I.Ghost : 2
剣道場の壁に掛かった時計の針は、もう間もなく十八時三十分を指そうとしている。通常の下校時間より、一時間ほど超過している。青峰筐輔(おうみね きょうすけ)が所属する『九鉄學園』剣道部は、年明けから始まる、春の全国高校選手権の予選に向けて、特別稽古の期間に入っていた。今日は、今朝の緊急召集を除いては、概ね予定通りの一日だったと言える。筐輔は、練習後の気の昂りを鎮めようと、試合場の片隅に正座し、瞼を閉じた。そのまま、肩で荒く呼吸を繰り返している。
先程まで場内に立ち込めていた熱気は、波が引いていくように屋外へと流れ出ていく。主将、お先でーすっ、と入り口の向こうから投げ込まれ、やがて遠ざかっていく若々しい少年たちの声と足音を、筐輔は微かに苦笑を浮かべて受け止めた。
呼吸を整えようと思って座り込んだら、立てなくなった。無意識の内に、練習に熱が籠り過ぎていたのかもしれない。――涙を流す代わりに、汗でも流せば気が晴れるだろう、と思ったのは少し乱暴だったのかもしれない。
人気の無い剣道場に独りで座っていると、望まなくても「桐野江美雨」と過ごした時間が思い出されてきた。まるで、美雨の亡霊が、すぐそばにいるかのような気さえしてくる。屋根を打つ小雨の音が、彼女が歩み寄ってくる足音に似ていると思った。
「――好きな人が、できたの」
夏の終わりに、美雨が自分の汗ばんだ背中に突然額を当てて呟いた。二人だけの秘密、とでも言うように、すぐそばで。胴着越しに、密着した美雨の体温が仄かに伝わってくる。両脇から自分を囲う美雨の両腕が、微かに強張ったのが分かった。
もう、顔一つ分背丈が違う幼馴染みの頬が、背の中心当たりに微かに当たる。俺にわざわざ報告する必要などない、と言ったとき、そうだよね――キョウちゃん、いつもありがとう、もう大丈夫、と美雨は囁いた。大丈夫よ、と繰り返した。
美雨に抱き締められたのは、そのときが初めてで――最後になった。
「新しい主将は、練習熱心ね。感心、感心」
突然掛けられた声に現実に引き戻され、ハッと声のした方に向き直る。出入口から、やや赤みがかったショートカットの少女が顔だけ覗かせていた。前主将を務めた、一学年先輩の四辻絢之(よつつじ あやの)だった。受験に備えて、今年の夏の大会を境に引退し、それ以来は疎遠になっていた。廊下ですれ違うときに挨拶を交わす程度になっていたので、随分と懐かしい気がした。
絢之は、慣れた足付きで剣道場へと入ってくる。立ち上がろうとした筐輔をすらりと伸びた両手で座るように制した後、少し距離を空けて座る。
「聞いたわ」
と、その場に居ることを正当化するような口調で、絢之は言う。
「昨日の事件に巻き込まれたの、よく見学に来てた、あの子でしょう」
絢之は、自分が入ってきた出入口の方を一瞥する。自分がまだ現役の部員だった頃、時々扉に身を隠すようにしながら、剣道部の練習を――筐輔を見に来ていた姿を思い出す。あの頃には、こんな事件が起こるなんて想像なんてしてなかったな、と独りごちる。
「何て、言ったら良いか――」
筐輔が、自分が起こしたことのように詫びる。
「バカね、それは、こっちの台詞よ」
大丈夫、と尋ねる。そして、それ以上は言葉を挟まない。筐輔が、無駄口が嫌いだということを知っているからだ。
「色々終わるまで、お式も行われないみたいね」
そうして、また幾許かの時間が過ぎた。いくら待っても、筐輔からの返答は無い。じっと、かつて桐野江美雨が立っていた辺りの一点を見つめている。絢之は、筐輔の傍らに横たわる竹刀を見る。少し付き合おうか、と言い掛けて、言葉を飲み込んだ。筐輔が気の済むまで、二人で雨の音を聞いていても良いと思った。きっと、今どんな話をしても、白々しく聞こえてしまうのだろう。筐輔にとって、美雨が、どんなものよりも大切な場所に在ったことを知っていたからだ。――自分よりも、もっともっと手の届かないくらい遠く、大切にされる尊い場所に。
夜が深まり、雨はやがて音だけになっていく。
「――同じクラスの、九重くんって男子。キョウちゃんは、知ってる?」
筐輔は、微動すらしない。額から目元へ、そして、頬へと伝う幾筋かの汗さえ拭わずに。美雨は、まるで諭すような口調で言葉を紡ぐ。筐輔との別れの言葉のように――それを目の前の、かつて自分が知っていたものよりも随分と広くなった背中に刻んで、永遠のものとするように。優しく、哀しい響きを持って綴る。
