新春梅試合
―本当に奇妙な人たちだ―
毎年のことながら番頭はそう思う。
新年の除夜の鐘が鳴り終え、早々に初詣を済ませると、誰が始めたのか、極楽寺で新年会を始める。
寺の本堂で酒盛りをするのだ。ご本尊の、釈迦如来なのか? 阿弥陀如来なのか? 簡単に説明すれば裸婦に後光がさしているような輪を背負った立像があり、その前に円座で座る。
寺に着くとすでに坊主は酒を飲んでいたし、薬師も来ていた。ほんのりと赤い顔をしているので、薬師も飲んでいるのだろう。
ここでは「新年あけましておめでとうございます、本年もよろしくお願いいたします」なんて挨拶はされない。ただ、「よいしょ」と座り、「まぁどうぞどうぞ」と酒が注がれ、それを飲み干して祝宴が始まるのだ。
世間一般的ではないけれど、番頭はこの奇妙な連中がとても好きだった。
新年の梅試合、将棋の初試合が始まると瓦版が大盛り上がりを報じた。正月恒例行事の一つで、正月四日から始まる大相撲、それが終わって始まる将棋と、囲碁。これが大江戸の庶民の間では睦月の一大イベントだった。
大相撲の結びの大一番。横綱同士の取り組み。東の横綱
囲碁・将棋所の役人が舞台を整え、今年は囲碁師が多いからか二日前から試合は始まっている。そして今日、将棋が始まる。
梅試合と言われるとおり、梅の段にある梅の木の下で行われる風流なものだが、それは、自称将棋が強いもの、好きな者が集い、棋士戦を模して行われる祭りで、名人戦は大江戸城三の丸で行われている。
その結果は祭りを執り行う将棋所の同心が結果を知らせ瓦版に載る。
梅試合をしている庶民は、それに一喜一憂しながら、俄か名人戦を繰り広げている縁台将棋の人々の試合を散策しながら覗いていくのだ。
この時売られるお茶と、梅饅頭がちょっとした名物にもなっている。
人だかりのできている縁台では、「あ、そこに置いちゃだめだ」とか「ほれ、歩を逃がさんか」などの声がかかったり、「そこに置くとは粋だねぇ」などという声すらする。
こういう場所なので、賭けを持ち掛ける真剣師(プロ棋士)もいる。
一人の武士が腕を組み唸っていた。
「お侍様、悪いことは言わない。もう、降参しなさいな。どうやったって無理ですよ」
周りから言われる以上に、自分がこの局面の勝敗を解っていた。がっくりと肩を落とし、「参りました」という。相手も礼をし、掛け金を袂に入れる。
「弱いくせに好きだね」
そう言われ声のほうを見れば、
「おやおや、六薬堂の、」
薬問屋六薬堂の女将、詩乃が襟巻に、外套に、さらに寒そうに身を縮めて立っていた。
「お前さんでも来るんだね?」
そう言って縁台から立ち上がる。
「沼田さんほど好きじゃないが、あたしだって風物詩ぐらいは見に来るんですよ」
そう言って詩乃は「でも寒いんで、もう帰ろうと思ってる」と言った。
沼田は近くの茶席のほうを指さし、
「少し飲むかね?」
と言った。「おごってくれるなら、梅饅頭とお茶ね」と先に歩き出す。沼田は首をすくめそのあとについていき、茶席を広げている茶屋の縁台に腰かけた。
にわか茶道も行われ、茶道家の見習い辺りがその腕を磨くため庶民に茶をふるまっていた。
「強くなる薬なんぞないかね?」
「は? 将棋の? そんなものはないよ。あんなものは先読み力だろ? あそこへ何を置けばこうなるからって、そういうものじゃないの?」
「そうだよ」
沼田はまるで孫と話すかのように穏やかに答える。
沼田の髷は半分以上が白く、背中も曲がり、威厳などなくなっていたが、それでも、昔は規律正しい物書き奉行所詰めだった。今は息子に後を譲り、隠居の身だ。勤めの間は道楽として将棋を指していて、奉行所仲間の間ではかなりの腕前だった。
ちょうど五年ほど前の梅試合で、今日のように賭け将棋を持ち掛けられた。あいにくと、賭け将棋をする相手がすべて善人とは限らない。ほんの一瞬のスキを突きごまかそうとする連中が居たりするのだ。そしてまんまとそれに引っかかり、あっという間に身ぐるみはがされるところまで追い込まれた。
その時助けてくれたのが、詩乃と、当時見回りをしていた町奉行所の同心岡 征十郎だった。
「将棋でいかさまするなんて初めて見た。半丁ならいざ知らず。というか、お武家様もお武家様だよ、番から目を離して、挙句に、そこに置いてあった歩が飛車に変わって気が付かないんじゃぁ、いいカモだよ。てか、子供だましに引っかかるなんて、辞めた方がいいと思うよ」
