」

「ですよねぇ」

 運び屋のいつもらしからぬ態度に詩乃はキセルを火鉢に打ち付ける。

「いや、違うんですよ。ほんと、ほら、春だしね」

 詩乃が火鉢に二度打ち付けると機嫌が悪い。という合図―本人はそう思っていないようだが、―危険信号ととらえて、番頭以下みな身構える。

「はっきりおしよ。いったい何が言いたいんだい? お前の色でも具合が悪いのかい? その槌長屋にでもいるのかい?」

 運び屋はぎくりと背筋を伸ばし、顔を引きつらせながらゆっくりと立ち上がる。

「どこへ行く?」

 詩乃の言葉が当たっていると見えて、運び屋は口の中でもごもごと何かを言っている。

「別に、傀儡だけでも―薬の配達は―間に合っているんだけどね」

「そりゃ困る」くるっと踵を返す。

「じゃぁ、はっきり言いな、そうぐずられると腹が立ってしようがない」

 詩乃の言葉に運び屋は顔をしかめながら、

「な、名前は、おみち……、亭主の名は、利吉、息子は十で利一っていうんです」

「人妻?」番頭が思わず口を出す。

「オレの、生き別れた妹です」

 詩乃と番頭が目を丸くして驚く。

 そもそも、彼らは仲間の過去など知らないし、知らなくても仕事に支障はないと聞かない。家族の有無も知らないし、好き嫌いも知らない。そもそも本名さえ知らない間柄なので、運び屋に家族が居たなんて知らなくてもしようがないのだが、運び屋のその様子から家族は一切いないものと思っていただけに呆気にとられた。

「お前、妹が居たのかい?」

 詩乃がやっと言うと、運び屋は頷き、小上がりに腰かけ、

「オレが15で、おみちが五つの時にオレは家を出ましてね。おみち自体覚えちゃいねぇと思うんですがね。

 つい先日、槌長屋の近くにあるかんな長屋―これも大工がたくさん住んでいる長屋ですけど―そこへ薬を届けに行った時のこと。あの、大食い競争で食べすぎて唸っていたやつの家ですよ。そうです、そうです。

 そん時に、槌長屋の女将さんが長いこと空咳が出て困っているらしいというんでね、その人に紹介してもらって―いつもこうやって人を増やしてんですよ。そうじゃないと、いきなり戸を開けて、苦労してますか? なんて、怪しいったらありゃしないでしょう?―

 それで、そん時もね、案内してもらったついでにそこへ行くと、もう一月も空咳が出ているらしく、調子がいいと、こんこん。で済むようですが、いかんせん長引いているので、胸や腰が痛いと言っているようで」

「言っている?」

「……お袋そっくりで、驚いて、ろくに話を聞いてなくて、最初に、その、連れて行ってもらったおかみさんに聞いた程度しか」運び屋が頭を掻く。

「会った瞬間から驚いて何も覚えていないって?」

 運び屋は首をすくめて頷いた。

「あっきれたねぇ。あんたって人がねぇ。あんたが動揺するのは金を落としたときぐらいかと思っていたよ」

 詩乃の言葉に運び屋は苦笑いを浮かべる。

「それで、どうしろと?」

「行って、もらえませんか? 治療費をうーんと安く。オレが半分持ちますから」

 その言葉に番頭が仰け反る。その姿がおかしくて詩乃がほくそ笑む。

「別に、客なら行くけどね、……お前が運んだらいいじゃないか」

「いや、ちゃんと診てもらいたいんです。……オレは、ロクな奴じゃなく、15で家を出て、堺の方で死んだことになってます。親孝行もしてなけりゃぁ、兄貴らしいこともしてない。まぁ、火傷でこんなんになっちまった俺が出て行っても、解るわきゃありませんがね」

 運び屋は両頬に残るケロイド痕を擦る。

 運び屋の顔は火傷に寄るケロイド痕が両頬に垂れるようにあり、左目の辺りは青あざが残っている。それだからちんけなこそ泥棒どろと言ったのではない。運び屋として雇うきっかけが、盗みに入った家から出てくるところを詩乃と鉢合わせ、黙っといてやるから働けと持ち掛けたとか。これは、番頭がくる以前の話しで、坊主から聞いた話なので、……あの似非えせ坊主の言葉が間違いでなければ、運び屋は、泥棒なのである。

