1-8 フラフラ
デンさんの運転する、濃いグレーのセダンに乗って、家に向かっている。
迎えはいらない、なんて言っていたのに、急きょ来てもらった。
どうしてかというと、おれ、夕方くらいから、少しずつ気分が悪くなり、妖結晶のお絵かきに区切りが付いて、本日終了となった頃には、ちょっとフラフラするくらいにまでなっていたからだ。
あやかさん、夕方には、『これは怪しいぞ』と考え、美枝ちゃんに連絡して、迎えを頼んでおいてくれた。
タクシーなどではなく、広い車でゆっくりと帰った方がいいだろうと、気を遣ってくれてのこと。
お昼には、おいしい中華、しかも、夜に食べてもおかしくないようなコースをごちそうになって、とても幸せ気分だったんだけれど、こうなったのは、そのあとのことなんで、まあ、順を追って。
昼が終わると、1時半…、少し過ぎていたのかな? だいたいその頃から、妖結晶の図の色塗りを再開した。
比較的に大きなエメラルドの中で、午前中にやったものほどではないが、かなり複雑なまだら模様の妖結晶が、あと3個あった。
まず、その3個を金庫室から持ってきてもらって、やり始める。
午前中、模様を描き終わった妖結晶を片付けるときに、大きいの、あと9個だったので、『これらは、何としてでも、今日中に片付けます』と宣言し、ついでに、やる順番まで決めておいた。
まあ、その時は、そんなことやれるだけの、ゆとりがあったわけだ。
それで、午後になった今、その通りにやり始めようとしている。
この3個が終わると、あとは少し楽になるはず。
残りは6個、そのうち2個はまだらではあるが、さほど複雑な模様ではない。
あと3個は、ちょっとむらがあるだけで、ほとんど濃い紫色。
残り1個は、完璧とも言える紫。
おそらく、妖結晶としては、これが最上質ということになるのだろう。
やり始めるとき、午前中に描いた絵をじっくりと見ていたあやかさん、
「なるほどね…、こういう風に見えるんだねぇ…。
きれいなエメラルドなのに、不思議だよね」
「そうなんだよね…。まだらになっているって、どういうことなんだろうね」
「妖結晶としては、均質ではないってことなんだろうけれど…」
「でも、エメラルドとしてみると、まあ、中に、ちょっと傷のような物があることはあるけれど、きれいな結晶に見えるよね」
「あなたにも、普段は、そう見えてるんでしょう?」
「ああ、たぶん、あやかさんが見ているのと、同じようなんだと思うよ…。
まあ、これは、確かめようがないんだけれどね」
「そうなんだよね…。フフフ、わたし、中学の頃にね、ほかの人が、見たり聞いたり味わったりしてることって、自分とまるで同じに感じているのかなって、疑問に思ったことがあるんだよ…。赤が、わたしが青と呼んでる色に見えていたりしてるんじゃないかとかね。 今、急に思い出したよ」
「それって、絶対に解けない疑問だもんね」
「そうなんだよね…。
でも、はっきりしていることは、妖結晶が、こう見えるのは、あなただけだね」
と、あやかさん、おれが色を塗った紙を、ぴらぴらさせながら言った。
「でも、
そうだ、ねえ、絹田さん、これについて、なんか聞いたことある?」
絹田さんも、お昼、中華を食べに一緒に行った。
これから、おれがここで鑑定するときに、ずっと付いていてくれるので、おれが、少しでも馴染むためとのお父さんの配慮だったらしい。
あやかさん、お父さんに、少し大げさに、おれが、人見知りが強いというようなことを言っていたようだ。
でも、確かに、そのお陰で、昼食を一緒にさせてもらい、絹田さんとは、少し気楽に話せるようになっている。
「いえ、そういう話しは、あまり聞きませんね…。
ただ、妖結晶が偽物だとクレームが付いたときには、ちょっと大変でしたね…」
誰も、本物か偽物か見分けられる人がいなく、向こうの言うままに、平謝りに謝って、ややランクが高いとされる別のものと交換した。
交換したものが、本物かどうかもわからなかったが、その後、クレームはなかったので、うまく、本物を渡すことができたと考えたとのこと。
そこまでの話で切りを付けて、おれは、午後の仕事をやり出した。
3時少し過ぎに、複雑な3個が終わった。
この頃になると、頭の芯がボーッとして、目もかすむ感じも加わり、ちょっと、スピードが落ちてきていた。
休憩、と言うことで、絹田さんが電話をして、秘書課の、別の女性に、コーヒーを、運んでもらった。
実は、今思うと、この頃から、ちょっと気分が悪い感じもあった。
コーヒーの苦みが、普段よりも強く感じたのだ。
でも、目をつぶって10分ほど休んだら、もう大丈夫な気分になっていた。
で、続きを、『峠は越えたので、あとは楽だろうな』と思ってやり出した。