と馬鹿にしたのだ。「無礼なっ、そこになおれ、手打ちにしてくれる」と言えるほどだったが、さすがに自分が騙されていると気づくと、詩乃に対して怒る気力もなく、それよりも、詩乃に気を取られているすきに詐欺師どもは逃げたが、岡 征十郎たち同心がそれを捕まえ、賭けた金が返ってきたので、怒るどころか、礼を言う羽目になっていた。
「どうにもこうにも弱くてな」
「でしょうね」
沼田は頭を掻く。
「奉行所では強かったんだよ、これでも、」
「お奉行様相手に勝てないからでしょ」
沼田は解っていたがやはりそうなのだろうと悲嘆の声を上げる。
詩乃は沼田を横目に見て、
「あまり度が過ぎると、また瓦版に書かれますよ。元気です? こう造屋さん―紙問屋―は?」
「ああ、元気だよ。私から金を返してもらうまではとね」
沼田は乾いた笑をし、空を見上げた。
「ちょうど、五年前ですね」
沼田が苦笑いをして頷く。
五年前の梅試合
その年の梅試合はそれほど盛り上がらなかった。将棋名家で有名な四軒のうち二軒の当主が流感にやられて寝込み、囲碁戦も名家一家の独壇場となったためだ。唯一相撲だけは連日大入りの大賑わいだったが、ひどく寒くて、すっきりとした晴れもなかったため客足も伸びず。といった風だった。
詩乃はその前の大晦日辺りからの風邪患者で小早川医師を手伝いあちこちに出向いていたおかげで、正月らしいことをしないままで、番頭から、
「いい加減、店主である詩乃さんがお札をもらいに行ってもらわないと。こればかりは、店主でないとだめですよ。ちゃんと、お祓いもしてもらってくださいよ」
というので、寒い中出掛けざるを得なくなったのだ。
梅試合が行われている梅の段を横切る方が早いので、そこを歩いていると、梅試合で人出が多くなると出てくるとスリだのに警戒をしている岡 征十郎と遭った。
「お前も将棋を見に来たのか?」
というので、将棋には興味はない。お札をもらいに行ってこいと番頭にせっつかれたのだ。と言った。
そこへ、将棋縁台の並んだあたりから、酷い
いい身分の侍が真剣師相手に将棋を指しているようだが、どうも負けているようだ。周りの客は侍が負けることがうれしくて、笑顔で観戦している。その侍が沼田だ。まだこの時は物書き奉行をしていた。
「旦那ぁ、もう駄目じゃないですかい?」
客の一人らしき男が沼田の肩に手を置き、くいっと引き寄せるので、沼田の顔が自然と男のほうを見る。だがそれは一瞬で、すぐに顔を番に戻したが、そのすきに、指し相手が番の上に手を伸ばした。
「いかさまだね」
詩乃の言葉に岡 征十郎が詩乃を見下ろす。
「あのお侍さん、すべてなくなっちまうよ。……ほら、あいつ、もう一度するよ、」
詩乃の言葉通り、今度は別の男が沼田の視界を邪魔するようなことをする。ほんの一瞬で、客すら目を離す。「蜂だ」とか、「肩に梅の花びらが、風流だねぇ」などと言うのでそれが行われていることに誰も気づかないようだ。
詩乃は縁台のほうへ向かい、いかさまをばらす。侍が詩乃の言葉に立腹し、顔を離した瞬間、指し相手と、仲間らしき二人が直ちに立ち上がって逃げるが、そこを岡 征十郎が塞いで捕まえる。
その試合の掛け金は返ってきたが、沼田は深くため息をついた。
岡 征十郎はすでに詐欺師たちを連れていなくなり、詩乃もお札を買いに行ったようでそこには居なかった。
茶屋の縁台に座り、深くため息をつく。
その翌日の瓦版で、物書き奉行の沼田 源三が紙問屋のこう造屋から金を借り、かけ将棋の結果破産する恐れあり。という不名誉な記事が出た。
物書き奉行などよほどのことがない限りお目にかからない人なので、その風貌がよく書かれていた。
番頭は近所の将棋仲間とそれを笑いながら読んでいたので、詩乃の耳にも入ってきた。それは昨日助けた侍に間違いなかった。
「本当に、沼田さまはお好きだからねぇ」
「お弱いのにねぇ」
という会話をしている番頭を、咳一つで呼ぶ。
番頭は首をすくめ、しゃべりに来ていた近所の人に愛想うよく笑って詩乃の居る小上がりに戻る。
「なんです?」
「その、沼田ってお武家さんはそんなに弱いのに将棋好きで有名なんだね?」
