第3話 恋は信仰



 綺麗に整頓された本たちに囲まれながら、室内だというのに額からも脇からも冷や汗が出てきた。私は今、勇気を振り絞ろうとしている。決断を迫られている。


 ここに一人で入るというだけでかなりの精神力を要したのに、更なる試練に心臓をバクバクと鳴らしながら、目の前に山積みにされている本の一冊に手を伸ばす。


『禁断の果実』


 手に取った本のタイトルの通り、まさに私は今、自身にとっての禁断の果実を囓ろうとしていた。


 妙に重みを感じさせる本の表紙を見つめる。そこには制服姿の茶髪でロングヘアーの女の子が、同じく制服を着た黒髪ボブの恥じらう女の子の胸元にあるリボンに手をかけている表紙があった。


 そう。私は現在、以前先輩と来たアニャメイトを訪れていた。この本の存在を忘れることが出来ずに。


 チラッと本から目を離し、目の前の売場に目を向ける。そこには以前と同じように、何かのアニメキャラクターと一緒に『百合コーナー』と書かれたポップが貼りつけられていた。


 買ってしまうのか。遂に買ってしまうのかと心の中で叫ぶ。これを買えば後戻り出来なくなるような気がする。しかしここ何日か、私の頭の中は柳瀬先輩の言葉とこの本に占領されていた。因みに柳瀬先輩に会う前は、夜は完全にこの本を買うか否かに支配されてしまっていた。


 ギュッと本を握りしめると、包んであるビニールが少しひしゃげてしまう。

 今思えば私はこの時理性でも本能でも既にこの本を買うことを決めていたんだろう。ただ買うための大義名分が足りなかった。


 だから私はひしゃげたビニールを見て思ったのだ。これを元の位置に返すのは悪いなぁと。普段は微塵もそんなこと思わないくせに、この時だけはそう思うことで自分を突き動かそうとしていた。


 その後はもう簡単だった。欲望に後付の理由を得た私は、それを否定してしまわないようにほぼ思考を停止させながらそれをレジまで持って行き、手早く会計を済ませた。勿論アニャメイトカードというポイントカードも作った。


 そしてその足で私は手近な空いている喫茶店に入り、二人席に座ってアイスコーヒーを注文すると一心不乱にビニールを破りその本を読み耽った。運ばれてきたアイスコーヒーに一度も口を付けることもなく、その中の氷が溶けきるまで読み耽った。


 三周目を読み終わり、余韻に浸っていると喉の渇きを覚えたので、そういえばまだ飲んでいなかったとアイスコーヒーに手を伸ばす。するとひょいっとアイスコーヒーが宙に浮いた。


「……え?」


 本の読み過ぎで頭がおかしくなったのかと思って顔を上げると、いつの間にか向かいの座席に柳瀬先輩が座っており、笑顔で私のアイスコーヒーを持ち上げていた。


「や、柳瀬先輩……こんにちは……?」


「もーやっと気づいてくれた!こんにちは!」


 漫画の世界にどっぷりと浸かっていたのに、突然の来訪者に一気に現実に引き戻される。


「一体いつの間に……というかどうしてここに……?」


「いやそれがね?ちょっとショッピングのためにこの辺りを歩いてたら、喫茶店の中に凄くだらしない顔で本読んでる椋ちゃんがいたんだよ。だからこれはもう入るしかないと思って!!」


「えっ!?私そんな顔してましたか……?」


 柳瀬先輩が神妙な顔で頷く。


「それはもう凄かったよ……いきなり一人で悶え始めたと思ったら『でへぇ~』とか『むほぉ~』とか『私だったらもっと好きって言って欲しいな……』とか鼻息荒くしながら百面相してたね。椋ちゃんのキャラ崩壊というか、お店の人も軽く引いてたレベルだと思うよ……」


 柳瀬先輩の言葉に思わず店員のお姉さんのほうを見ると、一瞬で目を逸らされてしまった……

 気恥ずかしさのあまり一気に身体と顔が熱くなる。


「いやぁ~そんなに自分と美月ちゃんに似た子が写ってる表紙の漫画にのめり込んじゃうなんて、椋ちゃんは本当に美月ちゃんのことが好きなんだねぇ~」


 ジト目でそう言われてしまうとぐうの音も出ない。事実私は先輩のことが大好きなんだから。


「この本……あまりにも私と重なる部分が多くて……気がついたら自分でも驚くぐらいハマッちゃいました」


「うんうん分かる!分かるよ!どこ行くのにも一緒でお互いに家族以上に信頼してるぐらい好き同士のはずなのに、どこか距離感のあるところがもどかしいよね!!」


「そうなんですよ!!このくっつきそうでくっつかない……いや、お互いに友達以上であることは分かってるけれどそれ以上が踏み込めない!!特にこの後輩ちゃんのほうが好きなのに言い出せないこの感じ!!もう本当私みたい……ってあれ?先輩この漫画知ってるんですか?」


