第3話 生と死 ~生きる道

重い十字架を背負いながら歩くのは辛いもの。


 戦争によって大切な人も想い出を奪われてしまった、体調を損ねてしまった、精神を狂わされた・・・。

 人というものは、特に哀しい体験や想いというものを誰かに聴いてもらいたい時がある。

 「人は一人では生きていけない」というチープなスローガンのようなものなんかじゃなくて。


 悩みや哀しい体験を打ち明けるのは、相手を信頼してるから。話された側に心を委ねる。ある意味、「責任を持たせてしまう」ことでもある。自分の気持ちを軽くして下さい、という。

 

 もしも世の中の人達全てが自分のことを責めたり悪者にしたとして、「絶対にあなたを守る、あなたの味方をする」ーーそんな人の存在がいると嬉しいこと。

 その信頼関係は、苦しんだり挫折した時によくわかる。自分がどれだけ人から大切にされていたのか、無視されるのか。それまでの自分の言動で。

 踊りの先生には味方がいた。それは、それまでの先生の言動、人柄のため。


 ただ、ただ話を聴いて欲しいと思うこと。

 否定することなく、話し終るまで最後まで何も言わずアドヴァイスもせず、何度同じ話を繰り返しても聞いてくれる存在がいると支えられてる気がする。



 それは昔も今も変わらないことだと思う。

 もしも、その時に「あなたよりも大変な目にあった人はいる。マシなんじゃないの、もう早く忘れたら?」なんて言われたら、二度とその相手に心を開くことはないだろう。


 不幸も幸も秤にかけられるものじゃないし、何も言わずに聴いてくれれば自己カウンセリングのような癒しになる。

 余計なアドヴァイスは要らない。ただ、隣りにいて寄り添ってくれる人がいることって違うんだろう。


 ***


 近衛兵このえへいは容姿端麗で頭脳明晰でないと合格できなかったんだ、そう誇らしげに話した私の祖父。彼の体験も祖母の話しも何度も聴いてきた。

 それは近衛兵に選ばれたという名誉を自慢してるわけではなくて、もしかしたら「生き延びることが出来た」ことへの感謝と安堵の笑みなのだろうか。


 沢山の部隊に分かれ、連絡事項はどんな些細なことであっても重要なことでも、一度言われたことはその場で完全に暗記をしなくてはならない。

 メモを取るのは禁止だった。そのメモを失くしたり、とられてしまうことを恐れられて。護衛交代の時間でも自分達のとる食事内容変更であっても、絶対に他の部隊の人間と教え合ってはならない。味方同士であっても、スパイがいるかもしれないからだ。

 二重スパイという難しい立場の人間も兵士の間にも特攻をはじめ、どこにでもいたという。

 味方を信じるのではなく疑いを常に持って行動するというのは、祖父にとってどう感じていたかはわからない。生死がかかってるのだから仕方がないと思っていたのだろうか。徹底的に訓練されていたのだから、訓練が自分の価値観になるものかもしれない。

 それを、聞くことは今は出来ない。


 東京に大空襲があるという噂が出ていたらしい。

 皇居のある東京で、そんなことはあるはずがないと仲間は「デマだ」と言っていたらしいが本当に起こってしまった。

 そして、家族のもとに帰ることになるが、祖母にしてみれば「この字は絶対にあの人の字だ」と手紙を何度も繰り返し読む。

 当日、顔を見る時まで本当に落ち着かなかっただろう。


 旦那さんを亡くした先生は、

「良かったね。本当に帰って来てこられて良かったよ」

 無表情な顔で何度も何度も頷いてくれた。


 ***


 強さ、弱さ、優しさなどの定義のないことはわかりにくい。人によって感じ方が違う。

 戦争で家も家族も親類もなくし、かといって死の選択をすることも出来ない。


 食べていくために身を売る女性達がいた。中には10歳にも満たない少女が男性に体を見せることでお米を貰うという、あってはならないことも。

 それは生きるための知恵なのか、良い意味での開き直りなのか、強いパワーがあったのか誰にもわからないのではないだろうか。「汚れた女性達」と軽蔑する人もいるだろう。


 混乱とめちゃくちゃになった街の中で、男性から犯された多くの女性がいた。犯されたり自分もそうなるのではと心配した彼女達が死を選ぶこと。それが、強いことか弱いことなのか、賢い選択なのかと誰にも決めることは出来ない。死を美化してはいけない。死ねずに生きる道を選び、犯された悪夢に悩まされる人に対して「忘れたら?」と外野が言うものではない。

