I.Ghost : 3

 ――「桐野江美雨」の経歴は、すべて抹消済。

 画面に映った文字を一つずつなぞるように見つめて、もう一度、香椎怜央(かしい れお)は口の中で同じ言葉を反芻した。解せない、と言葉にはしなかったけれど、乱れた髪を苛立ち紛れに指で梳いた仕草には、抑え切れないほどの焦りが滲んでいた。桐野江美雨は、昨日この世界から姿を消し――そして、最早彼女は、彼女を知る人の記憶の中でしか存在しなくなったのだ。彼女を描く輪郭は、もう誰かの記憶の中にしか留まっていない。

 怜央は、心身を休めるようにソファの背凭れに深く体を沈めて息を吐いた。室外から、未だ慌ただしく人が行き交う雑踏の音が聞こえてくる。一部の生徒の間で『不夜城』と噂される「新聞部」の部室は、その日、二十一時を過ぎても未だ灯りがついたままだった。いつもなら、顧問の教師が見廻りの途中で部室を覗き帰宅を促すのだが、今日に限っては昨晩の事件の影響で、教師陣も身動きが取れずにいたようである。教師たちと、昨日起こった事件の捜査を開始した特務機関の関係者が、未だ学内を眠らせずにいるのであろう。

 怜央は、背凭れに身を預けたまま、ゆっくりと両方の瞼を閉じた。眠るのではない。暗闇に沈みゆくプロセスの途中で、記憶の中に残っている桐野江美雨の輪郭が浮かび上がってくるのを待った。――香椎怜央さん。あの夏の日、自分の名を問い気味に呼んだ美雨の心地良い呼び声が耳元で響いた。


「『新聞部』所属、香椎……怜央さん?」

 急に背後から呼び止められて、美雨は戸惑った。突然、振り返った途端に名刺を差し出されて驚きを隠せないまま、表面に綴られた所属と名前を確認するように読み上げた。そして、名と、自分を呼び止めた少女の顔を見比べる。毅然とした眼差しが印象的だった。燃え盛るような輝きを帯びた瞳を見つめ返して、まるで獣みたい、と一瞬思った。灼け付くような夏の陽射しが、さらに利発そうな後輩の表情を鮮やかに印象付けた。

「はい。一応、あなたの後輩になります。……元『新聞部』所属、桐野江美雨、センパイ」

 ぶっきらぼうな口調に加えて、最後の「センパイ」という響きに、微かな敵意が窺えた。美雨には、真意が分からなかったが、敢えて触れることもしなかった。美雨の隣りを歩いていたもう一人の少女は、早くこの場を立ち去りたいとでも言うように、困惑気味な視線を怜央に向けた。怜央は、それに気付かないフリをした。

「その、『新聞部』の人が、私に何かご用かしら?」

 怜央は頷いて、自分の携帯端末の画面に映った一枚の記事を示した。書き手の名は、「桐野江美雨」とある。美雨は、嗚呼それ、と画面を一瞥して、少し困ったような顔で呟く。――題名は、「東京絶対防衛線・『天原区』決戦への筋書き」とあった。

「御見事、と思ったので、詳しく話を聞きに来ました。フツーの學生が知るには、結構ヤバい情報が一杯あります――何故、學園新聞程度のメディアに、それが抜けたのか……」

 怒っているのか、賞賛しているのか、怜央の複雑な表情からは読み取れない。やや桜色に紅潮した頬が、純粋に感動しているようにも思わせた。

「そして、そんな方が、何故、『新聞部』を去ったのか――」

 私は知りたいのだ、と――好奇心を隠さずに向けられた、獲物を追う獣のような鋭い視線がそれを物語っていた。美雨は困ったように笑いながら、一緒に歩いていた少女に、まるで救いを求めるようにそちらを見遣る。

