六薬堂 お薬のご相談お受けします
松浦 由香
紫陽花
梅雨に入ってしばらく経ったころだった。まだ蒸し暑さもなく、少し寒さが辺りに残っているような時期で、さすがの詩乃も文句を言わず大人しく居られるころだった。
「今年の梅雨が長引きますかね?」
番頭の言葉に首をすくめるだけだった。そんなこと、空にいるであろう神様に聞け。と言わんばかりの顔に番頭は外を見た。
雨の粒はまだ細く、音も軽い。
「あぁ、嫌だ」
大きなため息をつきながらご婦人が二人入ってきた。一人は以前接客したことのある武家の奥様で、すぐ近くであった祭りに行っていたら、人ごみに押されて倒れ、その時手のひらを擦ってしまい、ちょうど―祭り客を見張っていて、客になりそうなやつを連れてこい。という詩乃の命令で立っていただけの―
「これはこれは、橋本の奥様」
「まぁ、番頭さん。よく覚えていてくれましたね」若い女のほうがにこやかな顔をした。
「ふん、武家がこのような庶民の店に来るのなど珍しいことです。覚えていて当たり前でしょ」
番頭の笑顔がひきつったが、それが解ったのは詩乃だけだった。
「まぁ、本当に、人がいない店ねぇ」
「お義母様、今日は雨ですから」
「雨でも流行っているところには人は居ますよ」
嫁と姑。という関係なのだろう。嫁に言われてやってきたけれど、姑は庶民の店。というのが嫌なのだろう。
「大体、この店の売りは何です? 越前さん―本町に構えている大店の薬問屋―のところはアンチュウサンというお薬を売りにしてますけど、こちら何を?」
「わたくしどもは、」
「別に、」
番頭が答えるのと同時に詩乃が答えた。
「まぁ、別にとは? というか、あの人は?」
「あ、あぁ。店主です」
番頭が首をすくめる。
姑がきりっと背筋を伸ばし詩乃を見下ろした。
「あなた、客が来ているのに座も正さず、接客もしないの? 女の店主なんて、まぁ、いやだいやだ」
姑の顔には、詩乃を汚らわしい商売女よろしく汚いものを見るような嫌悪感がにじんでいた。
詩乃がキセルの先を入り口のほうに示す。
「お帰りはあちらから」
詩乃の言葉に姑が「キー」と本当に絹が裂けるのではないかと思われるような声を出した。
「まぁまぁ、お義母様。小早川先生がご紹介していただいたのですし、」
「小早川先生のところからですか?」
番頭が驚いた顔をした。
「薬屋なんていくらでもあるのに、なぜここだか全く不明だわ。それに、紹介状もよくわからないですし」
嫁が番頭に紙を差し出す。紙を受け取り中を開く。番頭が眉をひそめ、詩乃に手渡す。
「……、あぁ。そう、」
詩乃は座を正し、座布団を小上がりの端に寄せ、「どうぞ」と言った。
「結構よ、」
「触診しませんと」
「無礼なっ」
詩乃は首をすくめ、座を崩し、
「まぁ、あたしはどちらでもいいですけどね」
詩乃の言葉に姑が怪訝そうな顔で顎をしゃくり、
「そこに何と書いていますの?」
「……、診察拒否、病状精神系と思われる。ってところでしょうかね」
「な、な、何ですって?」
「どうせ、質問に答えず、触診もさせず、喚いて終わったんでしょう。あそこには重篤な患者がいますからね、うるさい患者に居座られると迷惑だから、うちに寄越したんでしょうね。ほかの店へも迷惑だから」
詩乃の言葉に姑の顔が赤くなる。
「い、言うに、事欠いて、」
「本当のことじゃないんですか? 小早川先生は男だもの、触られるのが嫌だ。女医は信用ならない。そもそも医者など何の役にも立たない。こんなところですか?」
「その通りではありませぬか、役に立たない薬などを押し付けるだけで」
詩乃は黙って姑を見つめる。
「高いお金を支払ったのに全く効かない。挙句が、人には合うあわないがあるとか何とか。ですから、わたくし勉強しましたのよ。わたくしに必要な薬は、
詩乃が嫁のほうを見た。嫁が済まなそうな顔をしている。
「……和中散、ねぇ」
詩乃が嫌そうな顔をする。
「出さないわけじゃないけれど……。めまいがあるの?」
「だから言っているのです」
詩乃は腕を組み、少し考えてから、
「睡眠は?」
「なんです?」
「ちゃんと眠れてます? 熟睡してます?」
「武士の妻にそのような怠慢はありません」
「……それで体壊しちゃ、いったい誰がそのあとの亭主の面倒を見るんだよ。まぁ、いいけどね、あたしの知ったこっちゃないし。……、寝汗、ひどい?」
姑が不機嫌な顔をする。
「あ、あのう、それが何か関係あるんでしょうか?」代わりに嫁が答える。
「あなたは黙ってなさい、」
「関係あるよ。何でもかんでも効く。なんて薬はないからね。その症状にあったモノじゃなきゃ、いくら薬を飲んだって治らないよ。逆に、毒になるからね」
「でも、和中散は万能薬では?」
嫁が申し訳なさそうに聞く。
「大方の人がのぼせたら、食欲が落ちる。だから道中薬(旅行用携帯薬)として重宝されるってだけさ。歩いて体の中が熱くなってる。それに来て、夏が近づいてきているころだからね、体はいくらか冷えてないと食欲ってのは湧かないようになってんだよ。だから、そういう時にはいいけれど、正直、大奥様には効かないよ」
「いいえ、私はちゃんと調べましたから。そういうあなたの店は何?
