一番大事なのは……
寒風吹きすさぶ日だった。昼間だというのにまだ道の朝霜が解けていない。行き交う人々の数も少なく、それでも行き交う人々は足早に、二重三重にした手ぬぐいを頭にも、首にも覆っているので奇妙な様子だった。
岡 征十郎はそんな中、首に襟巻と手ぬぐいの二枚を巻き、外套を着ているが、全く役に立たないと思いながら見廻りをしていた。辛うじて、懐の温石が温かい気がする程度の寒さだった。
こういう風も強く、寒く、乾燥した日は火事が起こりやすい。先日火付け盗賊改めの奉行が発表され、新たな組織が立った。もうそんな時期なのかと思ったら、急に冷え込んで、多分、今冬一番の寒さだろう。
こういう時、六薬堂の主人詩乃は、こたつから出ず、かいまきと綿入れを着込んで膨れ上がった状態で火鉢を抱えていることだろう。と思うと口の端が少し上がった。上がったが、顔がぱりんという音がした気がするほど寒さで顔が凍っていた。
人々は無駄な外出はせず、ただ、御用聞きの使いの者たちは足早に街を行き交っている。
「本当に、寒い」
岡 征十郎が吐き出すと、息のすぐそばからぱりぱりと音がする。首をすくめ外套の首元を引き寄せる。
「もう、しっかりしなさい、武士の嫁でしょう」
という甲高い声―実によく響く耳障りな金切り声だ―のほうに歩く。角を曲がったすぐそこで中年婦と、若い娘が居た。
中年婦は外套を着て頭も頭巾で覆っていた。
若い娘のほうは、外套など着てなくて、風呂敷包みが三つ、風呂敷を手提げふうにしたものを二つ側に落とし、そこに座り込んでいた。よくよく見ると、大きな腹をしていてそれを擦って、顔をゆがめている。
「いかがしました?」
声をかけると、中年婦は「なんでもございませんのよ、もう、愚図な嫁が大事な荷物を落として」と言いながらそのまま見下ろして立っているだけだった。
岡 征十郎が嫁のほうに近づく、
「大丈夫でございますか?」
「まぁ、町方に触られるなど、」
岡 征十郎は中年婦を軽く睨むように見上げ、眉を顰めると、すぐに嫁の手から荷物をすべて取り除き、
「腹が痛むのですか?」
嫁はひどく顔をゆがめ頷く。
「どうせ、重いだの言う言い訳ですよ。さっさと行きますよ」
という中年婦を無視して、岡 征十郎は通りに出て、駕籠を呼んだ。
「まぁ、駕籠なんて、ご親切に、」
と中年婦が乗り込むのを制して、岡 征十郎は嫁を乗せ、
「六薬堂へ。岡からの依頼だと言ってくれ、私は後で向かうからと」
と言った。そして落ちていた荷物を持ち上げ、中年婦を見下ろし、
「それで、これをどこへ運ぶんですか?」
と立ちはだかった。
六薬堂に駕籠が着き、駕籠かきから詳細を聞いた番頭が妊婦を小上がりまで運ぶ。もとい、番頭と、駕籠かき二人の三人で運んだ。
「岡って町方の旦那からです。旦那は後で来るそうですけど、どうですかねぇ」
「どうですかとは?」
「この方、東川様のところの若奥さんだけど、東川様の大奥様ってのが底意地悪くってね、今日だって、大量の荷物を持たせて歩かせてたんですよ、この寒空の下、この格好でね、道で倒れこんじまって、そこへ、町方がやって来て、荷物を持ってましたけど、すぐに解放されるかどうか」
詩乃は適当に返事をし、私室に火鉢を三つと、やかんと鍋に水を張って蒸気で満たし、部屋を暖めて診察に入った。
岡 征十郎は思った以上に早くやってきた。不機嫌そうな顔をしていたので駕籠かきが心配していたようなことが起こったのだろう。
「ご婦人は?」
「流産しかけていたようで、ご亭主のほうに連絡を入れてます」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫のようですが、」
番頭が説明をしているところに、詩乃が私室から出てきた。
「おお、ご苦労、意地悪婆の使いをしたって?」
と言った詩乃に岡 征十郎は苦々しい顔をした。
