髪結いの恋(2)

 今朝も霜が降りていた。井戸の水が冷たくて、吐く息も徐々に白くなっている気がする。

 お藤と、芳の仲が相変わらずのようで、芳のため息が最近また増えた気がした。

 リツは何とか仲良くやってほしいと思うし、結婚というのは大変だと思った。


 リツが通いの髪結いの帰り。常連のお客が正月を迎える前に―師走に入ると忙しいので、今のうちに―きちんとしたいと連絡があった。ただ、年明けにも生まれるだろうという腹で行くのはしんどいというので、リツが出向いたのだ。その長屋の人たちも、揃って仕事を頼んでくれたので、今日はかなりの売り上げになった。

「おや? 髪結いさん、」

 声に振り返ると、六薬堂の番頭がいた。

「あ、番頭さん。その節はありがとうございました」

「咽喉の調子はいいですか?」

「ええ。おかげさまで、すぐに咳も収まり、のど飴のおかげで調子が良くて」

「それは何よりでした。通い結いですか?」

「ええ、おなかの大きな方で、」

「なるほど……、うちのねぇ、うちの詩乃さんもそうやってあっちこっちへと出向いてくれるとありがたいんですけどね」

 リツが首を傾げると、番頭は芝居がかったようにため息をつき、

「あの人ね、月に五日しか仕事しないんですよ」

「え? お店に、」

「出てますけどね、出てますけど、接客私ですし。五日は、長屋へ往診に行くだけ。それ以外は、店の、あの奥の、小上がりでずっとキセルを燻らしてるだけ。暇なら長屋巡回増やしてくださいよっていうんですけど、暑いだの、寒いだのと。そう、寒いのでね、今では自らをこたつむし。カタツムリの親戚らしいです。こたつから出て来やしませんよ」

「まぁ」

 リツが楽しそうに笑う。

「あ、そうだ、あと少し残ってしまっていたんで、これ良かったらもらってくださいな、そうですね、早いですが、お歳暮ということで」

 そう言って番頭が袂から小さな巾着を取り出した。その巾着のかわいらしい布にリツの目が輝く―ほら女性はこういうものを好むんですよ。詩乃さんいわく、何だ、その無駄に派手な袋はって感想は、もう、女終わってるんですよ、詩乃さん―と思いながら、番頭はリツの手を取ってそれを乗せる。