「で、でもお義母様、松岡先生がお辞めになりましたから」
「わかってるわよ!」
嫁、鮎子は姑の大声にびくっと体をこわばらせる。
「……松岡 鉄幹? ……あの爺の処の薬飲んでいたの?」
詩乃が嫌そうな顔をして姑を見る。
「なんですか? 大先生を?」
「大先生? はっ。まぁ、ある意味大先生だね」詩乃は首を振ってため息をついた。「じゃぁ、いいよ。和中散出してあげて、ただし、三日分。三日経ったらまた来てくださいな」
「三日? 松岡先生はひと月分、」
「いいから、三日。では、さようなら」
詩乃はそう言って手をひらつかせた。姑はぎりぎりと歯ぎしりして立ち上がり店を出て行った。鮎子に番頭が三日分の薬を差し出す。
「でも、」
「いいから持って行って。それが本物の和中散だから。松岡先生の処のが残ってました。とでも言って飲ませて。毒にはならないから安心しな」
詩乃の言葉に鮎子はお辞儀をして出て行った。
「大丈夫ですか?」
「別に毒にゃぁならないよ。暑気あたりの薬だから、あの姑さんの体温の高さを抑えてくれるだろうからね。だけど、松岡 鉄幹の薬を飲んでいたら、
橋本家。
「それで、母上をその庶民の店に連れて行ったと?」
この家の長男であり、跡取りであり、息子は母親の味方のようだ。うだつの上がらなそうなぼうっとした顔を必死で取り繕って「仕事をしてきて疲れている」風を装っている。
「そうですよ、いくら小早川先生の紹介と言えど、本当に失礼なところでね、私のことを聞き分けのない人扱いして、適当なことを言い、薬を売ろうとしないので、こっちから願い下げと出てきましたのよ」
「それがいいですよ。鮎子、いくら小早川先生でも、紹介状がその店でも、お前がちゃんと、母上のことを考えて店を選ばなければいけないのですよ」
鮎子は深く頭を下げた。
「も、申し訳ございません」
「本当ですよ、鮎子さん。まったくね、騎士道精神だか、なんだか知りませんけど、下級武士に道場を開いていた方というのは、我が家にはどうも合わないのよ」
鮎子は黙って俯いた。この話しをしだすと長いのだ。だが今日は和中散がある。「あ、お義母様、松岡先生のところの和中散が、あと二日分ございました。私が見誤っていたようで」
「そう? そうでしょう? あなたはそそっかしいから」
鮎子は姑に薬の一包を差し出した。
姑はそれをいつも通りに口に入れた途端、噴水のように噴出した。
「な、な、何?」
「大丈夫ですか?」
あっという間にあたりが白くなり、姑の前に座って食事をしていた鮎子の亭主、自分の息子の頭から真っ白になってしまった。
「な、いったい、何です、これ」
「和中散です。お義母様」
「そんな、そんなはずはないわ。だって、すごく変な味なのよ。これ、あ、あなたこれ、古いお薬じゃないの?」
「いいえ、先だってもらってきたものです」
「で、でも、でも、」
姑は水を飲み続け、鮎子は真っ白になった亭主の世話に追われ、その場は女中たちが片付けた。
「鮎子さん、残りの薬を持っていらっしゃい」
と言われたので、全て持っていく。もちろん、松岡医学の袋に入れなおして。
「明日、診てもらってきます。あなたが絶対に古いものを、わざわざ古くしたものですわ」
翌日。姑は小早川療養所を訪ねた。まずここならば古いことを証明するに立派な診断を出してもらえるだろう。と行ったが、
「……和中散ですね、しかも上等な。……和中散です」
小早川先生はそう言った。
他の薬問屋も同じことを言った。
「でも、今まで味なんかしなかったのに、もしかして、私、何か病気なのかしら?」
姑は気づけば六薬堂の前に来ていたが、ここにだけは来るまいと家に帰った。
その日の夜も飲むが、やはり味があって、今までと比べると飲みにくい。それに、別に何かが変わっているような感じもしない。ただ―、今まで飲んでいた薬もさほど何かが変わっているとは思わなかった。だが、みんながいいという薬を飲んでいるのだから、悪いわけない。と思い込んでいた気もする。だがそれを認めることはどうしても嫌だった。
