しをもって
―もう、私に残されているものは何もない。
ただただ、無念。としか言えない。
どこで間違った? 何をしてしまったかなど、後悔を口にしても、どうしようもないのだ。
もう、終わったことなのだ―
侍はとても細身な男だった。侍。というよりは、髷は武士だが、多分、学問を生業にしている人ではなかろうかと思われた。
だが、人気のない、盆でも、彼岸でもない寺の、一つの墓の前に座して、襟を滑らせて開いたところを見れば、今から腹を斬るところだろう。
「まったくバカバカしいったらありゃしない」
女の声だった。女の子? というには低いが、いい歳の女にしては少し高めの声色だった。
声のほうを見ればおかっぱ頭で、紺地に真っ赤な牡丹柄の着物を着た女が立っていた。年齢が解らないが、背格好からは成人していると思われた。
侍は無視して短刀を手にしようと、半紙の上に置いていた短刀に手を伸ばす。
「なんでも腹を斬ればすべてが治まると思っているその根性がバカバカしいって言ってるのに。本当に馬鹿だねぇ」
侍ははっきりと女のほうを見た。
「何? 斬るんでしょ、どうぞ」
「……、そなたは何をしている?」
「あんたが死ぬのを待ってる。できれば、きれいに死んでおくれよ」
「きれいに?」
「そう、腹かっ切ったぐらいじゃ死なないからって、ぐりぐりやって内臓を傷つけないようにね。大事な解剖材料だから」
「解剖? なんだと?」
「何よ。死んで、そこに転がるなら、医術のために役に立ちな」
「なんと、」
「ほら死ぬなら死んじゃってよ。台車も呼ばなきゃいけないんだから」
侍は女の方をじっと見つめた。どう見積もってもこの女が医術を心得ているとは思えなかったのだ。
「お前は、医者の父親でも持っているのか?」
女は首を傾げ、不可思議な顔をしてから「どうしたらそう言う思考回路に至った?」とさも馬鹿にしたような口調で言った。
「いや、おぬしは、」
「なんだ? 女が医術を学ぶなどありえないか? だからバカは嫌なんだ」
今まさに死ぬところだった侍はさすがに頭に来たようだった。
「おぬしは、何度も、何度も」
「お前の母親は、お前が病に伏せっている時に、かゆを作らなかったか? 効くと言われている薬湯を煎じ飲ませてはくれなかったか? いうなれば、母親はその家の薬師で、医者ではないか? そして、母親は、女ではないのか?」
女はそう言って侍の側に近づき、
「何をして割腹なんぞしようとしてる?」
その声が低く、とても同じ女の声だとは思えなかった。ぞくっと背中を這うような責め立てられている錯覚すら覚える声に侍は思わず身じろいだ。
「そ、そなたに言うても、」
「赤の他人にこそ言えるモノじゃないかい? 言ってしまえば病は治るともいうだろ? それに、あたしはあんたよりは子供だ。多分、この寺に住む座敷童だろう。どうだい? 話してみなよ」
侍は顔を上げた。寺から読経の声がかすかに聞こえている。風がふいと過ぎ、自分が焚いた線香の匂いが鼻を過ぎる。
「……いや、そなたに言うても、」
「座敷童。お前よりは長く生きてる。見た目は子供だがね。ほら? どう?」
女はそう言って隣の墓側に置いてある石に腰かけた。
「なんと罰当たりな、」
「これは荷物を置いたり、腰かけるために、ここのばあさんが置いて行ったものだからいいんだよ。さすがのあたしだって、墓に腰は下ろさないよ」
そう言って首を傾げた。
そう言った女を見れば、かなりきれいに整った顔をしている。美人と言うのだろうが、全く温かみを感じない。作られたような顔の整い方をしている。だからなのだろうか、もしかしたら本当に、座敷童かもしれないと思うようになってきた。
「私の名は、」
「いい、どうせ、死ぬようなやつの名前なんぞ覚えたらあとあと嫌な思いしか残らないから。名乗るな」
侍は首をすくめ、たしかに名乗ったところだでどうだろう。と思い、「とある藩勤めの薬師だ」と言った。
女の態度は変わらなかった。侍は少し驚くかと期待しただけに、反応なしと見て話を続けた。
「先日の長雨の時期に、勤めていた藩主の、奥様に呼ばれ
「長雨の所為であろうか? 胸がつかえて食がわかぬ」というので、薬を処方したが一向に治る気配もなく、そのうちに、吐き気まですると言い出したのだ。