「あれほど底意地の悪い女を見たのは初めてだ」
詩乃が高らかに笑う。
「笑い事ではないぞ、風呂敷包みの中身は餅だった。ひと箱に二つ。一升(一生=約1.5㎏)餅が二個だぞ、それが三箱。醤油をとっくりに入れて下げたものと、酒をとっくりに入れて下げたものを計四本。それを妊婦に持たせていたんだぞ」
詩乃の顔が歪んでいく。
「臨月間近にかい?」
「産みがよくするためだそうだ」
「死産だってあり得るのに?」
「俺には解らん」
「でも、早々に帰していただいたようで、」
岡 征十郎は、番頭が差し出してくれた暖かい茶をもらい、ため息をついて一口口に含んでから、
「俺だって、上位の覚えのいい方もいる。その方のお宅へ行き、奥方が俺の姿を見て仰天されて、いったい何様のつもりで俺を小間使いにしているのか? と言われ、放免されたわけだ。一応、荷物は東川様のお宅までは運んだがな」
「東川様の奥様って、そんなに意地悪なの?」
「さぁな、だが、あれは根っからの意地悪だな」
詩乃が嫌そうな顔をする。
「そんな家に戻すのは忍びないないねぇ。無事生まれても、子供が捻くれちまいそうだ」
三人が同時にため息をついた。
それから半時経って
この平時の世に具足奉行所はあってないような閑職の一つだが、位などを誇示したい御家人のための職であって、ほとんどがこの徳則のようにやる気のなさそうな顔をしている。
「妻が、世話になった。ところで母は? 母が見えないが?」
岡 征十郎が口を開こうとするのを詩乃が止め、
「お母様はお屋敷に帰られていると思いますよ?」
「なんと? あさぎは母を一人で帰したのか?」
徳則の言葉に詩乃が顎をしゃくった。番頭は首をすくめ出来る限り遠ざかるように少しずつ移動した。詩乃が顎をしゃくると怒鳴るか、暴れるか、とにかく怒った時のしぐさだった。
「帰ってもらった。と言ったほうが正しいですがね」
「帰した? そなたがか? 何を勝手な、あさぎは母の伴で、」
「そのあさぎさんはいったい何者ですか?」
「はぁ?」
素っ頓狂な返事をする男だ。詩乃は目を細めて睨んでも、全く動じないのは、相手が不機嫌であろうがなかろうが気にしない、世にいう「ぼんくら二代目」なのだろう。
「あさぎさんは、あんたの何?」
「妻だと言っただろ?」
「妻は、姑の尻を追いかけて歩くものか?」
「嫁は家に嫁ぎ、私に支え、両親に支えるものだ」
「なるほど。では聞く、お前はあさぎさんの何だ?」
「お、お前?」
「お前が嫌ならてめぇだ。あさぎさんの何だ?」
「ぶ、無礼な、」
「答えられないなら、会わすわけにはいかない」
「お、お前ごとき商売女の指図など、」
徳則が一歩足を出すと、岡 征十郎が脇の刀を少しわざとらしく音を鳴らして抜く。ぼんくらには刀の使い方など知らないだろう。腰に差しているのも、このご時世なら竹光という可能性もある。そもそも、戦もないのに具足奉行などにいるような男に危機感などあるわけないのだ。
徳則が足を戻し、
「お、お前たち、何をしているのか解っているのか? これは、立派な犯罪だぞ?」
「犯罪? さて、どのような咎で?」
詩乃が腕を組んで仁王立ちになる。
「あ、あ、あさぎを誘拐している」
「医術を心得ている者から言う。流産の恐れのある患者を下界から隔離している。相手が将軍様だろうが、天子様だろうが、今あさぎさんに会える人は片手ほどもいない」
詩乃が右手の手の平を翳して見せる。
「りゅ? 流産? 何のことだ? あぁ、あの腹の話しか? あれは、あの腹はふん詰まりで、しんどいからとゴロゴロと寝ているから太ったんでは?」
「はあ?」
詩乃が大声で聞き返す。その声がよほど恐ろしかったのか徳則が身をすくめる。
「あんたはいったいあさぎさんの何だ? お前みたいなやつがあさぎさんや子供を守れるわけがない。おとといいきな」
