紫陽花(3)

 橋本家。加代の私室。

 加代は六薬堂の袋を横目にして座っていた。精一杯平静を装うとして茶を立て始めたが、踏み台の上に置いた袋に目が行く。きれいな字で、一日二回。と書かれている。裏返しにおいても、その袋が目に付く。

 立てた茶を一服口にしみこませたが、落ち着かない

 ―あの薬を飲んで、効いたら? 効かなければ、文句を言えるけれど―釈然としないまま夕飯のなった。

 今日も、亭主と息子は帰ってきていて、膳の前に座っている。女中がいそいそと用意をし、鮎子が薬を乗せた小盆を加代の横に置いた。

「どうだった?」

 亭主に話しかけられ加代が体をびくっとはねさせた。

「どうと、こう、別に」

 加代の言葉に亭主は息子嫁の鮎子のほうを見た。

「あ、お薬を処方してもらいました」

「そうか。早く治るといいな」

 加代は亭主を見た。亭主は先に入っているお茶を飲んでいた。

「本気でそう思ってます?」

「あ?」

 亭主が加代のほうを見た。

「あなた、私が本気で治ったほうがいいと思っています?」

「ああ、そう言っただろう?」

「治らず、早く居無くなれと思っているのではないのですか?」

 加代の言葉にそこに居た全員が眉をしかめる。

「いったい何を言っている?」

「あなたの帰りが遅いから、お仕事だというけれど、ほとんどの方はすぐに帰ってくるのに、あなたは帰ってこないから、あ、あなたが、あなたは、私なんかと一緒に居たくないのだと、私なんか、と」

 加代はそう言って慌てて口をふさぎ、部屋を飛び出していった。

 鮎子のほうを見る。鮎子は六薬堂での話をする。

「お義母様には何か不安に思われていることがあって、それさえなくなればよくなるということでした。ですが、お義母様ですら、その不安の原因が分からず、それを取り除くのは簡単ではないと、」

 亭主は腕を組み暫く考えてから、

「お前たちは先に食べなさい。誰か(女中を呼ぶ)? 手間をかけるが、握り飯を作ってくれないか」


 加代は私室の縁側に腰かけていた。また雨が降ってきた。

「まったく、お前は思い込みが激しすぎる」

 加代はゆっくりと亭主のほうを見た。

「ほら、一緒にどうだ?」

 そう言って先ほど作らせた握り飯を乗せた皿を差し出した。

 加代は首を振って顔を背ける。

 亭主は首をすくめ加代の隣に座り、握り飯を一つ食べ始めた。

「お前が心配していることは、私の浮気かな? いくら仕事だと言っても、言葉だけでは信用ならぬか……だがな、私のように、不愛想な男に合う女は居ないのだがね」

 握り飯を食べる音に、加代も一つとる。

「私はそれほど良い出の武士ではない。たまたま、私の上司である方がうまいことで手柄を立て、その補佐として取り立ててくださった。どうも私は補佐をするというほうが向いているようで、なかなかいい待遇のところまで出世できたと思うよ。そして、息子にも世襲できるほどのね。だけど、それもこれも、若いころに恩を受けたことへ報おうとした思いと、お前たちにいい暮らしをさせたかったのだが、それが、お前の病気の原因を作ったとはね。なかなかいろいろうまいことはいかぬのだね」

 加代が亭主のほうを見た。

「心配しなくても、私も息子に後を継がせると、嫌がられるほど家にいるようだ。先に隠居した人が、奥方に嫌がられると、仕事に戻られる。家に居場所がないそうだ。だが、私には、この歳の私にでも嫉妬して、心配してくれる嫁がいるようなので、隠居しても楽しそうだ」

 加代が顔を赤めた。

 体の中がほっこりと温かくなった。こんな気持ちはいつぶりだろうか? そうだ、あれは、初夜の夜、この人に手を握られ、

「大変、貧しい思いをさせるが、いずれ、贅沢ができるように、頑張ります」

 と言われた時以来だ。なんで、そんな言葉を忘れていたのか? あの言葉を忘れなければ、こんなに幸せでいられたのに。加代の目から涙がこぼれる。


 梅雨も明けそうな、むしむしする日。

 詩乃がすでに暑さでイライラと気が立っている。

「触らぬ何とかですな」

 番頭が店の前に出て空を仰ぐ。今日は日差しが出そうだ。

「おや?」

 通りを歩いている加代と、ご亭主。加代は番頭に気づき会釈をする。番頭も会釈を返すと、二人は仲良く笑いあって通り過ぎて行った。

 番頭は店に入り、「橋本の大奥様、元気になられたようですよ」

「あ、そ」

 詩乃は煙を高く上げた。

「ご主人とご一緒でした」

 詩乃は気のない返事をして煙草を燻らせた。



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