私は、私の医術に誇りとぜったいの知識を持っている。なのに、なぜか、奥様に差し上げた薬はことごとく私の治療の逆の症状を見せる。
ついには、奥様の担当を外されてしまった。もう、これはと、母の墓前で、」
「奥様ってのは、」女が石に下駄をぶつけるように足をぶらつかせながら、「太ってるのじゃない?」と聞いた。
「な、そのような、」
「太っているものに、普通の胃酸を抑えるものを処方しても逆効果になる場合があるよ。ましてや、その奥様っていうのが、薬を飲んでいながら暴飲している可能性は?」
「そ、それは」
「あんた、藩の薬師なんだろ? お偉いさんたちの体を見るのが仕事じゃないのかい? しっかり見ないといけないのじゃない? 管理ができていないものは毒に匹敵する。薬も、薬として飲むから薬だが、おろそかにしては毒になる。そうじゃないかい? こんなところで腹出してる場合じゃないよ。早く帰って、間違った薬を飲み続ければ、胃に穴が開くかもしれない。そう、習わなかったかい?」
女に言われ、侍は、うむ。と唸り、たしかに言うとおり、と襟を正し、草履を履く。
「あ、そ、そなたは、本当に座敷童か?」
女は失笑し、「あたしは六薬堂の店主、詩乃って言います」と言った。
ふと、名前を聞いて、あぁ人間なのだ。となぜだか理解した。
詩乃は手を振り、「早くお行きよ、薬師の旦那」と言った。
侍は「ごめん」と言って駆けだした。
あれから半年が経った。
あれは暑い日だったのに、あの日に限って全く暑さも、寒さも感じなかった。ただただ申し訳なさと、自分の診断の間違いに落ち込んでいた。
だが、詩乃と会い、大急ぎで帰り、藩主に許可を得て、奥様の体の触診をすれば、奥様の体は案の定の体つきだった。そして、薬を飲んでいるからと、お菓子の類を少しも減らそうとせず食べ続けていたという。
すぐに、お菓子の数、食事制限をし、薬を変えると、三日ほどで改善された。
それからはとにかく藩の皆に信頼され、毎日忙しく過ごしていた。
初霜が降り、足がかじかむ。外廊下のへりについている霜に、ふと詩乃を思い出した。あの女は、夏でも真っ白い肌をしていた。
何の気なしに顔を上げ、庭を見る。葉がすっかり落ち、紅葉も赤黒い葉を必死につけていた。
南蛮の珍しい薬が手に入り、その薬の勉強会が、薬術学会で開かれると聞き、侍は参加した。
よく見るどこかの藩の薬師や、町の薬師たちが大勢集まっていた。
人で込み合うとその熱気で室内がほんのりと温かくなってきた。その時、戸を全開にして女が入ってきた。あの女―詩乃だ。
相変わらず、紺地に真っ赤な牡丹柄の着物を着て、おかっぱ頭をしている。
「女が来るところではない」
などと言う声に一瞥を投げ、詩乃は主催者である小早川医師が座っている上座を見た。
「いやいや、詩乃は、……六薬堂店主どのはかなり医術について詳しいので、ぜひぜひと私が招いたので、どうか、皆さん解っていただけますか?」
と言われたが、大江戸医術界の重鎮でもある佐竹
「六角堂のぉ。元気しておられたか?」
「普通に」
「相変わらず寒いのは苦手のようじゃ」
「じじいは平気かい? 心の臓をいたわりなよ」
「ははは、わしが死んだのなら、お前がわしの体を切り開くがいい」
「……ジジイの体を開いても、役には立ちそうもないなぁ」
「そうか、役には立たんか」
「ああ。だから少しでも長く生きて、その頭に蓄えた知能をすべて吐き出していくんだね」
「うむ。そういたそう」
耕安は孫をいつくしむように詩乃に微笑みかける。詩乃も詩乃で、言葉は強いが笑顔で言っているので、二人の間にはこういうやり取りが成立するのだと解った。
「それで、いったい何だって話です?」
詩乃が小早川のほうを見た。
「新たに薬を調合したという話しが出てな、だが、それがひどいもので」
耕安がそう言って助手の一人に、みなに行き渡るように薬の包みを手渡した。
包みを広げると、黒や茶色の粒の混じった見た目にもよろしくない白い粉が出てきた。
「これは?」
「なんだと思う?」
薬問屋たちが聞くのを耕安がにやりと笑って聞き返した。