詩乃はそう言うと、そばに置いてある―なぜだろう、いつからだろうか? 竹刀があって、それを振りかぶった。徳則は転げるようにして出て行った。
詩乃は鼻息荒く岡 征十郎を見る。岡 征十郎は「あとは任せた」と言われたようで嫌そうな顔をして外に出た。
「なんなんだ、あの女は?」
憤慨している徳則だったが、店から出てきた岡 征十郎に慌てて逃げようとするのを、腕を掴まれ、近くの茶屋まで連れていかれたのだ。茶を飲み、少し落ち着いたらしく徳則が吐き捨てるように言った。
「だがね、あなた様もあなた様ですよ。どうしてあれをただのふん詰まりだと思うんです? 所帯を持っていない私ですら、臨月近そうだと解ったのに」
岡 征十郎の言葉に徳則ははっと岡 征十郎を見たが、
「それは、ここしばらく、会っていないから」
「なぜ? 夫婦でしょうに?」
「母上が、」
「母上?」
「母上が、あさぎはすぐゴロゴロして、夕餉も待たずにさっさと食べて寝たというし、母上がいい布団を用意してくれたので、」
「……布団は妻方が用意するものでは?」
「あいつの家は格が低く、用意したものは、母上が用意したものの半分ほどの厚みもなく、」
「それで、寝床も別?」
「しかたないではないか、母上が、」
岡 征十郎が片手をあげて止める。
「もういい。……ねぇ、東川様? あんた、いったい何してんです? 嫁を取り、夫婦となったからには、あなたは一家の主ですよ? いつまで母上。母上。と言ってるんですか? 六薬堂の店主ではないですが、あなたはあさぎ様の一体何です? 今のままでは、あの店主はあなたからあさぎ様も、お子様も取り上げるでしょうね」
「な、そんなことなどできるわけない。母上が、」
「いい加減になさいな、私や、店主が言うことが解らないようでは、本当に、会えませんよ」
岡 征十郎は徳則の分の茶代も置いて立ち去った。
「子供がいるなんて知らないし、第一、母上が教えてくれなかった」
徳則は立ち上がり屋敷に戻った。
岡 征十郎がため息をつきながら六薬堂に戻った。
「おかえりなさいませ」
番頭に言われ眉をしかめる。詩乃が居ないので私室のほうを見ると、
「詩乃さんは、まぁ、何ですか、例の、怪しい男と出て行きました。あさぎ様もご一緒です」
「拠り所へ移動させたのか?」
「ええ、ここにあの親子が来るだろうからと」
「それがいいだろうな」
「それで、東川様は?」
「母上が、母上がと話にならん」
「
「まぁ、世襲職だから」
岡 征十郎の言葉に番頭が苦笑いをする。
「おかえりなさい。徳則さん」
徳則は自室で母に着替えを手伝ってもらう。
「母上? あさぎは懐妊しているのですか?」
「まぁ、誰がそのような嘘を?」
母親は顔を上げずに動揺を隠しながら聞く。
「役所のほうに使いが来まして、預かっていると。行ってみると、流産しかけていると言われました」
「まぁ、まぁ。そんな冗談。あさぎさんは食べすぎなんですよ」
軽く笑って脱いだ着物を入れた乱れ箱を持って立ち上がり、隣の部屋に片付けに行く。
「ですよね? まったく、母上が内緒にするわけないと思ったのですよ」
徳則は火箱そばの座布団に座り、炭をつつく。
「それで、あさぎさんは?」
「それが返してくれないというんですよ。私が、あさぎの何かと。しつこく聞かれましたがね。答えられないうちにはあさぎも返さなければ、子供にも会えないと脅すのですよ」
「まぁ、なんと横暴な、どこの誰です?」
「えーと、六薬堂とか言いましたか、粗野な女でした」
女? と首を傾げすぐ、(あの失礼な岡という町方の女ね)と顔を険しくさせる。
「まぁ……あなた、岡 征十郎という町方の同心をご存知?」
「岡 征十郎? ですか? あぁ、名前はよく聞きますね、大きな事件を解決したと、お奉行から特別褒美をいただいたり、老中のどなたからも何かをいただいたとか、あのままでいけば、町方与力か、それ以上のどこかへの出世もあるかもしれないという男ですが、どうかしましたか?」