 

 配給だけでは足りず、働くことも出来ないのだから方法がない。

 不思議なもので、同じ恐ろしい体験をしていても家も残り家族も無事だった人達は、そんな女性達のことを良く思わなかった。していることが正しいか否かは別として、混沌とした中で生きるために必死だったのだろうが。同じ目にあってないからわからないこともある。

 ほんの1~2分違えば生と死が隣り合わせ、逃げ回り恐怖でおののき、食べるものもないという同じような体験をしたというのに優劣のようなものをつけるのはどういうことなんだろう。

 辛くても傷ついても、死ではなく「生きること」を選んだ人達に。


 踊りの先生はそんな事実も知っていたから「自分は運が良かった」と呟いたのかもしれない。酷い体験をしてきたというのに。


 先生の中では、身を売る女性達のことも犯されて死を選んだ女性達のことも同等のようだった。「そうせずにはいられなかった。したくなくても男性の相手をね」と、人のことを何の色眼鏡で見る人でない器の大きさ。

 置屋や娼館で家族のためといえ、枕を濡らす女性達を幼い頃からみてきた経験と愛する人を亡くした経験からなのかもしれない。

 そうなのだ、正しいか正しくないかの問題ではなく、好きで男性を相手にして米や毎日の食事を、生活を手に入れるだろう。したくなくても・・・そうするしか方法がなかった。



 戦い、おぞましい体験、そしてそれは事実。

 講演会のような大きなものでなくても、個人的に世間話をするように何かのきっかけで話す。

 どんな形であれ、戦争体験した人達から、語り継がれていくということは、もう、これからの時代にはないだろう。あと数年すれば消えてしまうのだ。


 テレビや映画で残酷な映像は放映され、本を読むと写真も載っている。それらから知ることも多いだろうけれど。

 実際に体験した人から聴く、それを新しい時代の誰かに継いでいくのとは少し違う気がする。


 ***


「すみません。足が痺れてきました」

 三味線を弾いてる時に、足の感覚がなくなってしまってバチを落としそうになってしまったことがある。


「まだまだ修業が足りないね。若い人は椅子の生活だから。

 ちょっと休憩しましょうか」


 笑って麦茶を運んでくれる先生は、化粧を直してきたのか白粉が前より白く綺麗になっていた。

「そうだ、ちょっと待ってて。見せたいものがあったのよ」

 よいしょ、と火鉢に手をついて立ち上がり部屋を出ていく。


「これね、博多織りの半幅帯。珍しいでしょ、こんな風に夏用の半幅帯は。

 これはしゃの名古屋帯。桔梗と萩の絵柄が入ってるから6月から9月の終わりまで使えるわよ」


 樟脳しょうのうの匂いがするから窓を開けて換気扇を回すと、外は湿度が高く温風が入ってくる。

 娘さんにもお孫さんにもよく着物や帯を渡してるけれど、まだまだ随分タンスの中に眠っているから遠慮なくもらって頂戴と。

 後で菓子折りを持って行くと「ちょっと待って」と頂き物だけど、とメロンをくれる。

 人が喜ぶことを何度でも返してくれる人なのだ。



 その時も口紅は赤色だった。

 芸に生きた人は「女」を忘れないのだろうか。


 それともやっぱり・・・あの日に見た、燃えている火の色、横たわる人から出ている血の色。


 何種類かの口紅の色はそんな深紅や赤色ばかりを持っているような気がした。


 私は踊りや三味線の稽古よりも、先生の口から語られる戦争体験と、火鉢にひじをついて煙草を吸いながら窓の外を遠い目をして見る姿を忘れないだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

戦火のような深紅の口紅 青砥 瞳 @teresita

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