髪結いの恋
大江戸に初霜が下りた日。
番頭は出かける詩乃とかち合った。
「お早いですね、」
眠そうで、寒そうな顔をした詩乃が番頭だと認識し、
「あぁ、番頭……、行ってくる」
と出かけた。番頭は首をすくめ、店の開店を始める。
よほどの患者でなければ、番頭の接客で十分だ。病状を聞く問診もすっかり番頭の頭に入っている。なので、よほどきわどい症状でない限りは間違わない。これは微妙だという時には、住まいを聞き、あとで詩乃に相談して届けるようにしている。詩乃が診ないと解らない場合は、詩乃が不承不承に出かけていく。
それだから、番頭が一人で開店作業をし、店に一人で居ても客は困らない。
「もう、あかぎれが出来ちゃって」
「今年は早いですね。まぁ、急に寒くなりましたしね」
と言って軟膏を渡す。
客のほうも、よほどしんどくない限りは詩乃に頼らず番頭で済ませてしまうことに慣れているので、無駄口をしてふと気づくと、「あら? 詩乃さんは?」という風にいないことに気づくのだ。
詩乃は、と言えば―。
「もう、冬だってのに、切るのかい?」
「うっとうしい。もう、この肩すぎた辺りでうろうろしていると、イライラしてきちゃって、さらに言えば、もう、肩辺りがすれてかゆくてね」
「短くしすぎだからだろ、伸ばして結えば?」
「頭が重い。暑い、それにその引っ張られると頭痛くなる。第一、髪を結うなんて、女でいることの証だ。あたしは、女ではなく、薬屋の店主だから」
その理屈にはつくづく納得できないという顔をする相手は、鏡越しにはさみを研ぐ。
ここは、女髪結い屋。家に通ってきてくれるが、髪結い処として、三人ほどが集まっている場所に来ると安くしてくれる。わざわざ出不精の詩乃が通うのは、この髪結いや独特の、鬢付け油を作っている匂いが好きなのだ。その香料の配合、分量は髪結いによって違うらしく、作っている本人たちも、これが多いから匂う。という材料を把握していないのだが、ここの鬢油は詩乃にとっては落ち着く匂いなのだ。
髪結いの
詩乃の髪裾がきれいに切られ、肩辺りで切りそろえられていく。
「やっぱり、お三七さんが一番だね」
詩乃の言葉に三七がふと笑う。
「何?」
「いえねぇ、最初に来た頃を思い出していたのさ。うちの子供が小さくて、通いが出来なくて困っていたところにふときてさ、通うから、ここで切ってくれって、驚いたねぇ。十一? 十二頃だっけ? みんな髪を結いたくて必死で伸ばしているころに、バッサリ切れって、それ以来同じ髪型で」
「髪を結うということが、あたしにとっては非常に無駄な行為だからね」
「変わってるね、相変わらず。でも、そういうお詩乃ちゃんが好きよ」
「そう呼ぶの、お三七さんだけよ」
三七は笑いながら切り残しがないかを確認する。
「じゃぁ、24文。と、のど飴」
「あら、ありがとう。もうそろそろもらいに行こうかと思ってたのさ。この頃寒くて喉が痛くなってきていたからね」
「今年は寒さが早いから、ついでだからね」
「じゃぁ、お代はこれでいいよ」
三七は詩乃が差し出した銭の四文だけ取った。
「随分と高い飴になった」
「ていうけど、多めに持ってきてくれてるんだろ? いつも、気にかけてくれてるからね」
「じゃぁ、おあいこで」
詩乃はそう言って家を出た。身をすくめてしまうような風が吹いている。いやな季節が来る。そう思いながら、職人町にある、研ぎ師長屋から立ち去る。
「あの、お三七さん、さっきの方は?」
半年前にやって来てやっと独り立ちしたばかりの女髪結いのリツが詩乃を「初めて見ました、髪を短くしたいという人」と驚きながら聞く。
一人前になって掛けられる前掛けがまだ新しく、藍がはっきりとしている。若々しくて、子供っぽい丸顔のリツに、