「中?」

「どうぞ」

 小さい―とは言っても、飴玉五つ入るくらいのもので―「食べ終わったら、紅差しを入れたり、何なら小銭入れにでもできましょうから、お使いください」

「いいんですか? こんな上等な巾着」

「ええ。快気祝いです」

 番頭の笑みにリツも微笑む。

 かわいらしい。やっと十七か、十八かになったころの、初々しい娘に微笑まれて、番頭は少し照れる。


 翌朝。一段と冷え込みが厳しくて、朝早くに目が覚めた。

「お前って子は!」

 どこかから怒鳴っている声がする。

「うるさい、どこに行ってようといいじゃないか」

「大、輔さん?」

 外の会話は、体を起こすとはっきりと聞こえた。身震いをしながら布団から出て、綿入れに包んで戸を開ければ、大輔の母親が呆れたような顔で外に立っていた。

「どうかしましたか?」

「あぁ、おはよう。起こしちまったかねぇ?」

 リツが首を振ると、大輔の母親はため息をつき、

「昨日、あの子、戻らず遊びに行ってたんだよ、」

「いいだろ、放っておけよ」

「いやだよぉ、あんなとこ行くなんて」

 母親がそう言いながら中に入る。まだ言い争っている。

「まぁ、大輔も男だしなぁ。いい歳して遊びの一つも知らないんじゃぁ」

「って、あんたがそれを言うのかい?」

 隣の夫婦が、亭主のほうは遊びは男の甲斐性だと言い、妻はいやらしいという。

 リツは静かに戸を閉め、布団に戻った。まだ起きるには早いし、胸がチクリと痛かった。

 大輔だっていい大人なので、女遊びの一つぐらいあって当然だが、そんなこと知らない方がよかった。

 起きる時間が来て、お釜を持って外に出ると、不機嫌そうな大輔が、左官道具箱を担いで出てきた。

「あ、おはよう」

「お、おお」

 そう言って大輔は足早に立ち去った。

「そりゃぁねぇ」

 リツが声のほうに振り返る。

「朝帰りしたってさぁ、所帯持ちの長屋で、噂好きのおばさんたちならいざ知らず、りっちゃんのような若い娘の前で、大声で遊んでいたっていわれりゃ、気まずいわなぁ」

「にしても、この時期は、年末のご祝儀とか言って高いんだろ?」

「知らないよ。知りたくもないよ」

 奥さん連中が話をする中、リツは黙って米を研ぎ、下ごしらえをして家に戻る。

 朝餉を食べてリツが長屋を出ていく。

「りっちゃん、行った?」

「元気ないねぇ。やっぱりあれだねぇ。相当堪えたね」

「あ、ちょいと、大ちゃんどうしちゃったのさ、」

「え? 知らないわよ。むしゃくしゃして行ったんだってさ」

「むしゃくしゃしてって、親方にでもどやされたのかね?」

「さぁね、もう、あたしは情けないよ」

「まぁ、女遊びは男の甲斐性っていうし」

「うちの人が、その甲斐性ってやつで、岡場所の女に入れ込んで、借金作っていなくなったのに?」

 大輔の母親は、数年前の日を思い出しげんなりした顔を見せた。

「あ、ああ……そうだったね」

「似ちゃったのかねぇ。あの、ろくでなしの亭主に」

 大輔の母親がため息をつくとご近所さんも揃ってため息をつく。


 リツはその日黙々と髪結いの仕事をこなした。客の話しに相槌も打たず、ぼんやりしそうになるのをぐっと唇をかみしめて仕事をするので、昼前―すでに二人髪を結ったあと―三七が「具合が悪いなら帰りな。お客に失礼だ」と言って出された。