詩乃はそれを指につけこすり合わせ、舌に乗せて眉をひそめた。
「……でんぷん……しかも、
「さすがじゃな」
「……これを何の薬だって売ってるって?」
「何の薬だと思うね? 皆の衆? これは万病に効く安中散を超えるその名も不老薬。として売り出されておった」
ざわつく。
「しかも、わしらが決めた安中散の価格の半額にしておるので、人が飛びついてな、これをどうにかせねばと思うのだ」
耕安の言葉に小早川先生があとを引き継ぎ、役に立たないこの薬と本物を区別する方法や、そもそもなぜこのような薬が出回るのかを話し合った。
昼時になって解散しようかという声が出たところだった。
「そういえば、また、とある村で流行った風邪で人が亡くなっておるようだ」
「流感か?」
「いや、熱はさほど出ないようだが、咳き込み、あまりにつらいようで、そのうちに意識を失うというものだ。何年か前に流行ったであろう? 山奥の宿場町で。あれと同じではないかと思われるが、いかんせん、それの治療も春とともに治まったというので、解らぬがな」
「そんなものがあったの?」
「詩乃は、まだ……まだの頃だろう。
山奥に宿場を取るところでな、山越えを考えて必ず人がそこに泊まるので、大変な賑わいのある場所だったが、ある時の冬。急に流感ほど高熱があるわけではないが、なかなか熱が下がらず、咳がひどく、その咳でろっ骨を折ってしまい、それが肺を刺して死んでいたという者が現れ、そこの宿場からの要請が大江戸の役所に届けられ、我らの中の数名が向かったが、一向に原因も治療法もない」
「咳は、どんな感じ? 空咳? 湿った咳?」
「両方いたが、重篤したのは湿ったほうだったな」
「何を処方した?」
「咳止めと、解熱に効くものを」
「麻黄湯? 老いも、若きも?」
「それが通例であるからな」
の一言に詩乃が不機嫌に鼻を鳴らし、嫌そうな顔をして、
「通例なんぞが何の役に立つ? 現に、その村では何人もの人が亡くなったんだろ? 薬が違うとは思わなかったのかい? 自分たちの見立てが違うって思わなかったのかい?」
「そうは言うが、薬はそれしかないし、」
「薬が効かないなら作ればいいじゃないか。バカか? 何のために薬の知識を持っているんだ? 患者に合わせて調合しないと、そんなもの効くわけないだろう? それで、今度も同じような症状だって?」
詩乃の言葉にムッとしたらしいが、いやいやながら頷く。
「そこはここから遠いのかい?」
「行く気か?」
耕安の言葉に、「近ければ。だってね? もしそれが大江戸に入って来てごらんよ。こんなところで悠長にいられないだろう?」
「薬を持って行くのか?」
「多少はね。……何?」
詩乃は大したことは無いような顔をして見返した。
「いや、金はもらえんぞ。今度のはひどく貧しい村で、」
「だから? 大江戸に入って来てから薬を調合しても間に合わないってさっき言ったろ? バカか?」
詩乃はそう言うと荷物を持ってそこを出た。
「なんなんだ、あの女は?」
という連中の中で数名、「本気で行く気なのでしょうか?」という声も上がる。
「あれは行くだろうな。うちのところで一人道案内と荷物持ちに同行させますよ」
「わしも若けりゃ行ったのだが、そうだ。お前、詩乃からいろいろと学んでくるがいい」
と一人の弟子に言った。弟子は頷いたが行きたくないような顔をしたのが解った。
侍薬師は藩屋敷に戻った。
藩屋敷でも藩主が住んでいる主殿から離れているので、裏門から出入りする。
「あ、帰ってきた。大変ですよ」
そう言われて走ってきた女中の後に付いて行くと、将来を誓い合った女が床に居た。
「どうしたのだ? 今朝は元気だったではないか?」
侍薬師はすぐに額に手をやって熱を測り、脈を図り、下瞼を下げた。
「急に咳き込んで。そしたら急に意識失って庭に倒れていてね。今だって、咳している以外はこうやって寝ているだけで。返事もないし」
侍薬師はぞっとした。
侍薬師の脳裏にある光景が浮かんだ。
賑わっている宿場の薬湯茶屋だった実家。足湯や、薬湯を提供し繁盛していた。近所には仲のいい子だちがわんさか居たし、大人たちも上機嫌だった。