岡 征十郎が思いのほか力があるらしいことに動揺する。しかし、女はただの町女、どうせ匿っているだけの女だろうからと母親は顔を上げた。
「い、いいえ、少し名前を聞きましたものでね、そう。えっと、六薬堂でしたね? 明日、私が行って連れ帰ってまいりますわ」
「お手数おかけします。母上」
開店すぐに東川の奥様がやってきた。鼻息が荒く、この寒空の湯気を出していそうな様相に、番頭は苦笑いを浮かべ、「いらっしゃいませ、おさむうございますなぁ」と愛想うよく迎え入れた。
東川の奥様は店を一巡した後で、
「あなたが店主?」
「いいえ、私は番頭でございます」
「店主はどこ?」
「店主は昨夜から急患が入りましたので、まだ来ておりませぬが、店主に御用か、特殊な症状でございますか?」
番頭は東側の奥様が早口になっていくのに比例してゆっくりとしゃべった。
「うちの役立たずの女を迎えに来ましたの、さっさとお渡しなさい」
と言った。番頭は(なんと定型文的な)と思いながら、
「申し訳ございません。奥様がおっしゃるような方はこの店にはおりませんが、どちらかとお間違えでは?」
「いいえ、こちらで間違いないでしょうよ。さっさと連れてこなければ、役人を呼びますよ?」
「…どうぞ、手前どもには一切おりませんから、家探しでもされてようございますし、」
東川の奥様はやっと番頭のほうを見た。にこやかに笑っているが、その目はひどく鋭く、不機嫌そうな視線だった。一瞬臆したが、咳ばらいをし、
「あなた方は解っているのかしら? 誘拐ですよ、」
と言ったところで、
「では、あなたのしたことは、殺人未遂でいいですか?」
と詩乃が帰ってきた。よろよろとしているので徹夜だったのだろう。
「おかえりなさいませ」
「荷物を取りに来ただけ、薬も足りない。運び屋も、傀儡も肝心な時に居やしねぇ。まったく」
そう言って小上がりから私室へ行き、風呂敷を広げて、数枚の着物をそこへ放り投げる。薬棚へ行き、引き出しから何種類かの薬を取り出す。
「さ、殺人未遂とは聞き捨てなりませんわ」
「いや、立派な殺人未遂だね、あのままで居たら、赤ん坊はおろかあさぎさんともども死んだだろうしね」
「そ、そんなわけありませんわ」
「臨月間近の女に重労働させる。下手すりゃ道でお産が始まるだろうね、それくらいぎりぎりだったけど?」
「生むためにはそのくらいしておいた方が生むのに容易いからですよ」
「だが、息子は、妊娠していることを知らなかった。ふん詰まり? よく言ったねぇ。子供が生まれたらどういう気だったか、」
「それは、あの子を仕事に専念させるための嘘ですよ」
「だ、そうだが、あたしにゃ関係ない話だがね、」
詩乃がそういうと、じゃりっと足音がして、東川の奥様が振り返る。そこには岡 征十郎と息子の徳則が立っていた。
「は、母上? あさぎは妊娠をしているのですか?」
「いえ、違いますよ、」
「でも先ほど、」
「はいはい、どいてね、急患が待ってんでね、」
詩乃が二人の間に割って入る。そして徳則を見上げ、
「あんたは、あさぎさんの何だ?」
ともう一度聞いたが、徳則は答えなかった。
詩乃はため息をつき、番頭に後のことを頼んで出て行った。
「あ、あの、あの女が、あさぎさんを匿って、後を追えば、」
東川の奥様がやっと言うと、徳則は黙って詩乃の後を追いかける。
「ですからね、あたしだって、あの女に言われるまで気づかなくて、」
詩乃のあとを徳則と追いかける東川の奥様は必死に説明したが、ありえない話だとそのあとをついていく岡 征十郎は思った。
詩乃は竹林のある庵に入った。
「ごめんください」
徳則が声をかけると中から空蝉が姿を見せた。空蝉は岡 征十郎に頭を下げ、それから徳則のほうを見上げた。
