紫陽花(2)
翌日、いやいや、しぶしぶで、加代が鮎子を連れて再来店した。
「いらっしゃいませ、橋本様」
「今日は、ちゃんと診てもらうよう、お義父様に言われて参りました」
「そう、じゃぁ、どうぞ」
詩乃は前と同じように座布団を小上がりの端に置く。
加代は気に入らないという顔をしながら、それに座る。
「わたくしはちゃんと調べたのですよ。私の症状には、和中散がいいと」
「いったい何の書物で調べたのか解りませんけどね、一概に、一つということはないんですよ」
詩乃が加代と向かい合った。
「腹を決めて診察を受けますか? あたしはどちらでも結構ですけどね。……今から言うことに当てはまって、それを少しでも解消したいと思えば、そう言ってくださいな。この間の話しではあまり夜眠れていないということと、」
「武士の妻です、眠るなんて怠慢な」
「あー、もうそれは
詩乃の言葉に加代は何も返事をしない。
「……、では。寝入りが悪く、眠れない。いつも何か不安感を抱き、夢見が悪い。体がだる重くて、すぐにイライラとしてしまう。イライラすると息切れを伴ってさらに不安感が押し寄せる。いかがです?」
詩乃の言葉に加代の目が大きく左右に動く。―解り易い動揺の仕方だ―
しばらくは詩乃は何も言わなかった。鮎子が何かを言わそうと動くと、番頭がそれを制止して首を振り、少し離れた場所へ連れて行く。
「大丈夫ですよ。ゆっくり診察しませんとね」
番頭が小声で言う。鮎子は不安そうに頷きながら姑を見た。
「詩乃さん、詩乃さん、詩乃さん!」
騒々しい声を出して一人の女が駆け込んできた。
「もうもうもう……あら、失礼。……、腹が痛くてね、出ないのよ。駄目?」
女は長屋に住んでいる女で、
詩乃が頷くと、番頭が薬棚から薬を出す。
「きっちりと量を守ってくださいよ。いくら梅雨だからと言っても夜は冷えますから、」
「わかってるよ。こっちだって生きて行かなきゃいけないんだし、あ、お代は、」
「いつも通り、入ってからで大丈夫ですよ。ね? 詩乃さん?」
詩乃は何も言わず手をひらつかせた。
「ありがとうね。お金入ったら草団子も買ってくるから」
女は騒々しく走って帰っていった。
「あの方の診察はしないのですか?」
「したよ。いつもと同じく便秘で腹にたまってる。あの人は腸の運動が弱い体質でね、少しでも冷えるとすぐに出なくなる。だけど、夜鷹って商売をしている以上、冷えはしようがないからね。体を温めるものと、ほんの少し、想像以上にほんの少しの下剤を入れている。あの下剤で出るとは思えないほどだけど、体を温めるという点ではいいんだよ。体を温めて眠れるときに眠る。寒いと眠れないからね。そうすると体が動こうとする。それを助けるだけさ」
「そ、それでは薬の意味がないじゃないですか? 治さないなんて」
「治ってるさ。一日ゆっくり眠れば、出るのだから。あの人の願いは便を出すこと。それで出たら、よく効く薬。じゃないのかい?」
加代は「それは、そうでしょうけど」と口ごもる。だが、なんだかしっくりこない。まったく関係のない処方ではないか。便秘なのに体を温めるなど。
「まぁ、もっと言えばね、大奥様。多少体が不調の時っていうのは、体が冷えていることが多いんですよ。男も、女も。
男は体温が高いからそんなことないと思うだろうけどね、この足首の辺りを触ってごらんなさいな、吃驚するほど冷たい時があるから。元気な時はそこが温かいし、温かい手で触ったら暑くて嫌がるけど、冷たい時には暖かくて気持ちがいいと感じる。そういう時はね、胃腸が弱っているんだよ。
胃腸が弱ると、この足首が冷たくなる。冷たくなると、足首を動かさなくなるから、足に行った血が上に上がりにくくなる。そうすると、だるさがたまる。だるさがたまると体が重くなる。
体が重くなると猫背になり、腰が痛い、肩が痛い。と悪循環で体中が痛くなる。温めることは第一なんだ。だからよほど切迫していない限りは体を温めるものを手渡す。すぐに効果は出なくても、体がほんのり温かくなった。と思えば、それは効いている証拠だからね」
詩乃は黙った。加代はまだ思考しているようだった。
「これはこれは、河内屋さんの、」
河内屋の女将
「詩乃さんにお聞きしたくて。番頭の説明が難しくて……でも、またに、」
「いいよ。……どうぞ」
詩乃は立ち上がり、薬棚の縁側の方へ移動して、座った。