「一応物書き奉行様ですけど、こういっちゃなんですが、閑職でしょう? お暇な分、将棋をたしなまれるとかで、(奉行)所内ではお強いらしいのですが、部下の与力や同心がお奉行様に本気になることはないでしょうからね」
番頭の言葉に詩乃は鼻で笑う。
それから二日ほど経って、岡 征十郎が厳めしい顔で店にやってきた。いつもの「邪魔するぜ」ではなく、
「お奉行、こちらです」
と言ったので、詩乃も黙って顔を上げ眉をひそめた。
沼田が店に入り、店内を見渡し、詩乃を見て頷いた。
「何の御用です? ここは薬屋。将棋指しはできませんよ」
詩乃の言葉に沼田は月代をぺちりと叩いた。
「瓦版屋に大いに叩かれ、嫁にばれてしまった」
沼田はそう言って乾いた笑をして陳列台の上の匂い袋を一つ手に取った。
「嫁にな、賭けで捨てる金があるなら、紅の一つでも買ってくれ。と言われてな。そういうのは、
詩乃が沼田の後ろにいる岡 征十郎を見た。いくら閑職の物書き奉行であれど、奉行は奉行、自分よりも随分と地位も名誉もある人を、この店に連れて来たくなかった。という顔をしている。
「たいそうなことはしてませんよ。奴らを捕まえたのはお町の旦那ですし」
沼田が唸るように頷く。
沼田が来てから暫く経ったが、沼田は帰ろうともせず、かといって何かを物色することもせず、ただ黙って立っているだけで、さすがの岡 征十郎も不審そうに沼田を見始めたころ、
「病気だと言われた」
と、ぼそっと言った。
詩乃は「あぁ、起きてたのか」と思わず言って、岡 征十郎に睨まれた。
「妻に、あなたは病気です。と言われた。そんなわけはないと言ったが、辞めれるといいながら辞めれないのは病気です。と泣かれて、面目ない話なのだが、……、瓦版に事が出てやっと家に帰って、妻が言うには、二月ぶりだとかで、それで、家に帰ると、妻は、奇妙なものにはまって、すがっているというのか、そこの坊主だが、教祖だか、なんか知らぬがそれが言うには、私は悪い虫に巣食われているのだとか、それを払うために薬を用意したといってな、と言って、袂から小さな巾着を取り出した。
「だが、それが、異常に臭くてな、そんなものを飲むくらいならと家を飛び出てきてしもうてな。かといって、小早川療養所なんぞに持ち込めばまたもや瓦版屋に書かれる。どうしたものかと思って居ったら、岡が歩いているのを見つけ、そういえば、お前は、奇妙な薬屋だというし、こういうのは詳しいのではないかと思って、」
と歯切れ悪く、のらりくらりと話していたが、要約するとこういうことを言った。
番頭が平身低頭で巾着を受け取ると顔をしかめ詩乃に持っていこうとしたが、
「来るな、臭い……、そのまま薬師のところへ行け。ろくなものを作らぬバカがいるもんだ」
詩乃が嫌そうな顔をして手をひらつかせる。外には偶然運び屋が居て、運び屋も嫌そうな顔をしながらそれを持って走り去った。
「あ、あれは、何かわかるか?」
「……想像するには、乾燥の足らない食べ物の腐ったもの。でしょうな。どうせ下痢でもさせて、悪い虫が出ている。とか何とか云って、ほどほど下痢が治まったころ下痢止めを飲ませて終わる。そんなところでしょ」
「なっ、薬ではないのか?」
「薬も、そりゃ匂うものもありますよ。頭がはげそうなほどのやつとか。でもね、腐敗臭と、薬臭は違いますよ。あなた様が言うように、あれを食べれるなら元気だと思いますよ。
……ただね、奥方や、その変な宗教家の言うこともまんざら嘘ではないですよ。あなたは病気です。ただし、傷があったり、痛みが伴うものではないので、少々理解するのに時間がかかる、非常に厄介なものですけど。……こればかりはね、薬を飲んで直すということが出来ないんですよ。直すには、相当量の覚悟が必要なんでよ。生半可な気持ちと覚悟じゃぁ、下手すりゃ今よりもっとひどくなる。
なので、今言えることは、その病気の所為で不幸という症状が出ている。としか言えません」
「な、何だ、その、しょ、症状が、それは、」
「言ったでしょ。刀で切った傷は外傷。と言います。外に見えるのでね、同情されやすいですよ。包帯巻いて痛々しい顔をしていればいいのでね。内傷というものもあります。頭が痛い。腹が痛い。というのがそうですね。内側なので分かりにくいが、外側よりもはるかに苦しい場合があります。
あなたのわずらっている病気は、外傷でも内傷でもなく、神経です」