ある冬の日。一人が風邪をこじらせて死んだという。それが最初だった。咳をしすぎて疲れて死んだらしいと笑っていたが、次々に風邪が蔓延していった。
仲の良かった子供たちの数も減っていった。だが、あまりにも幼すぎて誰が死んで、誰が村を捨てたのか覚えていないが、それでも、あの冬の日の、咳がずっと聞こえていた村は忘れられなかった。あれが煩くて眠れなくて、だから、薬師になって直してやると思っていた。
―今まで忘れていた―だが、目の前の、自分の大事な女が同じような症状でいることにぞっとした。
助けなければ―。まずは麻黄湯。と立ち上がって、詩乃の言葉を思い出す。
―患者に合わせた薬の調合……と言われても―
季節が廻り。春になった。
とある村で発生した風邪では死者は出ず。大江戸にも入ってこなかった。
侍は真新しい卒塔婆の建つ墓の前に正座していた。
「あんたはよくよく思考より死を選ぶんだね」
目だけを動かせば詩乃が立っていた。ほんの少し体が上気する。
「……今回は、本気か」
詩乃はあの春の日と同じく、隣の墓主が置いている石に腰かけた。
「今回は見届け人になってやるよ」
詩乃の言葉に侍は冷たく言う「何故かとは聞かぬか? さすがに、お前のせいだと言われたくはないか」と言った。
詩乃は黙って首を傾げる。
「お前が、お前が早く薬を作っていれば、あれは、あれは死なずにすんだのだ」
侍は突っ伏して声を出して泣いた。嗚咽が静かな墓場に響く。
詩乃が新しい卒塔婆を見る。
「そうは言うが、あんたも薬師なら薬を作れただろうに? なぜ作らなかった?」
―なぜ? なぜ? なぜ?―
「ただ一人の患者のために貴重な薬を分ける余裕はない」と藩主に言われた。
だがそのあとすぐに、一人娘が同じような咳をし始め、急いで薬を作れと言われた。薬は完成した。ほどなく、遠く離れたあの村で薬により村人全てが十日ほど前には完治したと連絡が入った。
侍薬師の作ったものは、詩乃たちが作ったそれとほぼ同じものだった。藩主の姫に与え、その夜には咳は収まり、三日ののちにはすっかり良くなった。
なのに―。十日も前に薬は完成していたのに、侍薬師のもとには届かず、そして、侍薬師は、大事な人の最期にも立ち会えず、薬堂の中で、藩主の娘のために薬を作り続けていた。
「作っていた……。私だって作っていたのだ。あと少し早く取り掛かりさえすれば。あれは助かったのだ」
「なんで早く作らなかった?」
侍薬師は言葉を詰まらせる。藩主から薬をもらえなかったから。
「お前は、万人のために薬を作るのではなく、我が藩のこの藩邸内の人間のために薬を作るのだ。それ以外に与えるような薬など作らなくともよい」
と言われたから―。それに従うことがお勤めしている義務であり責任であり、それが仕事だから―。
「どうせ、武士のなんたらというのだろうけど。それで大事な人の一人も救えないようじゃぁ薬師なんて、いや、医術を志すものとしてあっちゃぁいけねぇと。あたしは思う。
自分の中に、自分の大事な人を守るという気構えがないやつは、医術に携わっちゃぁいけない。その気持ちがないやつは絶対に見誤る。そしてその重大さに気づかずに、大事なものを無くす。
あたしは思うのだがね、医者も薬師も、先を見越して万時よろしくできる仕事じゃない。病が生まれ、病が人に悪さして初めて必要とされる。だが、もし、もしもだよ? その病が生まれる前に手を打てることが出来るなら、それが一番いいことだと思う。
そのために、大事な人を守る医術を探さなきゃいけないのだと思う」
「大事な人を守る医術?」
「予防医療とでもいうかね。風邪をひきやすい時分には、手を洗い、うがいをする。風邪というのは、汚れた手に付いた―咳やくしゃみ、鼻水なんかを拭いた手のことだがね、その他、他人の咳や、くしゃみなんかも知らず知らずにもらっているかもしれない―悪さするやつらを撃退するには手を洗うことが大事だという。うがいはのどのイガイガを流すし、のどを潤す。飴なんかもいいねぇ。
そうしておけば、もし風邪を引いたところで軽くて済むなら、手洗いうがいを推奨したくなるだろう? それを予防医療というんだよ。
かかっちまって、重篤しないと手が出せないなんてのは悪い医者だよ。金儲けのね。金にならない手当てをする医者こそ。本当の医者だとあたしは思う。