「あれが六薬堂の女将さんだよ。詩乃っていうんだ。美人だろ? でも、すごく変だろ?」
と三七は笑った。
リツはよく聞いていた。お客さんと三七が詩乃の話をするのを。美人なのに愛想が足りないとか、だけど、ちゃんと薬を出してくれるし、気にかけて長屋に往診にも来てくれる。だけど、変なのよねぇ。と。
詩乃が六薬堂に帰ってすぐ、
「寒い、首巻、かいまき、
番頭は髪が短くなっていることで、さらに寒さを増し不機嫌な詩乃に呆れながら、店の二階へ上がって冬小物を下ろした。
一応、この店は二階建てだ。普通なら、主人家族は二階に住むのだが、「上がるのが面倒」という一言で、店奥に区切りを作りそこを私室にしている。二階は、時々容態を診たい患者を泊めたり(二階へ上がれない場合は、私室に泊まらせる)、薬道具の保管など、納屋になっている。
番頭は、下ろしてきた
詩乃は黙ってそれに足を入れすっかり冬ごもりの格好をした。
「今からそれじゃぁ、冬は越せませんよ」
「冬なんか嫌いだ。冬なんか何であるんだ。寒い」
「夏には反対のことを言って大騒ぎしてましたよね」
「寒い、寒い、寒い、寒い、寒い」
「解りました。ったく、面倒くさい」
番頭が呆れながら葛籠を片付けに上がっていく。
詩乃はキセルにたばこを詰める。
「ごめん、ください……」
リツが恐る恐る顔を出した。
「あの、六薬堂、さんで?」
「そうだよ……あんた、お三七さんところの、」
詩乃が思い出せないでいるところへ番頭が下りてきた。
「いらっしゃいませ。……、どのような御用か賜りましたか?」
「いえ、まだ……はい」
番頭が詩乃のほうを見て眉をしかめる。―いったい何してんだ、この人は?―番頭が営業スマイルに戻り、
「どのような?」
「え? あぁ。あの、咳が少し出て、お客相手なので、ご迷惑かけちゃと思って」
と言って、こんこんと可愛い咳をした。
「いつからですか?」
「いつから? いつからかしら? 覚えていませんけど、五日ほどではなかったと思います。夜少し寒いでしょう? 咳で起きてしまって、」
「それはいけませんね。咳のほかに気になるところはありませんか? 例えば、熱は?」
「熱はありません。喉が渇いてツラいです」
こんこんと咳をする。
「麦門冬湯でいいですか?」番頭が詩乃を見る。詩乃は何も言わずに頷く。
「一日二回、十日分をお出ししておきますね」
「それと、飴を入れといておあげ」
「かしこまりました……もしこれを飲んでも治ったような感じがしなかったり、咳がひどくなったり、今は、乾いた咳をしていますが、水気を帯びたり、ひどくなったりしたら、すぐに来てください。その薬では合わなくなりますのでね」
「治らない、ということですか?」
番頭の説明にリツが不安そうな顔をする。
「治らないのではなくて、効く場所が違うというところかな。解り易く説明すればね、転んで、膝小僧を擦りむいたとする。そういう時は膝小僧に軟膏を塗るだろ? それは薬がちゃんと仕事をしているから。だけど、膝小僧のケガに、胃薬飲んだって治らないだろ? 膝じゃなく、全くなんともない手に塗ったって、膝小僧の傷は治らないだろ? 薬ってのはね、丁度いいところにちょうどの薬を調合するから薬になるんだよ」
「なるほどぉ」
リツは納得して番頭からくすりと飴を受け取る。
「あの、」
「あ?」
リツは苦笑いをうかべて首を振って店を出た。
「なんだ?」
「怖がってましたね」
「なんでよ?」
「詩乃さんが怖いからでしょ」
「あ?」
番頭は何食わぬ顔で番頭台に座る。詩乃が鼻を鳴らす。
リツは自分の家に帰っていた。夕餉時で、近所の奥さんたちが夕飯を作っている井戸端を過ぎ、家の戸を開ける。少し湿気た「我が家のにおい」がする。