「彼に、誰よりもシンパシィを感じるの。キョウちゃんは、そういう人、いる?」
「……あぁ」
「良かった。それなら、キョウちゃんも独りじゃないのね。……その人、どんな人?」
筐輔は、眉を寄せて無言の回答を返す。
「キョウちゃんさ、お母さんのことがあるから、今でもずっと一緒にいてくれてるけど。お父さんも私も、もう大丈夫。私も、いつまでも子どもじゃないし」
「でも、お前が、和澄(あすみ)さん――母親を喪ったのは、俺の所為だ」
「ううん、あれは仕方なかったの。『呪い』なの。キョウちゃんの、所為なんかじゃない。だから、私、キョウちゃんを恨んだりなんてしてないよ」
ごめんなさい――謝られて、また筐輔は言葉を飲み込む。自分と幼馴染みを結び付けていたのは、幼い頃から決して消えることのない罪悪感。互いに向き合って負った、癒えることのない傷。筐輔は、出来るならば、事件が起こった「あの日」のことなど二度と思い出したくもなかった。その願いが叶えられたことなど、「あの日」から一度もなかったが。
筐輔の関係する事件で母親が逝ったことを、美雨は『呪い』と言う。――『呪い』とは、何なのだろう。美雨が慰めるようにその言葉を使うたび、筐輔は真実から遠ざけられるようで絶望した。一度だけ、「詳しく教えてくれ」と迫ったが、上手く説明できないと言われ断られた。それ以来、聞けず仕舞いでいた。
「いつか、お前も同じように、その『呪い』に取り込まれてしまうのか」
絞り出すような声で、今まで聞けなかったことを言葉にする。こくり、と背後の少女が小さく頷く。いつかきっと、と。
――キョウちゃん、だから、もう充分なの。細い声で、筐輔の背中側から胸の奥へと別れの言葉を埋め込むように美雨は言った。
その瞬間、筐輔は振り返り、強く強く美雨を腕の中に抱いた。美雨が、痛いよ、と呻くのを止めるまで、ずっとずっと抱き締めた。
まるで、そこから何処にも行かせないように、『呪縛』をかけるように。強く、強く抱いた。
「――先輩は、この世界に、『呪い』というものがあると思いますか」
何、突然、と絢之は訝しげな眼差しを向ける。その話が、今回の事件にどう関係あるの、と聞こうとして――その前に、筐輔が口を開いた。時計を見ている。
「もう、こんな時間でしたね。変な話に付き合わせてしまって、すみません」
筐輔が、やや強引な口調で話を終わらせてから、竹刀の柄を掴む。胴着の襟を正し、先程まで汗にまみれていた全身が程好く冷めてきた頃合いを見計らって立ち上がる。絢之は、その洗練された所作を座ったまま見上げながら、帰るの、と問うた。
「いえ、俺は、もう少しだけ練習してから帰ります。――先輩、今日は、ありがとうございました」
筐輔は、深々と頭を下げた後、全身鏡の前まで向かう。絢之は、鏡の前で竹刀を構える筐輔を見て、諦めたように溜め息をついて立ち上がる。スカートについた僅かな埃を掌で払いながら、目を伏せる。集中を妨げないために、何も声をかけずに立ち去ろうと考えたが、出口を抜ける直前に立ち止まり、誰に言うでもなく言葉を吐き出す。
「青峰クン……確かなことは言えないけれど。『呪い』というものは、この世の何処かにはあるのかもしれない。すべてが単純で、綺麗なことばかりじゃあないものね」
唇からは内心とは裏腹に、あまり根を詰めないようにね、と気遣う言葉が続けて溢れ落ちた。――限界だった。これ以上、ここにいたら、変なことを言ってしまいそう。
絢之は、場外へ出た途端、胸の中に芽吹いた言葉を、体の奥深くまで押し沈めるように深く息を吸う。何度も、何度も、自分に根付く悪意が消えてなくなるまで、ずっと。――あの子を呪いたかった気持ち、貴方は知らないし、永遠に分からないでしょう。
背後の場内からは、筐輔の威勢の良い鋭い声が聞こえてくる。鏡の前で、まるで真正面から向き合って自分自身を責め抜き、呪い、切り刻もうとしているかのような筐輔の姿が脳裏に浮かんだ。絢之は、その場から逃げるように走り去った。
この苦しみを、『呪い』以外に、何て言えば良いんだろうか。
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