腰の曲がった老人だが、足音がまるでしないし、年寄りらしくない身軽さを感じるが、前の東川親子は全く気付いていないようだ。
「先ほど入った女に用がございますの、通してくださいます?」
東川の奥様は不躾にもそう切り出した。
「はぁ、しかし、今急病人が居りますゆえ、来客は、」
「うちものがあの女に誘拐されているのですよ、」
空蝉が片眉を上げ岡 征十郎を見た。岡 征十郎は(できれば、この男とは関わりたくない)と思いながら、少し頷いた。
「さようですか、では、こちらからどうぞ、主の居ます間にお通しします」
と言って庭へ行ける竹の門を開けた。
庭は非常にきれいにされていた。色づいて落ちた見事な紅葉以外何もなく、真っ赤と、飛び石の色合いでなかなか粋な庭だった。
「奥様、詩乃さまに御用の方がお見えで、」
そう言って表の間に案内されて岡 征十郎は驚いた。(確か、あの人は、)岡 征十郎は更科尼を認識する前に、岡 征十郎の隣に空蝉が立っていた。
「お知りになりますな、それは、詩乃さまが嫌がられることです」
と小声で言った。
岡 征十郎は更科尼から視線をそらし、頷いた。
「詩乃に何の御用でしょう?」
「うちのものがあの女に誘拐されてましてね、」
「……、詩乃が? まぁ。詩乃? お前、いつから薬屋をやめて、誘拐なんぞを生業にしたのです?」
とのんきな声を出す。隣の間から、詩乃が、
「バカをお言でないよ」
と返事をした。
「あそこに居るんですよ、徳則さん、さ、さっさと連れて帰りますよ、」
というが早いか、東川の奥様は無遠慮に屋敷に上がり、更科庵の前を通って襖を開け放した。
徳則はそれを止めるどころか、更科庵の正体に臆して口をパクパクと、陸に上がった魚のようにしたままでいたが、
「何やってんだい! お産が始まってんだよ! 不衛生だろ! 空蝉、叩き出せ、蘭子さんも何やってんの?」
「と言っても、この方が無礼にも行くから、」
と更科尼が言い、空蝉が東川の奥様を引っ張り、襖を閉める。
「あ、あさぎでは、なかったわ」
「あさぎ? あの方は、一ツ橋家の華様ですよ。駿河のほうに嫁がれて、お産のためにこちらに帰ってきて、私に会いに来た昨日、急に産気づいて、なかなかの難産で、私も眠いわ」
「も、申し訳、ございませぬ、更科尼様」
襖の向こうで、お産の痛みと戦いながらうめいた声で謝罪をする。
「いいのよ、華さん、蘭子さんは昨日たっぷり寝てんだから、……、ほら、頭が見えてきた。……空蝉、我聞様に使いを出して、半日の内だろうと、」
「承知しました、」
「いや、私が参ろう。空蝉殿は、この家で御用があろうから」
「そうでございますか? 岡様、」
「岡?」
岡 征十郎は更科尼に頭を下げて、空蝉から駿河家の一行がいる場所へと走った。
「あらぁ、あれが、岡 征十郎殿? ……詩乃、お前はなかなか面食いなのですね?」
「はぁ? 何? さ、華様、あと少し、」
更科尼は首をすくめ、座り込んでいる東川の奥様のほうに視線を向ける。
さすがに、更科尼の名前は知っていたようだ。小刻みに震えて、今にも気絶しそうなほどの顔色になっている。
「あれは、私の姪ですのよ。ですからね、お金に困って誘拐などと言うことはないと思いますわ。ですからね、もし、あなたたちからその……あさぎさん? その方を引き離しているというのならば、きっと、そのあさぎさんが重篤な患者なのだろうと思いますわ。詩乃はあえて人に危害を加えるようなことはしません。医者ですもの。あなたのように無礼にも人の家に無断に入り、断りもなく行動するようなことは絶対にありませんわ」
東川の奥様はそう言われはっと座と正し、更科尼に頭を下げた。
「め、姪?」
東川の奥様がつぶやき、頭の中でいろいろと思考が回る。