 背中を丸め、「無理ならいいんですよ」とつぶやいて居る運び屋に、詩乃が片眉を上げ、

「確かに、咳の度合いが解らないんじゃぁ薬を出せない。大工の女房つってたね? どうしてだろうねぇ、ああいう女将さんてのはさぁ。変な迷信を信じて民間療法をするくせに、他の専門職の話を聞かないんだろうかねぇ」

 以前、どこかの大工たちの長屋へ薬をに行った時も、屋根から落ちて腰を打ったところに、大根やら、柿やらの皮を張り付けていた。冷やすという点でのみ考えればよさそうに思うが、すぐに、その汁やらで皮膚が荒れ、打ち身以上に手間のかかる治療になった。

「しようがないなねぇ」

 詩乃はキセルから煙草を落とし、煙草入れに片付けると、外回り用の木箱に考えられる薬を入れた。

「では、あっしは」

「バカお言いでないよ。あたしが一人で行けると思ってるのかい?」

 運び屋が苦笑いを浮かべる。詩乃の方向音痴は知っているが、「おみちに、また、会うんですか?」

「お前さっき言ったじゃないか。いきなり戸を開けて、具合悪いですか? なんて言ったら怪しまれると。誰かの案内じゃないと無理だろ、」

 そう言われ、不承不承に連れ立って店を出た。


 北堀端の方は職人が多く軒を連ねている。特に、大江戸より北から来たものが移住して長屋を作っているので、その長屋独特の方言が聞こえる。とはいえ、今は関所の制限もされているので、ここに住んでいるものは、大昔大江戸改修工事でやってきた大工の子孫ということになる。

 鉋長屋の前を過ぎると、「あら、六薬堂の? 今日はきれいな姐さんをお連れだねぇ」という声に立ち止まる。

「あぁ、これが、六薬堂の店主の詩乃さんですよ」

「まぁ」

 という声色にいろんな意味が混ざっていると感じて運び屋を見下ろす。運び屋は常に腰を曲げ、がに股なので、女の詩乃よりも背が低い。

「いや、いい話しかしてませんよ。女将さんたち、頼みますよ。オレの駄賃が減っちまいますよ」

 運び屋の陽気で愛想のいい声におかみさんたちは賑やかに反応し、笑い声が上がる。

「それで、今日はどうしたんだい?」

「いや、ね、」

「最近、この辺りのご用が少ないのでね、こいつがもしかしたら営業をしてないのかもしれないと思いましてね。どうでしょう、どこか空き地を貸してくださったら、程度にもよりますが、診てさしあげますよ」

 詩乃がそういうと、世話好きな女将さんたちはささっと、近所でも一番大きな井戸端の空地へ案内し、筵を敷いたり、そこに庇をかけたりする。

「この庇は?」

 詩乃がそれを見上げる。

 井戸の横の家の軒から引き出し、引き出したほうにある木を地面に突き刺しながら「これ? 夏になったら、これを広げてね、ここでも子供たちを遊ばせるんですよ。あと、大人も、ここで涼むし。家の中は暑いからね、ここは風も通るから」

 そういう間に、簡易の出張診療所が出来た。

「ご近所さんで、最近具合が悪そうだわ。って人にも声かけてきておくんなさいよ。今は手持ちの薬が少ないけれど、こいつに後で運ばせますからね」

 そう言った瞬間、詩乃の隣に女がすっと近づき、墨と筆、紙を持ってそばに座った。詩乃が視線だけ動かすと、傀儡が首を傾げてほほ笑んだ。

 ―あいつ、いつの間に居やがった?―運び屋が苦々しく思ったが、運び屋は字が書けない。最近やっと読むことが出来るようになったので、割符を用いてちゃんとした患者に薬を届けることが出来るようになった。

 紙に二度同じことを書き、一枚を運び屋が持って六薬堂へ行き処方してもらう。そして、紙と薬をもって患者のもとへ行き、紙と照合してくすりとお代を交換する。運び屋はいちいち顔を覚えなくてもよくなったが、文字を覚えることに苦戦した。それでも、顔は変わるが、文字は変わらない。ウマいヘタはあれど一度覚えてしまったらあとは楽だ。と言われた。確かに、大店へ行くときも随分と楽になった。

