I.Ghost : 1
昨夜未明から降り始めた雪は、日が明けてからも止むことはなく、「東京」全域を白く覆い始めようとしていた。窓際後方に座る鳴原倫(なるはら とも)の席からは、うっすらと雪景色に染まり始めた校庭がよく見えた。
2022年12月25日は、暦上は『日曜日』だったが、早朝に學園中を巡った報道と學園側からの「命令」を持って、その日、全校生徒は特別登校を余儀無くされた。
倫――彼女も、その中の一人だった。
昨日、誰もが僅かながら浮き足立っていた「クリスマス・イブ」の真夜中に起きた謎の事件。例の同級生にまつわる一連の話を、倫は同級生らと共に早朝から呼び出され、今、まさに担任の口から聞かされていた。
倫は頬杖をつきながら、窓の向こうの、灰色の東京湾に身を投げていく雪の集団を眺めている。出席確認を終えてからずっと、倫は黙りこくって、担任が諭すように語る「桐野江美雨」の話を静かに受け止めていた。
自分の席から二列ほど先の斜め前辺り、黒板の方を向くと視界の隅に入るその場所に、いつも彼女は座っていた――が、今日はその背姿は無い。宙に穴が空いたようなその場所からは、先週までそこにいた彼女の面影さえ喪われたように思えた。何度か彼女の存在を思い出すようにじっとその辺りを眺めてはみたけれど、倫の胸に大きなざわめきは生まれなかった。涙などは、流れたりしなかった。
「え~っ、桐野江くんは……」
2-Bの担任教諭・葉室(はむろ)は、大袈裟な咳払いの後、弔いの句を読むように、感情の籠らない声で故人について淡々と話し続けた。葉室の話が進むにつれ、教室の其処彼処から少女たちの啜り泣く声が細波のように押し寄せたり、誰かがやり場なく吐き出した溜め息が重く響いたり――倫は、教室内を覆い始めた重苦しさを遠ざけるように、人知れず深呼吸を繰り返した。現実から目を逸らすように、雪を飲み込んでいく東京湾を見る。
――鳴原クン、君は、きっと『戦友』なのよ。
東京湾を漂う波が、揺れては互いに打ち合うたび、記憶に残る、あの日の美雨の声が耳元で反響する。そして、残響のように現実に押し流されながら、やがて細くなり、その幻は跡形もなく消えていった。
確か、第一学期の終わりの頃だったか。遠い日の記憶から、あの日の時間を手繰る。放課後、日直の担当業務の一つだった日誌を書き終えて帰ろうとしたときのこと。一人、自分以外に誰もいなかった教室に戻ってきたその人――桐野江美雨は、その日、屈託なく笑ってそう言った。
今でも覚えている、あの夏の日の、制服の下で汗ばんでいた体と、眩みそうになるくらいの初夏の陽射し。短い夏の始まりを告げる蝉の斉唱。そして、それを持ってさえも遮ることのできなかった彼女の澄んだ声。
――鳴原クンは、私のことを信じてくれる?
フラッシュバックのときでさえ、色褪せることのない意志の籠った声……。
誰とも打ち解けることなく終わろうとしていた第一学期に、突然繋がりが生まれた一人の少女、桐野江美雨。
倫は、あの夏の日のやりとりが瞼の裏で再現されそうになった瞬間、記憶を塞いだ。
担任教諭・葉室の声が、耳に降り注ぐように戻ってくる。
「新しい情報があれば、正式に學園からみんなにも連絡があるだろう。それまでは、無闇に詮索したり取り乱したりせず、心身を平静に保つ努力をすること。――どんなに哀しんでも、桐野江くんは、もう戻ってこない。正式な通達があるまでは、各自身辺に注意するように」
倫は、葉室の話が一区切りついた後、誰もが沈黙を持て余し始めたことに気付いて、また視線の置き処を探す。そして、もう一つ席が空いていることに気付く。嗚呼、あそこは――。桐野江美雨と付き合っている、と噂されていた、『九重初馬(ここのえ はつま)』という名の男子生徒の席だった。恋人を突然喪ったことにショックを受けて、今日は欠席したのだろうか。
HR終了のチャイムが鳴り、一堂が席を立った。倫は、顔すら上手く思い出せそうにない同級生について考えるのをやめて、礼の一団に遅れて加わった。
同日、夕刻。『九鉄學園』の生徒が専ら御用達にしているファストフード店『GeeG』は、この日も例に漏れず混雑していた。下校途中に立ち寄った生徒たちの姿も少なくない。かつては美雨と、この騒々しくも生気溢れた光景の中に居たことを倫は懐かしく思った。