ところが、やり出して早々、そんなに楽でもないことがわかってきた。
大きく薄いまだらがあるだけなんだけれど、この、薄い紫というのが厄介だった。
薄い部分を見ていると、どういうわけか、エメラルド特有の緑が残って見えるような感じになることもあって、自分のコントロール、緊張する程度がむずかしいのだ。
まあ、余計に疲れるといった感じで。
しかも、面積が広い分、『薄い』を表現する色合いがむずかしいのもあったんだけれど、さらに、よく見ていると、微妙な濃淡が見えてしまって…。
凝らないで、簡単に、同じ色合いで塗っておいても大して変わらない、ということはわかっているんだけれど、このきれいな濃淡を、表現しておきたいな、なんて思ったもんだから…。
それで、1時間くらいかかって、まだらの2個が終わった時には、かなり気分が悪くなっていた。
でも、できた絵を見て、あやかさんが褒めてくれた。
「よく、この微妙な濃淡まで描けたねぇ。
まだらって言っていたけれど、こんな感じに見えるわけなの?」
「最初、単純な濃淡の大きなまだらだと思っていたんだけれどね、
描こうと思ってよく見ると、そんな感じだったんだよね」
「なるほどね…、そういう特別な目で見ていても、よく見ようとすると、見え方って変わるもんなんだね…。
うん?あなた、ちょっと疲れたみたいだね…。
今日は、このくらいにしておこうか?」
「うん、でも、あとは、かなりきれいなのが3つと、ほとんど濃い紫だけのが1つだけだから、今日中に、やっちゃおうかと思うんだけれど…」
「そうなの?無理はしないでいいからね」
「うん、でも、おれ自身、本当の限界って言うのがどんなもんだかわからないから、今日は、やるだけやってみて、あとで、どの辺が限界なのかを考えてみようかと思ってるんだけれど…」
「なんだか、あなたの、そういう、訳のわかんない思考パターンが、結婚してから見えてきた感じだな…。まあ、今日は、思うようにやってみなよ。
私は、ちょっとお父さんのところに行ってくるね。
ねえ、絹田さん、私がここを出るときにはどうするの?」
「あっ、済みませんが、しばらくお待ちいただけますか、今、1人呼びますので」
「悪いけれど、その時、この人に、熱めのお茶でも持ってきてあげてくれる?」
「そうですね、そうします」
と言うことで、おれはちょっと熱いお茶で一息。
あやかさんは、練習用の刀の鞘を作ってもらうことで、お父さんに会いに行った。
そう言えば、お昼に5時頃って約束していたけれど、もう、そんな時刻なんだ。
あやかさん、この時には、おれの状態が怪しいと思っていて、お父さんの部屋から、美枝ちゃんに電話して、車のお願いをしてくれたらしい。
あとで北斗君に聞いたところ、美枝ちゃん、初め、迎えは、北斗君に運転して来てもらうつもりで、『いい、すごく、慎重に、すごく、丁寧に、運転するのよ』と何度も念を押していたらしい。
その時、ちょうど事務室に来て、それを聞いたデンさんが、『美枝ちゃんよぉ、変な遠慮は、似合わないぜ』と言って、ニカッと笑ったそうだ。
その結果、デンさんが来てくれることに、決まったんだとか。
で、おれの方も、さすがに、あとは楽で、とは言っても、紫の濃さなど、なるべくきっちりやって、6時ちょっと過ぎには終わった。
絹田さんたちが、全部片付けをしてくれて、社長室に戻ったのは6時半近く。
この時、歩いていて、ちょっとフラフラしていたらしい。
簡単とは言っても、妖結晶を見ている間は、緊張感を保ち、目の色を変えておかなければならないから、ダメージはあったのだ。
絹田さん、心配してくれて、あやかさんに会うなり報告。
それを聞いて、あやかさん、ちょっと強い視線で、おれをジキッと見たので、一瞬、先日のトラウマがよみがえり、ギクッとした。
でも、あやかさん、すぐに、ニッと笑って、脅しの効果を味わっているような、嫌な感じ。
おれの『ギクッ』が、本当にうれしいような…、何なんだろう、まったく…。
それから、おれに向かってゆっくりと言った。
「無理するなって、言ったじゃないの」
「まあ、わずかに、限界越え、ってところだよ」
「わずかに、って感じでもないんだけれどね…。
かなり、と言ってもいいと思うよ、今のあなたの状態…。
それで、デンさんが、迎えに来てくれるってさ。
7時頃って頼んでおいたから、それまで、そこのソファーに横になって、ゆっくりしていなよ。
あっ、それから、お父さんは、ちょっと用事があって、会えないけれど、よろしく伝えてくれってさ。
しっかりとお礼を言っておいてくれよとまで言ってたよ」
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