「無礼もの!」
沼田が激高一声店を飛び出て行った。
岡 征十郎が詩乃を睨んで、沼田の後を追いかける。
番頭が手を洗ってきて、手ぬぐいで拭きながら、
「率直すぎますよ」
と言ったが、詩乃は気にする風などなくキセルにたばこを詰めた。
数日後の瓦版に、沼田がまた真剣師とかけ将棋をして負けたことが載っていた。もうここまでくると、沼田に将棋を辞めさせようとする輩も出るし、どうせ負けるのだからと縁台に人も集まってこなくなったし、金もなかろうと真剣師たちも勝負をしに来なくなり、奉行所でも、今まではおとなしく負けていてくれた部下たちが急に腕を上げ勝たせてもらえなくなっていた。
沼田は深くため息をつき、閑職と言えども、日々の記録を書かねばならず、それを書く帳面を前に筆が進まなくなっていた。
その時、廊下を過ぎる人の口から六薬堂という名を聞く。慌てて廊下に行けば、町奉行と、配下の内与力が並んで歩いていた。
「い、いかがなされました?」
急に障子が開いて顔を出したので、町奉行たちは慌てて身じろいだ。
「いや、先ほど、六薬堂というのを聞いたので、いかがしたかと」
「…、書き物方―書物奉行と通称―もご存知でございましたか?」
町奉行がため息をつく。
「いや、知っているというほどでも、で、何かしでかしたか?」
「いや、そういうわけではありませぬが……。まぁ、いずれ解ることですが、このところ市中に流行っている病をご存じでございますか? 急な熱が出てけいれんをし、酷い場合は泡を吹いて、死者が二人も出たのですが。あれの特効薬を奥医師方が急いで作っていたのですが、いかんせん原因が解らずで、薬の調合もできずだったのを、その、六薬堂の女店主が、まぁ、なんといいますかね、酷く簡単な方法でそれを直してしまいましてな、」
「薬を作ったと?」
「いいえ、それが、何やら熱を体にこもらせているので、熱を出し切るために、水を飲ませるようにと。ただし、多少の塩と甘みがいるのだとかで、それを飲ませると、まぁ、あっという間に治ったと。普段なら夏に起こる症状のようですが、こう涼しい時には、ただの水分不足だということで、水さえ飲めばならないのだとかで、まぁ、助かったのですが、いかんせん、あの女、いろいろと無礼で、」
内与力が苦々しく言うが、町奉行もそれには同意しながらも、
「だが、的確で、素早くて、今度が初めてではないですし、小早川先生さえも一目置くので、まぁ、無礼も多少は我慢しておるのですが、あれだけの美人でありながらにこりともしないのでね、こうなると、その不愛想や無礼の悪口を言わないと、どうにもこうにも、と、まぁ、これを、醜い男のやっかみ。とまた言うのでしょうがね、」
と町奉行は苦笑いをした。
「腕は、確かなんですか?」
「ええ、知識網でも、小早川先生以上だと、先生は言っておりますが、よほどのことがない限り治療をしないので、真偽のほどは解りませんがね」
と言って、町奉行と内与力は立ち去った。
沼田は手をもみしごき、部屋に戻り、しばらくその場を徘徊していたが、サッサっと日報を書き上げると早々に退出した。
「ごめん」
番頭は近づいてくる沼田を番頭台から暖簾の隙間から見えていたので、さほど驚きはしなかったが、さすがに詩乃は驚いたように火鉢から目を上げた。
「先だってはすまなかった。こらえ性がなかった」
沼田が頭を下げるので、番頭も詩乃も唖然とそれを見つめる。
「それで、私の病を治せるだろうか?」
詩乃が斜に構え沼田を見る。
「治りたいのですか?」
「病というのだから、治りたいと思うだろう?」
「……それじゃぁ、駄目ですよ」
「なぜだ?」
「旦那の病気は、依存症というやつですからね」
「い、依存、しょう? とは?」
「賭け事をやめられない。賭け事をし続けてしまうというやつですよ。まぁ、きっかけはいろいろあるでしょうが、将棋なんぞは初めは楽しい頭の体操だったんでしょう。それが賭けをした。多分、一度、二度、勝ったんでしょうね。賞金の金額はお奉行様の
じゃぁ、どうすりゃいいかって、簡単ですよ。将棋をやめればいい。将棋のことを考えれないほど忙しくなればいい。物書奉行なんて閑職なんでしょ? 忙しくないから、将棋のことばかり考えるんですよ。
でも、できますか? 将棋をやめること、仕事が忙しくなること?