 近所の長屋全ての人が来ているような賑わいで、単純なもの―擦り傷、あかぎれ―から、割としっかりとした薬がいる者までいた。その中におみちの姿も見えた。

 運び屋がにわかに緊張したので詩乃に解った。詩乃がわざとらしく咳払いをする。

「ちゃんと長屋ごとに割符をそろえておくんだよ。後で楽だから」

「あ……そうですね、いやぁ、さすが詩乃さん」

「褒めても、何も出ないよ。

 さて、あんたはどうしたんだい?」

 木箱で作った腰掛に向かっておみちが座った。女盛りの30少しだろう。肉付きがよく、やわらかそうな体系をしているが、たしかに咳に寄って眉間にしわがより、少し前屈みになっている。

「咳が、もう一月は続いていまして。昨日、そちらの方に相談しましたら、あの、」

「あぁ、あんたが。ええ。聞いてますよ」

「お薬をいただけるとかで、」

 詩乃がおみちをじっと見た。

「あの?」

 おみちが首を傾げると、咳をした。その瞬間、詩乃がその首筋に手を当てる。ヒヤッとして咳が止まったが、息を詰まらせて今度は咳き込んだ。

「あぁ、ごめん。咳の診察っていうのはね、意外に難しいんですよ。

 あなたの咳はちょいとしつこいねぇ」

 詩乃はそう言いながら再びおみちの首を触り、「上を向いて、口を開けて……、熱とか、鼻水とか、痰は? ちょいと失礼しますよ」そう言って袖をまくり頷き、「食事は摂れてる? そう、じゃぁ、一応、……いや、あとで調合して持ってくるよ」

「詩乃さん?」運び屋が困ったような声を出す。

「お前が調合するわけじゃないじゃないか。お前はここまで持ってくるだけだろ? 薬の余計な知識なんかいらないんだから、文句を言うでないよ」

「あ、でも、そこにあるのなら」

「……ちょいとね、生姜を足そうと思ってね。冷え性というほど冷え性ではないようだけど、咳のせいでろくに寝てないんだろう。顔色も悪いようだからね、ゆっくりと眠れるようにしたいんだ。まぁ、これでも構わないけれども、三日分ぐらいはと思ったが、どうする?」

「そ、そういうことなら、オレがあとから持って行きますよ」

 運び屋が声を上擦らせた。

「ということなのでね、じゃぁ、この薬に生姜足すで、向こうで紙を受け取ってくださいな」


 簡易診療所はたっぷりふた刻(およそ4時間)かかり、終わりったころには、詩乃も腰を伸ばし、疲れたようにため息を落とした。

「体が痛い」そう言って詩乃が腕を左右に大きく降って腰をひねる。バキバキと音がして運び屋と傀儡と三人で笑う。

「あ、あのぅ」

 おみちだった。やはり、肉付きの良い体つきで、特に腰回りがしっかりしていた。

「何か?」詩乃が聞く。

「そ、そちらの人のお名前を教えてもらえませんか?」

 おみちが指さす方をゆっくりと見る。位置的には、傀儡の奥に運び屋が居る。おみちの手先は二人を指している。

「どっちです? と言っても、……ねぇ。うちはね、本名を取り扱ってないんですよ」

 詩乃の言葉におみちが驚く。

「そんなに驚きますか? こいつらはね、向こうが運び屋、こちらは傀儡師と言いましてね、私の手足です。それだけで、それ以上ではないので、名前と言われても、それに、それを知ったからと言って、それで呼ぶわけじゃないしなぁ……。それよりも、なんで名前なんぞ知りたいんです?」

「え? いえ……、私には兄が居ましてね、年の離れた。生き別れた兄です」

「それがあれだと?」

「いえ……いえ……、兄は、堺の方で、奉公中の火事で死んだと聞いてます」

「あれは、一応生きてますよ?」

「ええ。ええ。そうです。そうなんです、けど。さっき、これを渡してくれる時、槌長屋のおみっちゃんて、その言い方が、兄ちゃんが呼んでくれていた言い方に似ていて、」

「年が離れていて、死んだ兄さんの言い方に似てるって……、そもそも、お客様をおみちゃんなんて言ったりしませんよ。少なくてもあたしの前では」

「そ、そうですよね。ちょっと、お父ちゃんに風貌が似ていたんで、それで、そう思っただけですね。すみません」

「いえいえ……あー、もし。もしですよ。その兄さんが生きていたら、会いに来たら、どうします?」

「殴ります」

「お、おお」詩乃がその即答に体を引いた。

「兄ちゃんが出て行った後、お父ちゃんは仕事に身が入らず、お母ちゃんも事あるごとに心配して。それでも、堺の方で仕事を見つけたという頼りに喜んでいたら、そこのおたなが火事にあったとかで、兄ちゃん真っ黒になったって。