 リツは風呂敷を抱きしめて歩く。

 人の雑踏がこれほど孤独感をあおって聞こえるとは思わなかった。リツの心がさみしいと言っていて、胸が苦しくて、涙をこぼした先に、六薬堂の番頭がいた。

「これはまた二日続けて……。六薬堂に来ますか? おいしい薬湯が入ったんですよ」

「やく、薬湯に、おいしいなんて、あるんですか?」

「私は、おいしいと思いましたがね。いかがします?」

 番頭の言葉にリツは頷き、二人は六薬堂に向かった。


 詩乃が眉を上げて、入ってきた番頭とリツを見たがすぐに何事もなかったように火鉢の炭をいじる。

 番頭は小上がりに座布団を敷き、リツを座らせ、

「薬湯、詩乃さんもいりますよね?」

 と言いながら、湯呑三つに湯気の上がった、甘いにおいのする薬湯を入れてきた。

 リツがゆっくりとそれを口に運ぶ。「おいしい」

「よかったです」

 詩乃もそれを、ふーっふーっと言いながら吹き、一口飲む。

「もうちょいと生姜多めがいいな」

「生姜のままかじってください」

 番頭の言葉に詩乃が顔をしかめる。

「邪魔するぜ」

「邪魔するなら帰れ」

「お前、お上に向かって、」

「暇なお上にありがたみも感じないよ」

 詩乃と岡 征十郎のいつものやり取りの後、岡 征十郎が詩乃の前に笹包みを差し出す。

「おお、瀬戸屋の草団子。どういった風の吹きまわし?」

「この前世話になったんでな」

「そうかい」

 そういうと岡 征十郎から団子をひったくる。

「あ、お前、俺の分」

「はぁ? これはあたしのもんだよ。この店の敷居を跨いだ時点で、これはあたしのもんだ」

「バカを言え、俺の分もあるんだよ」

 詩乃は笹包みを開け、一個を取り返そうと近づいた岡 征十郎の口に放り込んだ。

「返したぞ」

「お、お、お前、なぁ」

 いきなり団子を放り込まれ、咳き込む岡 征十郎。

 詩乃はそれを声を出して笑う。そしてリツに笹包みを差し出し、

「どうぞ」

 といった。リツが一個つまむと、その横から番頭の手が伸びる。

「岡様ごちそうさまです」

 番頭の言葉に岡 征十郎は胸を叩きながら頷いた。

「死ぬかと思った」

「大げさな」

「お前なぁ、喉の奥に当たったぞ、」

「知らん」

 岡 征十郎は言葉にならない音を出す。

 詩乃が団子を持ったままのリツを見る。

「嫌いだったかい?」

「いいえ……仲がいいんですね」

「あ? 誰と? 冗談じゃない」

 詩乃がわざと岡 征十郎が言うであろう言葉に合わせて言う。岡 征十郎が顔をしかめる。

「仲いいことは、いいと思います」

 リツは俯いて団子を頬張った。


 岡 征十郎はもう一つ団子を食べてから出て行った。

 客が何人か来て、薬を買って帰っていった。

 仕事の終わりの目安の暮れ六つの鐘がなる。番頭が閉店作業をする。

「それで? おリツさんの良い人は、仲良くないのかい?」

 詩乃がこたつに頬杖をついてリツを見る。リツがやっと顔を上げた。あれからしばらくぶりに動いた。時々寝てるんじゃないかと思ったほどだったが、ずっと俯いて、時々涙目になったり、唇をかみしめたりしていたので、起きているらしいと解った。

「私、何も、」

「んー、まぁ、じゃないかなーとアタリをつけてみただけ」

 詩乃の言葉にリツが顔を赤めた。

「それで、何をそんなにしょげてるんだい? 昨日は元気そうだったと、番頭が言ってたのに、」

 リツは少し考え、首を傾げ、

「解らないんです。頭では、理解してるんです。……男の人だもの。でも、やっぱり、嫌だなぁって。でも、私が嫌だって言ったって、しようがないですし」

 詩乃が片方の眉を上げた。―いかん、こういう手の話しは全く理解できん―詩乃が番頭を見た。番頭は少し考え、

「あれですか? お相手が、岡場所かどこかに?」

 リツの肩がずっしりと下がった。

 番頭が詩乃に「しゃべるな」という、唇に指を立てて合図をした。詩乃が嫌そうな顔をする。

 ―そのくらいいいじゃないか、減るもんじゃあるまいに―と、詩乃ならいいそうだと、番頭は察したのだ。

「それほどしょげているのは、その人がそう言った場所に行ったのを、初めて知ったからですかね?」

 リツが頷いた。

「それは、それは」

 ―だから、そんなの気にすることかぁ?―と言いそうな詩乃を番頭が睨む。

「まぁ、男の私からすれば、付き合いとかで行くときもありますし」

「あるのか?」

 詩乃の言葉に―黙れ―という目で睨む。

「むしゃくしゃした時に行くことだってありますしね。常連だというわけではないのでしょう?」

「解りません。私は、今日、行ってたことを初めて知ったので」

 番頭が唸る。

「行ったと聞いてどう思ったのよ?」

 詩乃の質問に番頭が―黙っといてください、微妙な問題なんです。あなたのような色恋沙汰に疎い人が、ずけずけ物言う人が、こんないたいけな娘さんに言っていい話じゃないんですよ―という顔をしたが、

「少し、寂しくて」

 リツは答えた。

「さみしい?」

 意外な返答に番頭が聞き返した。普通、岡場所なり、吉原に行った男に対して、は嫉妬心から、汚らわしいとか、ああいう商売女がいるから、世の中が乱れる。とか、散々悪口を言うものなのだが、寂しいという意見は初めて聞いたので、驚いていると、