「でも、ほら……それ……危険思想だって、先生たちみんなに批判された記事だし」

 だから、『新聞部』を追われたの、と消え入るような声で口ごもる。

「でも、あなたには、信念があった――だから、この記事を書いたんでしょう!」

 廊下全体に、授業の始まりを告げるチャイムと怜央のやや怒気を帯びた声が響き渡った。教室へと急ぐ生徒たちが、怜央たちに怪訝な視線を注ぐ。怜央は、それさえ気付かぬフリをした。視界に捉えているのは、桐野江美雨、一人のみ。

 私はきっと、この人に憧れていて、だから逃げ出したこの人のことを許せないんだ――と、この後、別れた後に素直に思った。美雨の魂に直接触れられるようなその記事を読んだとき、きっと、彼女こそ自分の目指しているジャーナリストそのものだと思ったから。記事を読み終えた瞬間の、あの胸の奥の震えは、きっと一生忘れられないと思ったから――。


 デスクの上に、放り投げられたように横たわっていた携帯端末が、不意に軽快な音を立てて鳴った。現実に引き戻され、怜央は携帯端末を手に取って耳元に当てる。

「はい。香椎です」

「……俺が貸した例の資料、役に立ってるか」

 丁度帰るときに部室の方を見たら、未だ灯りがついていたからさ……。未だいるんだろうと思って電話をしたのさ。当たり、と言わんばかりに、電話の向こうで男は微かに笑った。対照的に、怜央は溜め息を隠さない。

「日向野先輩……嫌がらせなら、切りますよ」

「別に、嫌がらせをしたくて電話をした訳じゃない。……例の資料、どうだ」

「お陰さまで、今夜は帰れそうにないですよ」

 ヒガノと呼ばれた男の声に、微かに雨音が混ざっている。屋外にでもいるのだろうか、と雨脚が緩みそうもない窓の向こうを見遣る。

「先輩、よく、あんなヤバい資料、持ち出せましたね」

「まあな。桐野江は、不思議と目を引くヤツだった。だから、アイツが何を読んでるんだろう、と気になっていてな」

「それで、彼女の貸し出し記録を調べてみた、と」

「そうだ」

 怜央は、デスクの上に散らばっていた、『重要機密』の印を押された数枚の書類を手元に手繰り寄せた。入学してから、桐野江美雨が図書館で借りていた書籍や資料の一覧だった。

「そして、桐野江先輩は、この学園の研究資料を読み漁っていた、と」

「表向きは、な」

「表向き……は?」

「そうだ。桐野江は、その他にも、何度も學園の貸し出し禁止の書庫へも立ち入っている」

 何故、と問おうとして言葉を飲み込む。その代わりに、貸し出し禁止の書庫に関する情報を、手元の資料の中から探り当てる。確か、一般の生徒では絶対に出入りできず、図書委員の中でも特別に許可されたメンバーだけが業務の目的にのみ立ち入ることが赦された聖域。そこには、この學園にまつわる歴史から、これまで重ねられてきた極秘プロジェクトの研究資料等が所狭しと並んでいるという。怜央も、噂程度でしか話を聞いたことがなく、実際に立ち入ったことはない。

 だが、電話の相手――日向野陸玖は、そこに立ち入る権限を持っていて、桐野江美雨も何度か立ち入っていたという。

 そこに、何があったというのだろうか。

「それで、桐野江先輩は、一般生徒には隠されている、何の極秘資料を呼んでいたんですか?」

「今は未だ分からない」

「今は?」

「そうだ。桐野江美雨と親しくしていた、同じ図書委員のヤツに接触を試みたんだが、未だ何の話も聞き出せていない」

「つまり、その桐野江美雨と親しかった図書委員は、彼女が何をやろうとしていたか、知っているということ?」

「本人にその自覚はないだろうが――恐らくはな。滑稽なことに、あいつは『戦友だった』と言った」

 何と戦っていたんだか。そう呆れ気味に呟いた陸玖が、電話の向こうで苦笑を浮かべたのが目に見えるようだった。親しみと困惑とが声色に混じったのが怜央には分かったが、それには触れずにいた。