依存症を直すには、本人の覚悟は相当要るんですよ。病気らしいから薬でも飲めば治るだろう? なんてことで治るもんじゃないんですよ」
詩乃の言葉に沼田は息を詰まらせた。
将棋をやめる? 大好きな将棋を自分からとったら、いったい何をすればいい? ―あと数年勤めあげれば、長年勤労保証をいただけるのだから、仕事をやめるとか、変えるなどはできない。将棋も辞めれる気がしない。……だが、本当に将棋をやめることで、病気が治るのか? そもそも、私は病気なのか?―
というようなことを考えているのだろうことは、番頭でさえ分かった。詩乃は考えててしまった時点でキセルに火をつけた。こういう風に思考している時点では、依存症の患者の治療は無理だと言っていた。どうしようもなくなった時、考える間もなく直してほしいというものだと。なので、沼田はこのまま帰るだろう。そして、沼田は番頭の思惑通り「しばし考える」と言って帰っていった。
「来ますかね?」
「さぁね。よほどの何かがなけりゃ来ないだろうね。あんな穏便に日常を送ってきた人だもの」
詩乃の予想通り、沼田は六薬堂に行く気など捨て去っていた。どうせ高い薬を売りつけまた瓦版に醜態を告げ口するのだ。とまで思うようになっていた。なんせ、自分の足腰は丈夫で、軽やかに動けて、咳の一つもない。機敏に動けるし、将棋に負けているとはいえ、頭を使っている。同世代の連中よりは若い。と自負したのだ。
だがそれがすべて思い違いだと分かるのに時間はかからなかった。
家に戻ると、妻が激しい下痢によりのたうち回っていた。
―乾燥の足らない食べ物の腐ったもの。どうせ下痢でもさせて、悪い虫が出ている。とか何とか云って、ほどほど下痢が治まったころ下痢止めを飲ませて終わる。そんなところでしょ―
詩乃の言葉が、詩乃の声が、六薬堂の店内が思い出された。
「ど、どうしたというのだ?」
沼田が恐る恐る聞くと、妻が答える代わりに下女が、
「旦那様の悪い虫は奥方が身代わりとなって出すべしというお告げを受けたとかで、」
と嫌そうな顔で言った。
「……、六薬堂の店主を大急ぎで呼んできてくれ、」
と沼田が言うと、妻は大教祖様を、と言っていたがそれを阻止し、詩乃を呼び寄せた。
詩乃は不機嫌そうな顔で、もう水分ほども出なくなり、ただただ痛みに苦しむ奥方が寝ている部屋に通された。
「あの、薬を飲んだという」
「……腐ったやつ?」
詩乃が―馬鹿じゃないのか?―という顔をしているのは沼田ですら分かったが、詩乃は、奥方の腹を、「失礼」と言って触り、ため息をつく。
「今何を与えても下すだけですよ。まぁ腹の中で混ぜくってる。これが落ち着かない限りは薬も効かない。まぁ、この痛みで死ぬことはないけれど、……まぁ、旦那を思ってのこそなんだろうから、あなたを怒る気もないけれど、まぁ、バカなことをしたとは思うけどもね」
そう言いながら、下女に薬の服用を指導する。
「言っておくけれど、多分、その教祖様というもが持ってくるものもこれと一緒だから。こちらで調べたけれども、うちの店で薬を買って行っているらしいから」
詩乃はそう言って頓服の一つを見せた。
「下痢止めは要注意の薬なんだ。下痢というのはね、そもそもは体の中にある毒を出そうとする行為なんだ。だからまだ体の中に毒が残っていて、下手に下痢を止めると、残っている毒が増殖して体から出ないから悪化してしまうんだ。だから、こうやって頓服の紙の上に赤線を入れている。あたしが処方して出した人ならば書かないけれど、そうじゃない奴には目印としてね」
「そんな危険なものを買えるのか?」
