第5話 恋の闇

 


 先輩ご所望のリンゴジュースを二つ、お盆に乗せて自分の部屋を開けると、先輩が私のクローゼットの中に手を突っ込んでいた。

 それを見た瞬間、一気に身体の中に不可視の手が広がり、内臓という内臓を全てわしづかみにされたような感覚に襲われ背筋が凍りつく。クローゼットの中には昨日買ったばかりの百合漫画たちが仕舞ってある。


「先輩……何してるんですか……?」


 震える声でそう尋ねると、先輩は手をブンブンと振って否定の意を示す。


「いや……これはちがっ!」


 先輩がそう言った瞬間、先程まで先輩が片手で押さえつけていたクローゼットから一冊の本が落ちてきた。


 私も先輩も反射的に音のした方向に目を向けてしまう。二人の目に映ったのは私が昨日買った本の一冊『禁断の果実』だった。


「……っ!」


 声にならない声が出る。真っ先に出てきたのは先輩に嫌われてしまうんじゃないかという不安で、一瞬で鼻の真ん中辺りが痛くなり、次の瞬間には目の奥から涙がじんわりと染み出てくる。


 けれどなんとか涙を溢さないように努めながら先輩を見ると、先輩はただ『禁断の果実』を見つめているだけだった。

 それから少しの沈黙を得て、先輩の方から口を開く。


「後輩ちゃん……これ……」


 その言葉の先を聞くまでのほんの一瞬に、自分の身体に不安と恐怖が一気に充満する。自分の周りの温度が冷たくなり、お盆の上に乗っているリンゴジュースはカタカタと小刻みに揺れ、呼吸をするのも辛かった。


「私も……同じ本昨日買ったよ」


「えっ?」


 恐怖に侵された私の身体から、驚くほど素っ頓狂な声が漏れた。恐怖が薄れ、心にいくばかの余裕が生まれるのとによって酸素を吸うためのスペースが空く。

 先輩はゆっくりした動作で『禁断の果実』を拾い上げると、それを見つめたままその場で止まった。


 私は安堵からお盆をもったままの腕の疲れに気がつき、おそらく私と同じように思考を巡らしている止まったままの先輩を見つめたままお盆を私と先輩の座る丁度間の位置に置く。


 そして私が先輩の前に座ると、先輩が再び口を開いた。


「私ね、後輩ちゃんと前みたいに戻れたらなって、そのためのヒントがあるんじゃないかってこの本を買ったの」


 先輩は本を見つめたまま、感情の読めない表情でそう暴露した。


 前みたいに戻りたい。それはつまり私が中学二年生で、先輩が三年生だったあの時私達に戻りたい、そういうことだ。

 その気持ちは私も一緒で……でも。


「後輩ちゃんは私みたいにオタクでもなんでもないのに、どうしてこの本を買ったの?」


 相変わらずこちらを見てくれない先輩が、まるでなにかを試すように聞いてくる。

 わざわざそんな質問をしてくることに、先輩が私の気持ちに気がついている……?と勘ぐってしまう。


 仮にそうだとして、今この場で私がその想いを言葉にしても先輩の心にはなにも響かない気がした。むしろ溝が深まる予感さえする。


 少し前に友情を取るか、愛情を取るかどちらかを選ばないといけなくなった時、どちらを選ぶかを考えたことを思い出す。今がその時なんだろうか。あの時の私はどんな結論を出したんだろうか。


 強張る身体とは裏腹に、自分でも驚くぐらい冷静に思考が回る。

 先輩と恋人になりたいからとは言えない。先輩はあくまで私には友情を望んでいる。けど私は先輩に愛情を望んでいる。


 どちらかが考えを変えない限り決して交わらないこの二つの望みを、今の私にはどうしようもできない。先輩の言うことならなんでも聞いてしまうかもと思っていた私にも譲れないものがあったことに、しかもそれが先輩のことだというのがなんだか皮肉めいたものに感じられた。


 だから私はこう答える。いつかの時限爆弾の話をするのは今じゃない。


「私がこの本を買ったのは先輩にもう少し近付きたいと、そう思ったからですよ」


「先輩と一緒で」とは言わない。「気まぐれです」と言い訳もしない。

 中学生時代から時間が減り続けている時限爆弾は、まだ爆発しない。させない。曖昧な言葉を返して、私は爆発までの時間を引き延ばす。


 私の言葉に先輩は「そっか……」と小さく返すと、次の瞬間にはこちらを向いていつもの明るい先輩に戻っていた。


 無理が感じられる先輩の明るさに、けれど私は気づかない振りをする。先輩もきっと私の曖昧な言葉に気がついて、見ない振りをしているはずだから。


 私達の関係がまた濁っていく。曖昧な言葉を繰り返すほどに、先輩と後輩ちゃんと呼び合うごとに。


 でも、今はその濁りが気持ちのよいものにさえ感じられた。

 この濁水の中でさえ、私は先輩といられればいつだって幸せなんだろう。たとえそれが虚構だと分かっていても。





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