「なんで寂しいなんて思うんだい? 焼き餅焼くならいざ知らず」

 詩乃の言葉にリツは首を振り、

「だって、大輔さんはあたしより三つも上で、大人だもの。そういうところに行くのは普通だと思うから。でも、やっぱり、大人な人がいいんだわ。と思うと、」

 詩乃は納得したようにうなずく。

 とはいえ、大輔が岡場所へ行ったことや、それを気にするなということもできず、ただ時間が過ぎる。


 夕暮れが早くなり辺りはすっかり暗くなってきているのもあって、帰宅の番頭が少し遠回りをして、リツを送っていくことにした。

「私、詩乃さんや、あの同心の方のような関係が羨ましいわ」

「あー、そうですかねぇ? 傍で見ていると、岡様がかわいそうですけどね。詩乃さんが遊んでいるのが解るので」

「うふふ、そうですね。詩乃さん、とても楽しそうでしたね」

「でも、そこに気づかないんですよ。岡様が。まったく、詩乃さんもかわいげがない人なのでね」

「そうですか? 詩乃さんはとても美人でしょ?」

「……、美人でもかわいいというのは、可愛いというのはリツさんのような方を言うんですよ」

「まぁ、番頭さんは嘘つきね」

 番頭がリツのほうをさっと見て、目を丸くしたまま止まった。

「ば、番頭さん?」

「あ、あぁ、いや、嘘吐きと言われたので」

「あら、ごめんなさい。そういう意味ではなくて、私なんか可愛くないのにっていう、」

「ええ、解ってますよ。そうでしょう。そうなんですよね。若いから、お世辞を言って。なんて世慣れした人のセリフは出てこないんでしょうけどね、人をほめて、嘘つきだと言われたの、久し振りだったものでね、不意に、昔を思い出しましてね」

 リツが首を傾げる。

「詩乃さんですよ。詩乃さんに、あんたは嘘吐きだね。と言われたんです。ずっと昔のような、昨日のような、初めて会った日ですよ」

「まぁ、聞きたいです。詩乃さんはなぜ番頭さんを嘘吐きだと言ったんですか?」

「……それにはここ(帰り道)では寒いので、あぁ、丁度そこに屋台が出てますね、夕飯をごちそうしましょう。私もなんだか、話したくなりましたから」

 番頭はそう言って二八蕎麦の屋台の縁台に座った。リツは屋台に座るのは初めてだと言った。今年初めまで祖父がいて、その世話で夜出歩いたことがなかったからだと説明した。

「随分と大変だったんですね。リツさんはご立派ですよ」

「まだまだです。私なんか、」

 番頭は微笑み、自分用に熱燗を一杯注文した。そばが湯気を立てて二つ前に置かれ、汁を同時にすする。まだまだ温かいものが恋しいというほど寒くはないが、それでもこの汁の温かみとうまみが体を温めていく。

「それで、詩乃さんとはどうやって知り合ったんですか?」

「私がまだほかのお店に勤めていたころでしたね、お客様を店先までお見送りに出たところに、詩乃さんが居たんですよ。その時は忙しいし、いつも通りの作業としてお見送りに出たのでね、通りにいる人の顔や、誰がいるとかなんて気にすらしてませんでしたよ。忙しいお店で働いている。もっと働けば店を分けてもらえる。と野心に燃えてましてね、愛想よくお見送りをしていたんですよ。

 そしたらね、あんた嘘吐きね。といきなり言われ、そちらを見れば子供だか、大人だか、今でも年齢不詳ですけど、当時もそうでしたよ。詩乃さんのおかっぱ頭が見えましてね、それが同じことを言うんですよ。あんた嘘吐きね。って。

 その時、詩乃さんがあんまりにも現実味がないというか、一瞬、座敷童か、妖怪か、そんな類のものかと思ったほどでしたが、詩乃さんはうちの店に用があったようでね、奥から出てきた番頭の一人が中に通して行って、しばらくして出てきたけれど、入った時と、帰った時と何ら変わらずで。

 あぁ、その当時ね、その店の娘さんがひどい癇癪持ちで、祈祷やら、薬湯やらいろいろ試したんですが、一向に良くならず、詐欺まがいの霊媒師や、お祓いなんか受けていたんですけどね、みんな入っていくときは意気揚々と、帰っていくときには疲労困憊で出ていくんで、今度こそは何とかなるかと思って期待するけれど、やっぱりだめでね。

 それなのに、詩乃さんは全く変わらず、涼しい顔をして出てきて、礼金を受け取って出ていくんですよ。詐欺だと思わざるを得ないじゃないですか、いぶかしがってみている私の前で、詩乃さんが立ち止まり、