「別に下痢止めが危険だとは言わないよ。食べ過ぎて腹下しには勝手に飲めばいいし、子供が腹を出して下さしていると母親が買いに来ることだってある。この目印は、勝手に買った客が、酷くなったり、効かなかった場合、別のところへ行ったときにこれを飲ませたというためのものでもあるんだよ」
「別のところへ持っていき、お前のところの薬が粗悪品だと言われたら?」
「処方したものには責任を取るが、勝手に買って行ったものは自己責任だよ。そのためにあたしが店にいる。相談すれば容態を見て処方できる。その手間を省いた報いだ。とはいえ、薬は適当に使ってこそ効果がある。下手に使わない限りは間違いはない。だけど、たまに間違うときだってある。風邪だと思っていたのに、実は別の病気だったら風邪薬は効かない。その時にこの薬を飲んでいたと言えば、この薬では効かないと言えるし、逆に、この薬が原因だともいえる。下痢止めや、その他出来るならばあたしが容態を見たほうがいい薬に関しては印をつけている。わざわざ教えたりはしないけどね。聞かれたら、白いんで包む際紙を重ねてしまわないようにするためだと言えば納得する。まぁそういう理由もあるんだけどね」
詩乃はそう言って下女に薬を手渡す。
「それにしたって、あれを飲んでこれで済んで幸いだとは思うよ。あの薬の詳細がさっき来たけれど、虫の死骸が混ざっていたそうな……。まぁ、吐きたくなるわなぁ」
詩乃の説明を聞き、奥方が口を抑え身体を丸くした。
「そ、そのようなものを飲んで、」
と動揺する沼田に詩乃が人差し指を一本立てて、
「あんたのための身代わりらしいからね、責めるのはおよしよ」
沼田は肩を落とす。
しばらくしてから、沼田が重々しく、
「私は、病気なのか?」
と聞いた。
「そう言っていたけれど、覚えていないかい?」
「直せるだろうか?」
「相当の覚悟が必要だと説明はしている。それを受け入れるかどうか。ってだけだよ」
沼田はまた黙り、しばらくして、「治療を頼む」と言った。
沼田のギャンブル依存症は初期段階だとは言えなかなか頑固だったのは、沼田がお奉行職に居て、他の意見を聞かない性格が災いしていたが、それでも、心折れそうになるとなぜだか奥方の具合が悪くなるを繰り返し、今では、以前の、将棋を楽しむだけにまで回復した。時々、無性に真剣師たちと勝負してみたい気はするが、最近は、一局するたびに疲労する。詩乃は「歳の所為だ」と言ったが、そうなのだろう。頭が付いて行かないのだろう。そしてそれに見合う体力もなくなっているように感じる。それも幸いしているのだろう。
沼田と詩乃は梅の花をめでながら、遠く席で聞こえる野次に顔をほころばせていた。
六薬堂に、沼田の奥方がやってきた。
「今回は本当に感謝しかありません」
「……蘭子さんの依頼ですから」
「ええ、更科尼様に相談し、最初あなたのことを聞いた時には正直信用などしてませんでしたけど、あの梅試合で沼田を詐欺から助けてくれたことを見てから、あなたを信用してよかったです」
「奥様だって、似せ祈祷師に教わったという怪しい文言をよく覚えたじゃないですか、うちの
「最初は大変でしたけど、最初のいくつかは本当の文言でしたけど、あとのほうは他人の悪口を節を変えて大声と小声を繰り返せばバレないって、そう言われたので、沼田や、姑の悪口を言ってやりましたよ。沼田はまるで気づかないで」
詩乃は鼻で笑った。
沼田の奥方は草団子と、謝礼金を小上がりに置き、
「更科尼様からお好きだと聞きましたの」
「大好物です」
「主人の将棋好きもほどほどになりましたし、もう醜態をさらすこともないかと。もしまた、悪い虫が出てきたならば、お薬、よろしくお願いしますね」
そう言って、沼田の奥様は帰っていった。
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