翌日は雨が降っていないがどんよりとした雲が広がっていて、体が重かった。
こういう時にはすぐに薬を飲んでいたのだが、今はその薬を飲む気が起こらない。何も変わらないのに、変な味がするのに、飲む気など起こるはずもなかった。
「あ、鮎子さん、」
しばらくして鮎子が部屋に来た。
「なんでしょう。お義母様」
「あ、あなた、これを持って小早川先生のところに行って、この薬は何か聞いてきて、」
「お義母様が行かれたのでは?」
「きっと、きっと、あの薬屋の女が手をまわして、私が持って行ったら和中散だと言えと言いまわっていたのですよ。あ、でも、あなたにも同じことを言うかもしれないわね、女中に行かせます」
姑の行動に鮎子は眉をひそめた。六薬堂でもらったといったほうがいいのだろうか? だが、言えば、やはり変な薬を売りつけられた。と大騒ぎをしそうだ。それならば、女中が行ってもやはり和中散だったと言ったところで言おう。
その夕飯時、舅もそろっていた。
姑が深いため息をこぼした。
「母上? どうしたのですか?」
「……女中に、和中散だったと言われたのよ」
「なんです? どういうことです?」
「騒々しい」
舅の言葉に息子は黙った。
「申し訳ございません」
鮎子が指をついて頭をつける。
「あの薬は、六薬堂の女将さんからいただいたものです。ただし、本物の和中散。だと言われました」
鮎子の言葉に姑は激怒しそうになったが、女中が、「本物の、しかもかなり上等な和中散だと、皆さんおっしゃいました」とけろっと言ったことを思い出し黙る。
「いったい何を言ってるんだ。食事中に、」
「申し訳ございません。お義母様が具合が悪いと言いまして、今まで見てもらっていました松岡先生がお辞めになったので、小早川先生のところへお連れしましたら、六薬堂という薬屋を紹介されて、そこで、お薬をいただいたのですが、お義母様は松岡先生のところしかお飲みになりませんから、松岡先生のところのだと嘘をつき、」
「……、それで本物の薬だと言われて、病は治ったのか?」
舅が自分の妻のほうを見る。
「いえ、それが、まったく、何の変化もなく、」
「……その薬屋は見立てでそれを処方したのか?」
「いえ、……お義母様が和中散がいいと、」
「診察を受けていないのか?」
「だって、庶民の薬屋ですよ? しかも、女が店主をしている、いかがわしい店です」
「六薬堂といったか? ……六薬堂と言えば、お詩乃さんの店だな?」
「あ、あなた?」
舅の意外な言葉に姑が驚いて声を裏返した。息子も目を見開いて父親を見ている。
「驚くことはないさ。お詩乃さんは有名な人だよ。様子は確かに怪しいが、腕は確かだ。なんせ、小早川先生と同じに医術を学び、小早川先生より成績が良かったが、医者になるのはごめんだと薬屋を開いたんだ。それに、小早川先生が忙しければ、お詩乃さんに検視や、治療を頼むことがあるんだ。……まぁ私は見かけたことはあるが、話したことはないがね」
舅はそう言って、
「鮎子さん、明日、もう一度加代(奥方)を六薬堂に連れて行き、ちゃんと診てもらうように」
「は、はい」
「でも、あなた、相手は、」
「具合が悪いのだろ? 多分、初見でお前の病状を見抜いているさ。ただ、お前が診察拒否をするから、懲らしめるために別なのをよこしたのだろう。……それから、松岡先生というのは、松岡 鉄幹のことか? ……あれば詐欺師だ。お前がそんなものに金を払っていたということのほうが、私は腹立たしいがね」
「さ、さ、詐欺師?」
姑、加代が唖然と自分の亭主を見つめる。
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