「ただいま」
外はあんなに声があるのに、家の中はひっそりとしている。
井戸端へ急いで出たが、もう、奥さんたちは料理を作り終わろうとしている。言葉数少なくかわし、リツは一人で料理を仕上げる。と言っても、朝作っておいた味噌汁を温めるだけだ。
家に鍋を持ち帰り、みそ汁を装い、おひつのご飯を盛る。小上がりに腰かけ、その場で食べる。
「行儀が悪い」
と怒られた記憶にご飯が喉を通らなくなる。
こんこんと咳をする。
「おう」
その時、戸が開き、大男が顔を出した。
「だ、大輔さん、」
「おお、丁度良かった、ほら、めざし、一匹やるよ、茶わんだしな」
「いつもありがと」
「大したことじゃねぇよ」
大輔は左官屋で
「気をつけろよ。初めての冬だろ?」
リツが弱弱しく頷く。
「昨日も咳してたようだからさぁ」
「あぁ、お薬もらってきた」
「そうか、何かあったら言えよ」
「ありがとう」
「じゃぁな、」
「お休みなさい」
大輔はそう言って自分の家へと入っていった。
リツは戸を閉め、大輔が乗せてくれためざしに少し微笑む。
そう、一人ぼっちになって今年初めての冬が来る。両親と妹は、三年前の流行り病で相次いで死んだ。残ったのは、祖父とリツだけだった。祖父も今年の春に亡くなった。それから必死で女髪結いの仕事をし、一人で生きていく術を身につけた。だけど、若いリツに声がかかることがないので、三七のところで手伝いをさせてもらいながら、客をつけるよう育ててもらうのだ。
仕事は楽しい。お客さんもいい人ばかりで、そういうことなら練習台になってやると、近所の奥さんたちも手伝ってくれたりする。だけど、夜になると、布団を一組だけ敷くと、一人ぼっちなのだと、虚しさがこみあげてくる。
横になって、ひんやりと底冷えを感じる。咳が出て、リツは慌てて起きて薬を飲む。少し布団の上で座っていたが、寒くなったのでごそごそと中に入る。
丸まって眠る。いつもの寝方だ。子供のころには、この四畳半の家に、両親と祖父と、リツと妹がいて、窮屈で、のびのびと手足を広げて寝たいと思っていたが、眠れるようになって思う。窮屈で居たほうが幸せだったと。
冬の夜はこんなにも静かだったのだろうか? 音がしない。つい先日終わった夏は、外で行き交う人が数名は居た。酔っぱらいの声や、楽しそうな宴会のあとの声など。でも、今は、まるで水の底のように静かだ。
リツは朝になっていて驚いて起きた。布団が温まってきたころからの記憶がない。しっかり熟睡したようだ。咳をしなかったのか、のどの痛みもない。
井戸へ向かうと、「あら、おはよう」と声をかけられる。
「おはようございます」
「昨日、咳してなかったわね」
「はい、お薬もらってきたので、」
「そうなの? じゃぁ、よく効いたのね」
「はい、ぐっすり眠れたので」
「少し顔色もいいみたいよ」
リツは笑顔でコメを研ぎ、みそ汁の用意をして家に戻る。米を炊きながら、仕事の道具をそろえる。米が炊き上がると、茶わんに盛り、残りはおひつに入れる。ご飯がおいしい。
リツはすっかり身支度を整えて外に出る。
「よぉ」
「おはよう。大輔さん」
「おう」
左官道具箱を肩に担ぎ、大輔が先を歩く。リツもそのあとを、風呂敷包みを持って追いかける。
「今日も頑張れ」
「はい」
大輔はそう言ってそのまま仕事場の方へ行き、リツも、研ぎ師長屋のほうへ行く。
研ぎ師長屋には名前の通り研ぎ師が多く住み、家の前の障子に、刃包丁研ぎ〼から、刀研ぎ〼。と書かれている。三七の死んだ亭主も研ぎ師だった。亭主が死んだけど、大家の好意で住み続け、今ではこの長屋一の稼ぎ頭じゃないかと思われる。