「当然!!愛読書の一つだよ!」


「ええっ!?」


 ギャルと漫画。なんだか違和感のある組み合わせに思えてならないが、柳瀬先輩が薫先輩と付き合っているならば、私と同じようにこの本に手を伸ばしていてもおかしいことはない。


「因みにその作者さんあと二冊本出してるからそれもオススメだよん」


「え!?早速買いにいきましょう!!」


「よし来た!!」


 コーヒーが宙に飛び出すほどに、勢いよく机に乗り出す。我ながら切り替えが早い。そしてなんだかんだ柳瀬先輩と私は女の子に強く想いを寄せているという点で気が合うのかもしれない。

 いつかの未来で私と先輩も、柳瀬先輩と生徒会長のようになれるんだろうか。


 そんなことを考えながら、すっかりぬるく薄くなってしまったコーヒーをズズーッと一気に飲みほすと、漫画についてあまり詳しくない私に手解きを受けさせてくれるとのことで、私と柳瀬先輩は再びアニャメイトに向かったのだった。



 ─────────────────────────────────




「ここがほのぼの系で殆ど女の子しか出てこない所謂『きらきら漫画』っていうレーベルの棚で、こっちが結構同じ学校の男の子とか元彼、あと旦那とかも入り交じってドロドロを繰り広げる『リリィクイーン』っていうレーベルの漫画の棚だよ」


「ほうほう……」


 柳瀬先輩の丁寧な説明に熱心に耳を傾ける。


「初心者におすすめなのはこっちのきらきら漫画のほうなんだけど、恋愛要素が少ないのが多いかな……滅茶苦茶たくさんキスする作品とかもあるんだけど、それはむしろ上級者向けと言えるね」


「恋愛要素が少ないけど女の子ばっかりが出てくる……?」


「そうそう。恋愛までいかないけど女の子同士のいちゃいちゃが見られるのがこのきらきら漫画だね。丁度いまの椋ちゃんと美月ちゃんみたいに!」


「うぐっ……」


 不意打ちで心を打ち抜いてくるのは遠慮してもらいたい……つまり私と先輩は未だにいちゃいちゃ止まりということだ。でも私的に先輩と私がいちゃいちゃしてるって言葉だけで充分興奮でき……私は何言ってるんだろう。


「それでこっちの『リリィクイーン』はいちゃいちゃよりもうちょっと踏み込んで、しっかりと女の子同士の恋愛が描かれてるよ。さっき椋ちゃんが読んでたのはこっちだね」


「なるほど……じゃあ私は『リリィクイーン』のほうが合ってるかもしれませんね……」


 こっちのほのぼのとした表紙のきらきら漫画も良いとは思うが、今の私としては先輩ともっと親密な関係になりたいという祈りも込めてリリィクイーンのほうを買いたい。


「そうだね!とりあえずこれがさっき言ってた『禁断の果実』作者の平炎へいほーさんの別作品二冊!!」


 私では届かない位置にあった二冊の本を柳瀬先輩が取って渡してくれる。それにしても平炎へいほーって凄いペンネームだ……


「あとオススメなのはこの色んな作者さんが一つのテーマに沿って合同で一話ずつ書いてる本だね!同じテーマでも作者さんによって絵柄も展開も全然違うから面白いよ!!こういうのから好みの作者さんを見つけたら、更にそこからその作者さんの単行本を買っていくっていうのもまた乙なもんでねー!」