「お客が来てね、風邪の初期症状だと思うの。熱がその日の朝からで、体が痛いって、汗が出ないし、だから、私が麻黄湯を勧めようとしたら、番頭がそれはだめだと言って別なのを渡したのだけど、何がいけなかったのかしら? 番頭はお年を召した方でしたでしょう? というけれど、」
「その方は年寄りだった?」
「ええ。でも、風邪の初期には、」
「年寄りに麻黄湯はだめだね。麻黄の副作用には血圧上昇があるからね、急激な血圧上昇は年寄りにはかなり負担だからね。番頭の言うとおりだよ。ほかの症状は気にならなかった?」
「ほか、ですか? えっと、鼻水が出てましたわ」
「番頭は、小青竜湯を?」
「ええ」
「いい選択だと思いますよ」
竹久が深いため息を落とす。
「やはり、私には薬を覚えるのは無理なのかしら。一度、詩乃さんに教わって、大丈夫だと思ったのに」
「まぁ、これも、長年てやつですよ。少しずつ覚えていくといいですよ。番頭になぜあの薬を売ったのか、しつこく聞き、それを書き留めておくといい。そうすれば、症例が出てきますよ。熱があるか、ないか。鼻水は水のようなのか、ドロッとしているのか。のどの痛みの有無、などなど、いろいろな組み合わせによって薬を分ける。いい番頭を持ってるんだから、大事にしなさいな」
「詩乃さんに言われて、本当に、うちの店の者がどれほど大事か解りましたわ。主人も言っていましたけど、使用人を大事にするとお客も増えますしね」
「増えちゃ困るんだがね、薬屋が儲かるなんてのはね」
「……そうでしたね。でも、ほどほどでないと、生活していけませんから」
「確かにそうだ」
詩乃が声を出して笑う。竹久が陳列台に置かれていた帳面を見つける。「あら、すてき」と手にとると、ふわっと匂いが立って竹久が帳面を見る。
「これ、いいにおいがしますわ」
「そうでしょう。
番頭がにこやかに言った。
「それではさっそくこれに書きますわ。これならば、楽しく書き留めるにも気持ちが入るでしょうし」
詩乃が口の端を上げるだけでほほ笑むと、竹久は帳面を買い、番頭に笑顔を見せて、橋本親子には「お邪魔しました」と言って出て行った。
鮎子が帳面を手にして「あら、すてきな香り」とつぶやく。
「そうでしょう。匂いには、」
番頭が番頭台に戻り帳面を取ってきて、頁をめくり、
「あぁ、えっと、香には人の神経を安らげる効果があるそうです。お香をたくのもいいのですが、火事が気になるでしょう。ですから、香袋や、こういうものに香の強いものを使いますとね、安心するんですよ」
「まぁ、番頭さんもお勉強を?」
番頭は首をすくめて頷く。―本当は、なんも書いてないだろうに―と思いながら詩乃は視線を加代に戻した。
加代は先ほどから来る客の会話を聞き入っていた。聞く気などない。この店のものなど絶対に受け付けない。と思っているのに、来る客来る客がこの店を信用しているのだ。そして、皆、目の前の詩乃に礼を言って帰る。
詩乃が先ほど言った症状がすべて思い当たる。そしてそのダル重さがつらくてしようがないのだ。だが、自分が調べたことには、誰がしの奥様のいう話しでは、和中散が一番いい薬だというし、誰がしの奥様もそう言っていた。と、誰かの奥様が言っていた。―誰かの、誰かの、誰かの奥様が言っていた―
「あ、あ、あ、……あなたは、あたしに薬を売りつけないの?」
加代はぎっと詩乃を睨んだ。詩乃はぼうっと外を眺めていた眼を加代に戻した。
「必要としていない人に薬は売れない。必要のない者には薬は売らない。本当に必要としているものにしか、薬は売らない。それは利益云々じゃない」
詩乃の言葉に加代は力を抜いた。ほんの少し肩の力を抜こうと思っただけなのに、全身の力が抜けたようになって、今度は力が入らなくなった感じを受けた。前に倒れそうになったので手をつき、その途端動悸が早くなる。不安が体を襲う。
「診察を、診察をしてくださいな」
詩乃は何も言わずに加代のほうを向き、番頭が、表の戸を閉めてから、かよの草履を脱がせ、小上がりに横にならした。
「わ、私は、」
「しんどいのでしょう? まずは楽にしてくださいな」
そういって帯に隠しているみぞおちあたりに占める腰ひもを緩めた。
「深呼吸をしましょう」
「え?」
「鼻で息を吸って、」
「そんなことが、何の必要が?」