今日、いつもより騒がしい気がするのは、週末の事件の噂が所狭しと駆け巡っているからだろう。倫は、喧騒から逃れるように窓際の二人席に腰を下ろし、薄暗く曇った午後の風景に視線を投げた。表通りでは、傘を差した人々が足早に往来している。雪は、いつの間にか小雨に変わっていた。
テーブルの上では、口の付けられていないクランベリジュースが、まるで小雨に降られたかのように、グラスの淵に点々と水滴を付けていた。倫は、暫くの間、思案を巡らせていた。眉をやや潜めて、雨に塗り替えられようとしている淡い雪景色の一点を見つめている。
「珈琲じゃないなんて、物珍しいな。今日は、いつもより冷えているのに」
やや細身の倫より二回りほど体格の大きな男子生徒に背後から声を掛けられて、倫の表情はより険しくなった。誰が勝手に座って良い、と――視線で制しようとする前に、その男子生徒は、それがまるで自分だけが赦された特権であるかのような振る舞いで、向かいの席に腰を下ろしていた。
同じ図書委員会に属する、日向野陸玖(ひがの りく)だった。
「桐野江のこと、考えていたんだろう」
陸玖の気遣うような深い眼差しと共に放たれた問いに、倫は何も答えなかった。何も語らず、自分の瞳を覗き込む二つの暗褐色の瞳から、自分の視線を外した。
「追悼、か。相変わらず、律儀なヤツだな」
「違う。そんなんじゃない」
そう言いながら、誰も手の付けていないクランベリジュースへと伸ばした陸玖の手を、倫は勢い良く払い除けた。
「桐野江の、なんだろう、それ」
陸玖は、そう呟いて、倫の視線の先を追う。暫くの間、二人はそうして黙っていた。あの夏に出会ってから何度も、二人はこの店で向かい合い、倫は珈琲を口にし、美雨は冷たいクランベリジュースを飲み干した。陸玖が、今日の自分たちと同じように向き合う二人の姿を目にしたことも、一度や二度ではなかった。
「――予感、はあったの」
「予感?」
「そう、彼女が去っていく予感。だから、今、とても不思議な気持ちなの。彼女がこの世界からいなくなった、と言われることが、何かの始まりなのか、それとも何かの続きなのか……そんな気がして。未だどちらなのか、確信はないけれど。ただ、未だ何も終わってはいないことだけは、はっきりと分かる。だから、哀しみも無い。今は、この予感を見誤らないように確かめようとしているだけ」
倫は、その予感を手で掴むように、自分の胸に手を置いて軽く握った。
すぐ傍のテーブルでも、止め処なく、足早に噂話が駆け抜けていく。あれは自らの手で、とか。「天原区」完成と同時に噂が立ち始めた、特別なプロジェクトの犠牲になった、とか。店内のあちこちで様々な憶測が飛び交い、すきま風のように二人の間に入り込んでくる。まるで根も葉もない噂から、美雨が遺した予感を守るかのように、倫は両手を重ねて握り締めた。
「意外だった」
と、倫の横顔を見ながら陸玖が呟く。何が、と倫は顔を向けて続きを促す。
「桐野江とお前が、そんなに深い仲だったなんて」
倫は、脳裏に甦ってきた、あの夏の日、確かな声で、美雨が言った言葉を繰り返した。
「……私たち、『戦友』だったのよ」
「――『戦友』」
誰もいなくなった放課後の教室に、突然戻ってきた同級生の口から予想外の言葉が転がってきたので、倫は、半ば呆れつつ怪訝な声で反芻した。質の悪い冗談、と思った。喉元に伝った一筋の汗を、手の甲で拭った。
第一学期を共に同じクラスで過ごしたとはいえ、初対面にも近かった桐野江美雨に、いきなり『戦友』と呼ばれて、からかわれていること以外に結論が行き当たらなかった。彼女に、そんな人を弄ぶような、性悪そうな印象を一度も抱いたことはなかったけれど。人は、見かけに依らないのかもしれない。
「うん、そう。『戦友』と呼ぶのが、一番正しいんじゃないかと思ったの、私たち」
何故、と問うような視線を向けたら、逆に、どうして信じられないの、と問いかけられるような視線が絡み返されて、倫は、苦笑いと共に美雨の視線を受け流した。美雨の、強引さにも驚く。自分が抱いていた第一印象の中には、そんなキィ・ワードは全く含まれていなかったから。
「私、何かと戦っているつもりはないし、戦うとしても、誰かと一緒、なんて気は更々ないのよね。そういうのは、苦手なの」