 しばらくお母ちゃん寝込んじゃって。それでも、何とかあたしが祝言あげて、孫が出来たら元気になってくれて。

 なんで、出て行ったのかとか。帰りを待っていたのにとか。だって、帰ってきたのは、これだけですよ」

 そう言って帯につけていた焼け汚れた根付を見せる。

「火事の前日に、妹に送ってやるんだと言ってたって、お店の人が、すまないって言いに来て。だから、居ないの解ってるんだけど、」

 あとはかすれるようにそう言って根付を握りしめた。

 こんこんと咳をしながら根付を帯びに戻す。

「いけないねぇ」

 詩乃の言葉におみちが顔を上げる。

「そういうもやもやとしたものを抱えていると、治るものも治らない。いっそ出しちまった方がいい。とはいえ、その兄さんは死んじまって仕方ないからね。運び屋、」

 不思議そうな顔するおみちと、傀儡に背中を押されながら顔をゆがめる運び屋。

「言葉に吐き出すことで気が楽になる。ただね、相手が死んじまっていたら、いくらこっちで文句を言っても相手に伝わっているかどうかわかりゃしない。かといって、誰彼構わず文句を言うと喧嘩になっちまう。かといって、亭主や子供に言うなんてのは更にいけない。じゃぁどうするか。ほとんどが、人形だの、なんかものに言うけれども。

 今日は特別だよ。こいつを代わりにさせてあげよう。こいつならね、一応、その兄さんが言いそうな言葉は解らないけれど、それでも、すまないだの、悪かっただのは言える。それを代わりにして、思っていることの全てをぶちまけてみたらどうだい? 

 何なら殴ってもいいよ。こいつの顔はすでにぐちゃぐちゃだから、多少傷が増えたってわかりゃしないし」

「し、詩乃さん」運び屋が、なんてことを言うんだ。という顔をした。

「その咳もさぁ、もしかすると、もしかするとだけどね? その兄さん、今頃死んだんじゃないのかい? その命日が近づくと、どうにもこうにも咳が出る。ってもんじゃないかい?」

 おみちは少し考え、咳をして「そう、そうです。あと二日なんです。お店の方から聞いた命日は。私、本当に兄ちゃんのこと覚えてなくて、お供えしたいのに、何にも覚えていないから、悪いなぁと思うと、咳が、」

「ほら、やっぱり。……ね、多分、こんなブ男じゃなかっただろうし、こんなに足は短くはないだろうけども、こいつを代わりにしてさ、言いたいことを言っちまいな」

 おみちは運び屋の困ったような顔を見つめていたが、そのうち、その目と合うと、

「遊んで欲しかったの。ずっと。兄ちゃんが近所の子と遊んでいる間、私は病気でよく寝ている子で。だから、治ったその日に外に駆けて行ったら、おみっちゃん体、丈夫にな。って。あたちずっと追いかけて行ったのに、にいちゃ、戻ってこなかった」

 驚くほどおみちが子供のような言い方をし、泣き出したのでぎょっとして傀儡が詩乃を見た。多少驚いているようだが、詩乃は微動だにしなかった。

「あ……、おみっちゃん……泣かないでおくれよ」

「遊びたかったもの」

 おみちの泣き声に人が集まってきたのを傀儡が、なんとかかんとか理由をつけて人払いをしたが、みな、家の入り口で聞き耳を立てているのは分かった。

「母ちゃん?」

 背筋の真っ直ぐな、なかなかはっきりとした顔立ちの子がおみちに近づく。

「ああ、兄ちゃん。これ、息子の利一」

「兄ちゃん?」利一が首をひねる。

 運び屋は頷くだけだった。

 傀儡が利一を遠ざけ、耳打ちをしている。

「あの子はね、亭主のね、利吉さんに似て手先の器用な子で、いい大工になると思うんだよ」

「確かに、利口そうな顔をしている」

「そう思うかい?」

「ああ、オレには似てねぇ」

 おみちが笑う。

「あたしね。本当に寂しかったんだよ。本当に。兄ちゃんとの思い出が、あの別れの日だから。あたしが、病気ばかりしてたんで、兄ちゃんイヤになって出て行ったんだって、ずっと思ってて、」