それにね。医者なんかが大儲けする世の中は不幸だ。医者が儲けるときには、世の中患者ばかりだってことだろう? そんな世の中。幸せなわけないじゃないか。だったら、幸せな世にするためには、医者は暇になるよう努力しなきゃいけない。
どうせ死ぬのなら―。うちで働かないかい? どうせ、今いるところで働いていても、今回と同じ思いをするだけだと思うからね。まぁ、好きにすればいい」
詩乃はそう言うと石から立ち上がり、下駄を鳴らして立ち去った。
それから数日ののちには、侍薬師は六薬堂を訪ね、竹林にある庵に連れていかれた。
「ここなら、どんな悪臭をさせてもまわりに家は無い。ただし、あまりひどいと、町方が見廻りに来て中を捜索されるから、多少嫌な気分がするが我慢しな。
一応、乾燥させた薬草などが棚にある。道具も揃っているし、多分、生きるために必要な道具もある。……あぁ、布団がなかったな。あとで持ってこさせる」
「いや、布団は持ってきた。荷車に乗せている」
「そう……、じゃぁ、後は頼んだ」
「解った。それで、私の名だが、」
「薬師。それだけ」
詩乃はそう言って外に出る。
「いや、そうは言うても……、そなたのことは?」
「詩乃。詩乃さんでも、お詩乃でもいいわよ」
そう言って手を振りながら立ち去る。
竹の葉がこすれ乾いた音をさせている。
湿った土のにおいが鼻に届く。ふと目を下に向ける。―土のにおいがする―今まで忘れていた匂いだった。
「ごめんなすってぇ。薬師の先生?」
声が聞こえ、薬師は奥から薬草を抱えて囲炉裏場に出てきた。
「あぁ、運び屋。あぁ、そこにあるのが注文の品だよ」
「これですね? えっと、」
運び屋が割符の紙と薬袋の文字を確認する。この男は文字があまり読めない。今流行りの流字―崩して川の流れのように書いている文字―などは読めないので、一文字一文字離して書かなければいけないが、そう書いている自分も、薬の間違いがないことを確認できるので都合よかった。
「へい。確かに。それで、これは追加です。あと、これは詩乃さんからの注文。なけりゃまた夕方取りに来ます。それと、これが今月の給金です」
と運び屋がぎっちりと口を縛った巾着を差し出した。
「いつも悪いね。えっと……そうだね、また夕方来てくれるかい? その時までにそろえておくよ、あと、給金が入ったんで酒も用意しておくから、坊主を誘っておいでよ」
運び屋は不気味な満面の笑みを浮かべて出て行った。
月に一度、給料の入った時に、運び屋と坊主と酒を飲むことが唯一の楽しみだった。
―それくらいでいい―
薬師は思う。藩内薬師と忙しかった時には、充実もしていたし、給金も今の倍はもらっていたが、どこか、なんとも言えない「何か」をずっと持っていた。それが何かと言い得ないものだが、それは確かに薬師をむしばんでいたようだった。
将来添い遂げようといったあの女が死んだとき、何となくだが思ったのだ。―自由に薬を作りたい―と。
幼いころ、仲良かった幼馴染が、一人減り、二人減ったことに疑問を抱かず、気づいた時には、周りに誰もいなくなっていた。急に寂しくなり、こんな寂しい思いはしたくないと薬学に励んだ。
薬師になり、立派に勤め、とある藩に就職できた。世の中のためになればと思う気持ちなどいつしか消え、藩主が機嫌よければいいと。日々を送った。
だが、今はもう、そういうわずらわしさは無い。頼まれた薬も作るが、小さな傷や病を見逃さず、薬の改良にも努める。
給金は少ないが、一日中薬のことを考えられる。―これでいい。私には似合っている―人里離れ寂しい時には、運び屋を誘って酒を飲むだけでいい。―それでいい―
竹林の空を鳥が二羽飛び去って行く。スズメかな? カラスではないだろう。小さな鳥だが、仲睦まじいように見受けられる。薬師は少しセンチメンタルに口の端を動かし、今までしていた作業、乾燥した薬草を棚に片付けに行った。
六薬堂 お薬のご相談お受けします 松浦 由香 @yuka_matuura
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