会話の終わりを一方的に告げるように、倫は日誌のファイルを静かに閉じる。先週辺りから声を上げ始めた蝉が、今日の午後に入ってからは、急にサイレンのようにけたたましく鳴き叫び始めていた。夏が来た、と思った。倫は、ファイルを机で軽く叩いて整え、席を立つ。
「もしかして、私がいつも独りでいるから、声をかけてくれたのかしら。ありがとう――でも、ごめんなさい。私、独りの方が好きなの。気楽だし」
倫が、強がりだと誤解されないように一つ一つ言葉を選びながら答えたとき、美雨はカーテンのかかった窓際へと移っていた。生地の隙間から透けて滲み出てくる西陽を浴びながら、美雨は、そんなつもりじゃないわ、と黄金色の光に溶け込みながら言った。微風に翻るカーテンが、時折、美雨を腕に抱く。
倫には、美雨の浮かべた表情が、既に西陽の中に溶け込んでいて分からなかった。微かに、口元の動きだけが見える。そこに、悪意もからかいも、無いように思えた。手に持った日誌用の黒いファイルで、直接顔に当たる光を遮って美雨の様子を探る。美雨の輪郭を、辛うじてとらえた。
「桐野江さん、あなたは、何と戦っているというの」
光の中へ、問いを投げる。それは、夏の日に吸い込まれていって、蝉の声にかき消された。美雨は、答えを濁すように微笑んで、この後の予定は、と聞き返してきた。折角だから、お茶でも飲みながら話さない――倫は、あまりに澱みなく喋る美雨の言葉と強引さに一瞬言葉を詰まらせ、この後は日誌を提出して、と喉の奥から絞り出すように返して鞄に手を伸ばす。それ以外の予定なんて、何もなかった。
西陽が差し込んでくる方の窓を眩しそうに見遣る。日は傾きつつあるが、沈むにはまだ遠い。いつも、このまま日が暮れるのを静かに待って、夜になれば独りで眠り、あとは夜が明けるのを待つだけだ。毎日、その繰り返し。明日も、きっと同じ。明後日も。ずっと、同じ道筋を辿るように変わらない一日を迎えていく。今日書き上げた日誌の内容みたいに。時計が、毎日同じ記号の上を針でなぞり、同じリズムで同じ回転を繰り返すように。
――ただ、その日は、偶然にも違った。日誌に綴った「特に、異常なし」という文字が脳裏を過ったとき、変なことを言う目の前の彼女の強引さに手を預けて、自分の「檻」から出てみても良いかもしれない、という気紛れが、自分の中で弾けるように沸き起こった。自分でも、意外だった。
倫は、その日美雨に誘われて、初めて『GeeG』という学校の近くのファストフード店で珈琲を飲んだ。毎日遠巻きに、蔑むような眼差しで眺めてきたあの學園の風景に、今、自分も溶け込んでいる。それは、そんなに思っていたほど嫌な感触がしないことを、その日、倫は生まれて初めて知った。
あの日から、同じ時間は、二度とやってこなくなった。
「私、今回の事件が、『事故』だとは思えない――彼女は、きっと、何かと戦ったの」
「戦った……」
語尾のやや上がった陸玖の言葉に、倫は目を伏せて、僅かに首を縦に振る。陸玖の隆起の激しい指先が、トレイの上の小さな水滴を一つ拭った。
「私、彼女が何と戦っていたのかは知らない。でも、彼女は、きっと何かと戦って……」
続いた言葉は、淡い希望から来る、彼女を喪ったことを受け入れるための後付けの理由を形作ろうとしているのかもしれなかった。倫は、「死」という言葉で、決してそれを呼ぼうとしなかった。一瞬躊躇して、口を開く。
「彼女が戦って遺そうとした、彼女のメッセージを、理解してみたいと思ってるの」
それは、途方も無い願いを、途方も無く縋り続けて祈ろうとするような、どこか切実な呻きに近い響きがあった。倫は、答えを探すように外を向き続ける。夕闇と夜が溶け合いながら、また彼女を喪った世界が、「明日」へと向かおうとしているのを知らせる。色とりどりの傘と鉛色の空のコントラストが、やがて音も無く境界線を失っていく。
陸玖は、もうそれ以上は聞かなかった。
二人が見つめる先には、ぼんやりと街の輪郭が浮かび始めた「東京」の夜景と、その中でも一際尖って目立つ光の塔がある。今日も、「東京」の絶対的なシンボルとして君臨する『第一次・東京タワー』は、一際燃えるように赤々と輝き、人の目を惹き付ける。二人は、自然とそれを見ていた。
「東京」に、また新しい夜が迫っていた。
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