三七のところへ髪を結いに来た奥方たちが、包丁を持参する。包丁を研ぐ間に髪を結う。そういう関係性が出来ていて、なかなか良好な長屋だった。
「おはようさん、」
「おはようございます」
長屋の木戸番にあいさつをし、リツは三七の家に入った。
「おはようございます」
「おはようさん」
三七はさっさと縁側に鏡を並べたり、道具をそろえている。
リツも自分の席にとあてがわれた鏡の前に行き、道具をそろえる。もう一人の髪結い
「今日は、」予約の確認をして、用のない時には表の掃き掃除、道具の片づけ、昼飯の世話を交代で行う。どうしても客が少ないリツがほとんどの雑用をしているが、それでも、リツはこの仕事が好きだった。髪を結い終わった後の、お客さんの満足そうな顔。そのあとで、良縁に結び付いたとか、いいことがあったと報告に来てくれる顔が、何よりもの報酬だと思えた。
一番最初に髪を結う練習台になってくれたお藤さんの頭を梳く。恰幅のいい気持のいいおカミさんで、
「りっちゃん、今日もやってちょうだい」
と言って入ってくる。
「もうねぇ、嫌になっちまうねぇ」
「ほぉですねぇ」元結を口にくわえているので、変な返事になるが、お藤さんは気にしていない。
近いうちに息子が嫁を取ろうとなっているのだが、その嫁になる人が機転が利かないようで、ぱっとしないとこぼしているのだ。
「りっちゃんが来てくれるとありがたいのだけどね」
リツはくすくすと笑い
「そんなこと言わずに、仲良くしていかなくちゃ。子供に捨てられちゃ、あたしらやっていけないわよ」
三七の言葉にお藤が「そうなのよね」と苦笑する。
「りっちゃんは好いた人とかいないのかい?」
「え? えぇ。今はそれどころじゃないですよ。早く一人前にならなきゃ」
「それも大事かもしれないけど、若いうちに子供産んで育てなきゃ、年取ればとるだけ、貰い手無くなるわよ」
リツは首をすくめて元結で髪束を縛る。
今日の昼は客も来ないようなので、珍しく三人がひざを突き合わせて昼食を摂る。
「もう、全くいやになっちゃうわ」
芳がそう言ってため息をつく。
「気にしないことよ」
「なん、ですか?」
三七が芳のほうを見た後で、
「あんたのごひいきのお藤さんの、息子の嫁になる人って、この芳なんだよ」
「え? ええええ? ええ?」
リツがあまりの驚きに口を開けたままでいると、
「虫が飛び込むわよ」
と芳が言って白米を頬張る。
「別にいいんですよ。気前が良くて面倒見がよくてね、でも、あたしを気に入らないのは、あたしが働いてるから。しかも、髪結いなんて、女郎屋(吉原のこと)に出入りするような女にまっとうなものは居ないって、言い出したのよ」
「それで怒って、鉄さん家を出てあんたの長屋に転がり込んだのよね?」
「そう、うちは弟や妹がいて大所帯で、窮屈だけど、賑やかは良いねぇとか言ってね。それがまた気に入らなくてね。母一人、息子一人だから、寂しいらしくって、だけど、鉄さん、帰る気ないから、ここ来て、あたしに嫌味を言うしかなくて」
「前はね、芳のごひいきで、芳が気に入って息子に会わせて、それで話が進んだんだけどね。女郎屋へ出入りしているのはあたしだけなんだって言っても、信じなくてね」
「はぁ。そうだったんですか。知りませんでした」
「いいのよ、あんたには何の関係もないもの。だけどね、ここ最近、ちょいと、あからさますぎてね、とうとう、あんたのほうがいいとか言い出して、もう、うんざり」
リツは苦笑いを浮かべる。
「リツ、あんた、いい人いないのかい? いなけりゃ、紹介するよ?」
三七の申し出に首を振り、「一人前になるまでは」と断った。
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