更科尼は大奥に上がっていないが、将軍のお手付きのあった方だ。その妹だったか、姉もまた、大奥の女中ですらなかったが、琴の奏者か、華道の家元だか、とにかくそういった宴でお手付きがあったらしい、そして身ごもったが、正式な側室でもないし、正式に迎え入れようにも、跡取りの居ない家なので、それを拒否したとか。それとも、将軍が穏便にしたいからと候献金を出したか、そう言った身分の人だったような気がする。噂だが、噂に過ぎないのだが。噂も、煙のないところに何とやらだ。
「あなたが、あさぎさんのご主人?」
更科尼がゆっくりと首を庭に向ける。徳則はまだ口を開けたままでいた。慌てて口を閉じ、頷く。
「あなたは、あさぎさんの何?」
「な、何? そ、それは、……、それを、あの店主、いや、その、」
「店主でいいですよ。実際店主ですもの、詩乃は」
「はぁ、……そう聞かれて、亭主だと。答えたのですが、」
「ねぇ? あなたはあさぎさんと一緒になって、お子さんをもうけて、いったい何をする気なの?」
「何を、する気? と、言いますと?」
「私は詳しいことは解りかねますけどね、でも、この状況を見た限りでは、あなたはあさぎさんの亭主とは言いえないと思いますの、」
「いや、ですが、祝言を、」
「祝言を上げただけでしょう? わたくしは一人ものですからよく思うのですけどね、祝言を上げたら、亭主は妻を守り、家のために仕事をする。そのために妻は家の仕事をする。子供を産む。そして、二人で子供を育てていく。ですがね、あなたを見ていると、あさぎさんはいったい誰のためにいるのかしら? あなたは、何のために仕事をしているのかしら? あまりよくわからないようだから、はっきり言いますとね、老い先短い母親の言いなりだと、母親が死んだとき、あなたはあさぎさんに捨てられ、あなたの家はあなたの代で終わるでしょう。一番大事なのは、あなたが一番大事にしなくてはいけない今です。両親なんぞ、あなたが死ぬまで生きていてくれませんよ。あなたを最後に看取る人はどなた? もし、あさぎさんだというなら、それは大間違いですよ。あたしだっていやですよ。そんな死にぞこないの母親の言うことしか聞けないような男の世話なんぞしたくありませんよ。女は母親になったら強くなるものです。子供が生まれたのなら、三下り半を叩きつけて出ていきますわ。私なら」
徳則は口をあんぐり開けて立ち尽くした。東川の奥様は額を畳みにこすりつけたまま身動きが取れなかった。
玄関がにぎやかになり、駿河家の一団が表の間に来て、やっと、東川の奥様は庭に逃れれた。そのまま帰ろうと思ったが、庭の戸の前に岡 征十郎が立っているので帰るに帰れなくなった。
甲高い声で産声が響くと、駿河家の若様が素早く立ち上がり、
「おお、いい声じゃ」
と喜んでいる声が上がった。
「ま、まだか? 赤子には会えんか?」
と急くのを更科尼がなだめる。そして、襖があき、詩乃が赤ん坊を抱いて出てきた。
「立派な跡取りですよ、正孝さま」
「おお、詩乃。ありがとう。そなたが居てくれるので、心丈夫だったぞ」
「ありがたいお言葉です」
「おお、小さいのぉ。……華は? 華はいかがだ?」
「だいぶお疲れですが、ほんのつかの間なら会えますよ」
「労わねばならぬ」
岡 征十郎が静かに息を吸い、
「あなたは、あの感動を味わうことを、あなたの母上に奪われるところでしたよ。あなたの母上は、あさぎさんの妊娠を知っていたし、道で産気づかせ、子供を流すか、あわよくば、産めなくなれば、離縁させる気でいたようですよ」
「な? なぜ?」
「あさぎさんの家があなたの家よりも劣るからでしょう。良縁だと結んだ縁でも、他人とでも比べたのでしょう。それに、あなただって、あさぎさんをそう想っていないようであれば、ますます邪魔者ではないですか? 私にはわかりませぬが、そもそもなぜ、あさぎさんと夫婦になろうとしたのでしょうかね? 家柄だのなんだのと言っているのに、」