 目をキラキラとさせながら柳瀬先輩が饒舌に語ってくれる。どこか既視感があると思ったら、好きなアニメや音楽について語るときの先輩そっくりだった。


「因みにテーマの種類なんだけど、姉妹、小学生、高校生、社会人の四つだけど……」


「勿論高校生でお願いしますっ!!!」


「だよね~。ただNTRとか結構ハードなのもあるから読むときは覚悟を決めたほうがいいよ……」


 柳瀬先輩がさっきの二冊の上に高校生の女の子が描かれている本を更に置いてくれる。


「えぬてぃーあーる?」


「寝取り寝取られの略語だね。まぁ本来の意味はともかく所謂略奪愛ってやつだよ。あっ、勿論女の子同士のね!」


「略奪愛……」


 それぐらいなら普通の少女漫画にも出てくるので、覚悟を決めなければいけないというほどでもない気がするが……


「こればっかりは読んでみないと分からないか……明日椋ちゃんが学校を休んでないことを祈るよ……」


 この時私はそんな大袈裟な……と思ったのだが、翌日このNTR展開のおかげで滅茶苦茶凹んだし、寝込んだ私は学校を休んだ。NTR恐るべし。


 しかしそんなことになるとは今の私はつゆ知らず。引き続き柳瀬先輩の説明を受けては手に抱える本の量が増えていった。


「えーっと……結構多くなっちゃったけど大丈夫……?」


「お、お金のことならぜっ……全然大丈夫です……!!普段全然使わないんで……!!」


「いやそっちじゃないよ!!めっちゃ腕ぷるぷるしてるし!!全然大丈夫そうじゃないし!!」


 そう言って柳瀬先輩が私の抱える本の半分を持ってくれる。


「あ、ありがとうございます……」


「いやいや私も語りすぎちゃったよ。ごめんね」


「いえっ!そんな!!お話とても参考になりました!!」


 事実柳瀬先輩の話は本当に面白かった。先輩が話してるときもそうだが、何か本当に大好きなものについて話す人の話は聞いてて楽しい。


 ただ途中でメモが取れなくなってしまったので、頑張って頭で覚えたが私の頭では全部覚えてるかはとても怪しかった。どうやら復習がてらまたこのアニャメイトに来なければならないようだ(決してまだ私が買い足りないからとかではない)


 そしてあまりの本の量にレジのお姉さんに嫌な顔をされながら、五桁を越えるお会計を済ました私は柳瀬先輩と帰路につく。


「今日はありがとうございました。買い物まで付き合っちゃってもらって」


「ううん!私が好きでやったことだしそんなお礼なんていいよ~」


 優しく吹いてきた風に、そっと髪を押さえながら柳瀬先輩は照れくさそうに手を振った。


「それで……あのずっと聞きたかったんですけど……」


 沈みかけた夕日に照らされ伸びた影を見つめながら、私は前から気になっていたことを柳瀬先輩に尋ねる。


「初めて生徒会室で会った時、どうして私が先輩のことその……好きって分かってたんですか?」


「あー……それは……うん。椋ちゃんが私そっくりだったから」


「柳瀬先輩と……私が?」


 見た目から性格までまるで違う、最早正反対と呼べるだろう私達の、一体どこが似ているというんだろう。


「美月ちゃんから話聞いてて、椋ちゃんって美月ちゃんの突拍子もないことに付き合ったり、いつどんな時でも美月ちゃんに呼ばれたら飛んでいってるよね」


「えぇっと……はい……お恥ずかしながら……」


 あぁ顔が熱い……恥ずかしい……穴があったら入りたい……

 というか先輩!!一体どこまで私とのこと話してるんですか!!全部!?全部なんですか!?


「それを聞いててね、私と一緒だなぁって前から思ってたんだ。私も小学生の頃からべったり薫の後を付いていってたから」


「だから分かったんですか……?」


 柳瀬先輩が一つ頷く。


「うん。まぁ話を聞いた段階では予感みたいな感じだったんだけど、生徒会室で美月ちゃんの横に座る椋ちゃんを見て確信した……というよりは自分と重なったんだ。気がつけば隣にいる人のことを見てて、その横顔に見とれちゃってる感じとかね」


「私……そんなに分かりやすく先輩のこと見てましたか……」


「少なくとも私にはすぐ分かったよ!でもまぁ、恋しちゃうとその人のこと以外結構どーでもよくなっちゃうから、そこは仕方ないね」


 それは……分かる。尊敬だと思っていたこの感情が恋だと自覚した瞬間、私の世界はこの世の誰よりも、自分よりも、先輩を中心に回り始めてしまった。

 けれどそれが嫌だなんて思ったことはないし、ただ先輩のための自分でありたいと、先輩の隣にいつまでもいれたらと願う……そんな時間でさえも私にとっては愛おしかった。


「でも好きになっちゃった人が一気に自分の全部を支配しちゃって、私も片想いしてるときは『恋は信仰』だなんて思ってたから、支配されようが何だろうが幸せだーって思ってた時期もあったんだけど……」


 言葉の途中、突然柳瀬先輩が言葉に詰まる。


「柳瀬先輩?」


「いや……この先は私が言っちゃうより、自分で見つけたほうが椋ちゃんのためだと思うから、秘密にしとくよ」


 そんな意味深な言葉を最後に、私も秘密だと言われた手前何も返す言葉が見つからなくて、そのままお互い無言の中歩きやがて駅に着いてしまう。


「それじゃあ椋ちゃん!私こっちだから!!また学校でね~!」


「はい!今日はありがとうございました!!」


 柳瀬先輩と別れ、丁度来た電車に乗り込んだ。空いている席がなかったため入り口横の空いてるスペースに立って、ぼーっと橙色の景色を眺める。


 柳瀬先輩の最後の言葉は結局謎のままだったけれど、買いたいものも買えたし、柳瀬先輩がどうして私の気持ちを知っていたのかも分かったし、私としては今日一日はとても有意義だった。


 家に帰ってから読むこの重い本たちも、きっと更に彩りを与えてくれるに違いない。


「あとは先輩と会えたら完璧なんだけどなぁ……」


 そう小さく呟いた願いは、電車に置き去りにされてしまったのか、結局届くことはなくて。

 何事もなく電車を降りた私は、ふと紫がかった空を見上げて思うのだった。


 たとえ会えなくてもこんなにも愛おしい。

 やっぱり私は先輩が大好きです。


 と。



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