「それは違うよ。おみち。オレは、田舎が嫌だったんだ。ただそれだけだ。だけど、寂しい思いをさせて、すまなかった」

 運び屋がおみちの両手を包むようにして握り、それに額をつける。

 おみちがしばらく泣き、そうこうしていると亭主の利吉も帰ってきた。

 おみちは利吉にも、運び屋を兄だと紹介した。不思議そうな顔をする利吉を傀儡が引っ張って、何やら説明をしている。が、全く聞こえない。

「兄ちゃん、うちに来てご飯でも、」

「それはいけない。オレは、死んでるんだ。飯は食えねぇ」

 おみちが短く声を出した。

「俺の好物はね、塩むすびだ。丸い握りがいいねぇ。ささの葉でくるんで、笹の葉の匂いのする奴が好きだ」

「……あたしも好きだ」

「いいね。オレは、お前をずっと見てる。仕合せであってくれればそれだけでいい。亭主を大事に、子供を大事に、お前も、体を大事にな」

 おみちは小さい子が頷くように何度も頷いた。

 傀儡が詩乃の側に近づいてきた。

「咳、止まりましたね。本当に」

「ただの偶然だよ。まだ残ってるはずだよ。気管支が弱いんだ。あの人。……にしても、長屋の連中や、子供、亭主になんて言ってるんだい?」

「……詩乃さんは、」

 傀儡が言葉を切る。

 おみちが詩乃のほうに近づき、

「ありがとうございます。なんだか、本当にすっきりしました。この人には、本当に申し訳なかったけれど。兄ちゃんのような気がして。どうしてだか解らないけれど。だって、まるで別人なのに。でも、なんだか、やっぱり、兄ちゃんのような気がして」

 詩乃がほほ笑み「そりゃ、あたしが散々、兄さんだと思えって念じたからね。いくら別人でも、兄さんだと思え。ってそうやってみていればそう見えてくるさ。それに、話を聞いた感じでは、相当小さいころ生き別れたようじゃないか。それなら、どんな奴でもそういう風に見えるもんだよ。それに加えて、寝不足で、咳のせいでしんどいんじゃぁ、精神的疲労で何かに縋りたくもなるさ。それで楽になるならって、そう思ったんじゃないかい?」

「……そうだと思います。ええ。そうですね。でも。本当に楽になりました。塩結びが好物なら、お供えに苦労はしませんしね」

「うちの従業員もなかなか気の配りがいいだろう?」

 おみちは微笑んで振り返ったが、運び屋はもういなかった。

「あぁ、薬の調合に向かわせたからね。さもないと、今日中に薬の配達には来られないからね。あぁ、そうそう。さっきので、多少気も楽になったようだし、血行もよくなっているようだから、これで大丈夫だろう。あと、昼間咳がつらい時にはこの飴をなめるといい。まぁ、その咳もすぐに治まるはずだよ」


 大工長屋群を後にする。すっかり昼を過ぎていて、「さっきから、腹の虫が煩い」と詩乃がむくれる。

「ところで、さっきの話しさ。お前、あの人たちになんて言ったのさ?」

「……詩乃さんは、妖しい術も使えて、今、催眠術で霊を呼んでいると」

「おい?」

「いやぁ、みんなすっかり信じましたよ。何て云ったって、あの二人の茶番の最中仁王立ちしていたんですからね。普通の女なら、心配して手でも揉みますでしょうに」

「傀儡?」詩乃の低くなった声に傀儡がひらりと飛び、ささっと走って角を曲がると、男の格好をして出てきて、ささっと走り去っていった。

 詩乃は傀儡が曲がった角を見たが、そこは家と家の間の物置になっているような場所で、着替えた着物も、人が隠れていそうな隙間すらなかった。

「なんなんだ、あの野郎は?」

 詩乃が苦々しくつぶやく。

「だけどねぇ。……茶番かぁ……おみちさんは、運び屋を兄さんだと気づいていたね。訳あって名乗れないのだろうって、察してた。そんな気がするが。もし訪ねても、あの時はぼうっとしててとでも言いそうだね。まぁ、いいさ。あたしが妖しい術でもってあの二人を再会させた。それで」

 詩乃は口の端を上げてほくそ笑み、六薬堂へと戻っていった。

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