岡 征十郎の言葉に徳則はしばらく考え、そして唇を噛んだ。
「林原様が好いていた相手で、しかし林原様はすでに婚約中で、私は林原様には何一つ勝てず、せめてと思い、それで、それで、」
徳則の言葉に岡 征十郎はため息をついた。
「いやぁ。大儀であったぞ詩乃。何か褒美を、」
一ツ橋様の言葉に詩乃は片手を上げ、庭に降りながら、
「いい、放っといてくれ。それとも、それほど何かを誰かに恵みたいのなら、敬寿園にでも寄付をしておくれ」
「……分かった。そのようにいたそう」
「華様は二、三日まだここに置かせてもらってくださいな、明日また来ます。では、おやすみなさい」
そう言って詩乃はふらりふらりと歩き出し、岡 征十郎のほうに手を伸ばした。岡 征十郎はその手を掴むと、詩乃はそのまま倒れた。
「駕籠のご用意が出来ております」
空蝉の言葉に頷き、岡 征十郎は詩乃を抱きかかえて運んだ。
駕籠に乗せ、六薬堂へと向かうよう指示をし、振り返ると、空蝉が立っていて、
「あとは、尼が何とか致しますので、詩乃さまをよろしくと、申しておりました」
と言って門を閉めた。
岡 征十郎は閉まった門に頭を下げ、駕籠と一緒に六薬堂へと向かった。
あれからどのようなことが行われ、何があったか解らない。
あさぎは以前知り合った旗本筒井家の年寄り辻本家に世話になっていた。どうせ後をつけてくると解っていたので、詩乃は更科尼伝いに頼んでいたのだ。
あさぎは流産しかけていたものの処置も早く、何より、子供が踏ん張っているせいか安静にしていればあとひと月近くは生まれることはなかろうと思われた。
あさぎが辻本家の世話になっているおかげで、奥方のわかがその世話に勤しみ、毎日楽しく過ごしたおかげで、厄介になって五日目、予定した日より早かったが、元気な女の子が生まれた。
徳則は毎日岡 征十郎の仕事場や、家や、帰路時に現れては何も言い出せずに唇を噛みしめて立っていた。何と言っていいのか解らないような、怒られた子供がしょげているような様子に、誰ともなく同情し、岡 征十郎に話でも聞けと助言してくる。
六薬堂に、東川親子が現れることはなくなり、あさぎの出産時も間に合わず、近くの、旗本専門の産婆が取り上げたと報告が来たのは、翌朝のことだった。
ますます冬が厳しくなり、今日は曇っていて、全く日らしい明るさがないせいで一段と寒い。
番頭は手をもみ、正座している足をその場でごそごそ動かしては少しでも暖かくしようとしていた。
詩乃はかいまきを重ね、火鉢を抱きかかえていた。
「邪魔するぞ」
岡 征十郎の登場で、一気に冷気が吹き込む。ムッとするがいつもの言葉を言う気力さえないようで、詩乃は鼻を鳴らすだけだった。
「あさぎさんは離縁を申し出て、辻本様の奥様のご実家に女中として入るそうだ。子供は女の子なので引き取ると言っていた。東川様の奥様も女の子は役に立たないと承諾したが、徳則殿は最後に会いたいだとか、考え直してくれないかとか言ってきたようだが、あさぎさんは一度も子供を見せずに出たそうだよ」
「最後の抵抗ってやつですね」
番頭が差し出してくれた片栗湯を受け取り、息を吹きかけ、そのトロっとしたものを口に運ぶ。
「はぁ、生き返る」
「今日は特に寒いですからね」
岡 征十郎は臓物まで温まった気がして湯呑を置き、
「徳則殿が具足奉行に辞表を出された」
「なんでまた?」
「独立するには手っ取り早く。だそうだ。そして身を起こしてあさぎさんを迎えに行くと言っているが、どうだろうな、」
岡 征十郎の言葉に詩乃も苦笑いを浮かべる。
「まぁ、どうでもいいさ。あたしにゃ縁のない世界の話。それよりも、早く暖かくなってほしいよ」
詩乃の言葉に岡 征十郎も番頭の口の端を上げた。
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