 怜央は、インタビューをしているような口調で問い返す。

「日向野先輩は、何故、桐野江美雨の足跡を追っているんですか」

 日向野は言葉を返す前に、喉を鳴らして笑った。続いて、記事にはするなよ、と前置きを付け加えた。

「あいつは何かを企んでいたし、それは少なからず俺たちに何らかの影響を与えるものだったと思っているからだ。昨晩の事件、あれも何かの前兆だと思う。俺は、何かが終わったんじゃなく、何かが始まったんだと思っている」

 ――世界が、彼女を喪ったのとともに。

 押し黙った陸玖の沈黙の中には、明らかにそのメッセージが込められていた。それは、ただの俺の勘だが、と陸玖は言い訳めいた口調で会話を一方的に締めた。怜央も、肯定も否定もしなかった。ただ触発されて、昔一度だけ、桐野江美雨に抱いた違和感が、まるで今改めて目覚めたかのように胸の中で蘇ってきた。普通のどこにでもいるような少女のように見えた桐野江美雨の仮面の奥に、底の無い深淵が潜んでいるような、そんな直感を得たあのときの違和感が。

 陸玖は、暫くの沈黙の後、また連絡すると言って電話を切った。怜央は、胸をざわつかせる違和感に抗うことなく、まるでそれと二人だけで静かに対話するように目を閉じ、またソファに深く深く体を沈めた。


 ――掴めない人。

 あの夏の日、廊下に鳴り響いたチャイムから逃れるように走り去っていった桐野江美雨の細い背中を見つめて、怜央は彼女のことをそう記録した。雲や風のような、純粋で美しいものではない。まるで、幻。手を伸ばしても何も掴めず、逆に何かに囚われてしまいそうな畏怖さえ感じさせる――罠のような幻。それ以上は追ってはいけない、と直感が警鐘を鳴らした。でも、彼女が残した記事に心奪われたのも確かで。怜央は葛藤を押さえられないまま窓辺に寄って、澄み渡る晴天を見上げた。清々しいほどに澄んでいる、夏空の蒼。怜央は、美雨の確かな所在をもう一度探り当てるように、手に持ったままの端末を覗いた。

 「東京絶対防衛線・『天原区』決戦への筋書き」というタイトルが、彼女の名と共に刻まれている。

 「決戦」

 凪いだ海のように、一点の染みさえない空を見つめて、怜央は似つかわしくない単語を呟く。そして、何との、という疑問が雨のように降り返してくるのを全身で受け止めた。

 桐野江美雨は、記事の中でこう書き記している。

 ――第二十四番目の政府直轄特別管理区『天原区』は、「東京」を「敵」から守る絶対防衛線としての戦略拠点であり、我々は今後「敵」との決戦をこの地で行う。我々は、そのために集められた『決戦兵器』である、と。

 桐野江美雨が「學園新聞」を通じて発表した、まるで妄想小説のような記事の内容に、99.9%の生徒が狂言だと嘲笑ったことだろう。でも、残り0.1%の中に含まれていた怜央は、何故かそれが桐野江美雨の妄言だとは不思議と思えなかった。それは、ジャーナリスト志望の彼女ならではの、直感がそう思わせたのかもしれない。だから、その本人に真相を確かめてみたいと思ったのだ。――ジャーナリストとしての誇りを賭けて。


 怜央は、ソファの中でゆっくりと瞳を開く。桐野江美雨を喪った世界が、彼女の目の前にまた戻ってくる。時刻は、いつの間にか、二十二時を少し回っていた。怜央は、一瞬の躊躇を経た後、握り締めた拳で、迷うことなく一直線にキーボードを叩き付けた。

 激しい音と共に、次の瞬間、画面の文字が吹き飛ぶように消えた。

 桐野江美雨が隠し続けてきた真相も、怜央の胸中も、すべては沈黙と「聖誕祭」の静寂の中に秘められたまま、世界はそのまま明日に向かって進み続けていた。

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SPY Rain 狩部崇介 @karibe_sousuke

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