「あんた嘘吐きだけど、あたしは嫌いじゃない。もし、ここをやめる気になったら家で働かない?」

 って出て行ったんですよ。子供のくせにと思いましたがね、そのすぐ後、六人いた番頭で店の跡目騒動っていうんですか? まぁそういうのは起こったんですよ。え? あぁ、娘さんはね、実は妊娠していたんですよ。それを知って情緒不安定になっていただけでね、じゃぁ、相手は誰だって話になって、番頭の中の一人だということまでは解ったんですが、誰だか言わない。旦那はしようがないので、娘と結婚させて跡を継がせると言い出した。そしたら、多分、娘さんの相手でない連中までもが、腹の子供の父親だと言い出しましてね。

 娘さんが番頭だといったのは、暗がりで襲われて、顔が見えなかったが、番頭だけが下げている鍵の束で番頭だと思ったと。もちろん、私ではありませんよ。私にだって好みはあります。派手好きで、人を馬鹿にするような女は嫌いですから」

 番頭の話しにリツが笑う。

「その方はとても嫌な方ですね」

 番頭は頷き、どれほどその娘がイヤミで高慢ちきだったかを話した。リツはそれを聞き、それはよほど嫌な女だと同意した。

「番頭たちは仕事をそっちのけで、娘に取り入ったり、旦那様に取り入ったりするので、お客商売が二の次になっていきましてね、なんだかやる気がそがれていく気がして、それで辞めたんですけど、お店がそれから二年ほどでつぶれましてね、というのも、娘を襲った相手がとうとう解らずで、生まれてきた子供は番頭の誰にも似てなくて。その騒動で店をないがしろにしたツキが回ってきたようで、客足が遠のき、つぶれたようです」

「その前にお辞めになったんですね?」

「ええ、見限ってよかったとは思いますがね、時々、道ですれ違いますと、沈むと解った船からいの一番に逃げたやつ。という顔をされますよ」

「でも、それは、番頭さんがよく見ていたからで、」

「まぁ、男のひがみというのは、女のそれ以上のものがありますからね」

 番頭は乾いて笑う。

「その時に、詩乃さんが言った言葉、うちに来い。というのを思い出して、とはいっても、詩乃さんがどこのなんという店の誰なのかさっぱりだったんですけど、まぁ、店の噂なんてのはすぐに入ってきますからね、けったいな女将がいる薬屋がある。というので行ってみると、接客する気など全くない詩乃さんが居るじゃないですか、そして、私の顔を見つけるなら、「いいところに来た、番頭、接客」と言われて、……そう、そう言われて今まで仕事をしているんですよ」

「え?」

 番頭が声を出す。

「不思議なもんでね、詩乃さんに雇われたという気がないまま、あの日だって、薬の知識はないのに、接客をこなし、そのまま毎日通っているんですよ。奇妙な話ですね。実に」

 リツはかなり驚いて返事の代わりに頷いた。

「それから、何人もの方に接客しましたけど、久し振りに、嘘吐きだと言われて、なんだか本当に懐かしく思い出しましたよ」

「あの、それで、辞めるということは?」

「辞める? 六薬堂をですか? なぜ? あぁ、雇用理由がないから? あはははは、そうですね、でも、辞める理由もないんですよ。もう私の日常の一部ですしね、なんだかんだ言っても、私も詩乃さんが好きなんでしょうね、悪口しか今浮かびませんが、それでも、今辞めて他へ行くという理由のほうが、全くないので、安心してください、明日も、明後日も、詩乃さんに放り出されない限り私は番頭としていますから」

 番頭の言葉にリツは微笑んだ。この人も、仕事が好きなのだ。いやなことがあってもそれ以上に仕事が好きだから、番頭は番頭のままなのだろう。

「リツさんも、髪結いの仕事は好きでしょう? お仕事の話をされるとき、そういう顔をされてますよ」

「本当ですか? ええ。私、髪結いになってよかったと思っているんです」

「それと似たように、大輔さんの話しをするリツさんの顔もまた、好きだと伝わりますよ」

 リツは顔を赤らめた。



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