「口で細く、長く息を吐き出す。また、鼻で吸って、口で吐く」
詩乃は有無を言わさずそう繰り返す。鮎子が詩乃の後ろから何度も頷くので、加代は仕方なく詩乃の言葉に合わせて息をする。
「鼻で息を吸い、ゆっくり口で細く長く吐き出す」
しばらく繰り返す。加代の中にあった不安感が消えた気がした。
詩乃は「そのまま続けてくださいな」と言って加代の手首を取り、脈をとる。番頭がそばに帳面を持って立っていた。
「脈早い、体温高め、失礼しますね」そう言って腹部を触る「腹力軟弱。疲れやすいんですよね? あと、不安感がある?」
「……ええ」
加代がやっと反応したのを鮎子がほっと息をついた。
「確かに、不安感があると、めまいのようなふわっとする感じに襲われるので、めまいと思ったのかもしれませんが、不安さえ取り除けばそれもおさまるでしょう。桂枝加竜骨牡蛎湯壱を」
番頭が頷いて薬棚に向かう。
「長い名前ですね」
「そうね。大奥様の症状は不安要素さえ取り除けば改善できると思うので、一日に二回。朝と夜飲むといいよ」
「不安要素さえと言いますと?」
鮎子が聞く。詩乃は首を傾げ、
「人それぞれ不安要素は違うんでね。それ以上に、本人が自覚していないときもあるからね」
「不安なものにですか?」
「最初は小さなことだと思うよ。そうだねぇ。……例えば、よくあるのが、亭主が浮気をした。捨てられるかもしれない、」
「そんなことはありませぬ」
「例えばだよ。うるさいなぁ。もう。そもそも、大奥様が不安なことがはっきりわかっていればいいことなんですよ。でも、そこを「武家の妻が」ていう立派などうでもいい理由で気づかないから、解らないんですよ」
「どうでもいいですと、武家の妻が、」
「うるさい。武家だろうが、庶民だろうが、所帯持って、妻になり、母になり、姑になれば、皆同じ悩みを抱える。亭主に若い女が出来ちゃいないか、子供が大きく育つだろうか? いい縁談が来るだろうか、孫ができるだろうか? 跡取りができるだろうか。みんな、みんなおんなじ悩みを持っている。それが、行き過ぎて悩むと不安に駆られる。
庶民はみんなそれを理解して、その不安を上手に排除していく。だけど、武士だか何だかの人たちにはそれを「見る」という習慣がない。それを愚かだというが、原因を見ないで、我慢して、体壊す。下手すりゃ死んじまったら意味がない。生きてこそ、武士として威張れるのに。死んじまったらみんな土の下だ。何もかわりゃしない。そんな状態になって、武士だ、庶民だ。などばかばかしいったりゃありゃしないね。
あたしにいわせりゃ、不安要素なんてものは、人間が生きていくためには必要なものなんだ。じゃなかったら、むやみに危ないことをして死んじまう。だけど、それを必要以上に不安に思う。ことが心を病んでしまう。それが体を壊している。だったら、その不安要素をしっかり見つけて対処すれば不安はなくなる。不安が無くなれば今体に起きている不調は取り除ける」
「不安なことが解らない人はどうすればいいんでしょう?」
鮎子が切実に聞く。
「まぁ、時間がかかるけれど、話をする」
加代が唖然とした後で噴き出す。
「話をしてそんなことで治るなら、お医者などいりません」
「医者なんぞ、本来要らないんですよ」
詩乃の返答に加代が驚く。
「しんどい時にしんどいんだと言える相手がいて、つらい時につらいと言ったら手を差し伸べてくれる人がいて、だるいんだという相手に手を差し伸べて、そうやっていれば本来人は自然に持っている治癒力でそうそう具合なんか悪くなりゃしないんですよ。……多分。
不意にやってくる病には、それは、効かんからなぁ。まぁ、それは、特例として。
でも、風邪気味だという時に、誰かが卵酒や、焼きネギや、温かくして寝なさいね。と声をかけるだけで、体が温かくなる。
さっきも言ったけれど、体が温かいと、体は丈夫だ。暑すぎるのはよくないけれど、でも、寒いともっと悪い。心が温かくなると体も連動して暖かくなる。
すると不思議なことに風邪がそれほどひどくならずに済む。だけど誰からも構ってもらえず、ただ一人で耐えていたら、それはそれは長引くし、つらいだろうね。想像できない?」
詩乃の言葉に鮎子は大きく頷き、
「……解るような気がします。病気の時、忙しい母が側に居てくれるのがうれしかった。母がいると、すごく楽になりました」
「そういうことよ。病の期間は同じかもしれない。風邪だったら三日? 三日寝込んでいる間に、誰かがいてくれるだけで安心して、すぐに治った気がする。だけど、誰もいないと、三日間しんどい思いをする。それはとても、嫌なものだろ?」
「そうですわね」
鮎子はかなり感銘入った返事をした。詩乃が苦笑いを浮かべる。
「別に直接それを話す必要はないんだよ。何かを話すと自然と口にする。ただし、変な意見を言いそうな相手に話すと、おかしくなるからね、相手を見て話さなきゃいけないけれど、静かに聞いてくれる相手がいいね」
詩乃の言葉に加代は鮎子を見たが首を振った。嫁にだけは弱みを見せたくないようだ。
「だから、医者がいる。薬屋がある。話したくなったらどうぞ」
詩乃はそう言ってそばを少し離れる。番頭が加代を起こす。
加代の体にふわっと血が巡る感じがして、加代は手のひらを見た。
「あと、みぞおちのところを締めすぎるのはよくないね。血が通わなくなり、余計に貧血になりやすくなる。もう少し緩めに縛ったほうがいい。とりあえず、十日分出しておくので、少しでも楽になれば、継続かどうか決めましょう。効かない。もしくは店を変えたいというならお好きに」
詩乃の言葉に草履を履きながら加代は小さく頷いた。
「あのぉ」
詩乃が鮎子を見上げる。
「松岡 鉄幹先生というのは? 詐欺師だとか?」
詩乃が鮎子をじっと見て、首を傾げつつ、
「詐欺師か、まぁ、詐欺師だな。何もしなかったという点では、薬だと言って、薬じゃないものを売ったのだからね」
「あの、それが原因でお義母様は?」
「いや……。それはないでしょうね。和中散を処方してもらっていたとか? それで、あたしが処方した薬を見ても何の疑いもなく飲んだということは、色は白だったんでしょう。だったら、芋などからとったデンプンでしょう。まぁ、毒にはならないし、生真面目な人には、日に一度、それ以上飲んでも効かないとかいえば量を守るので、下痢になったり、胃の不快感を訴えることもないでしょうしね」
「なんで詐欺なんか」
「もともとは医者だったんですよ、あれでも。ただね、もう何十年も前から医術は飛躍的に発展したんですよ。それこそ、今まで当たり前だったものを真っ向から否定するほどのことが起こると、昔ながらの医者はそれに対処できない。だって、今まで大先生だと言われていた人が、役立たずと言われたんですよ。そりゃもう、頭にくるでしょう? 躍起になって勉強したけれど、それはもう、あの先生の手に負えるようなものじゃなかった。それだけですよ。それまでにも少しずつ情報はあって、新しい知識を得れる機会はあったのだろうけど、あの先生はそれを拒否したんでしょうね」
詩乃はそう言って首をすくめた。
「あ、あなたがそうやって、いい薬だというのならば、ひと月分をくださいな」
加代が言う。
詩乃は静かに首を振る。
「いいじゃないですか。漢方はずっと飲み続けていても毒にはならないのでしょう?」
「……、なりますよ」
詩乃の言葉に加代が「でも、」と口を開く、
「副作用がない。なんて薬はないですよ。ただ、漢方に副作用という概念がないだけで。ですが、効かない。むしろ胃に不快感が出る。熱が出た。などなどそれは副作用です。ただ、漢方で言うところの、拒絶反応という言い方ですけどね。それに、全く病気でない人に、薬を飲ます理由はないでしょう? 胃に負担のかかる薬を飲んだせいで逆に胃がおかしくなるかもしれない。
それにね、飲む。という行為自体がもうすでに副作用ですよ。だって、健康ならば、飲まなくていい行為ですから。飲む行為を続ける以上、それは病気です。無意味な状態で無意味に飲むのは、無意味以外何物でもありませんからね」
「でも、この、その、不安、のもとを、拭えなければ、」
「だから、十日後です。十日経っても不安要素が改善されなければ、その時に考えるんです。その時にあった最良の方法を」
加代は少し考え、どういっても薬を出さない気なら、他の薬屋に行こうと立ち上がる。
「同じことを言われるだけですよ。おとなしく帰って……もう昼ですね、今日は昼と夜に飲んで、明日からは朝と夜に飲むように。では、十日後に」
詩乃の言葉に、加代は肩を落としながら帰った。
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