第2話 地獄と戦後

 第2話


 「地獄絵」は聞いたことはあるが見たことはない。

 絵の中の想像上のものだけだと思っていた。


 旦那さんの実家は少し離れた時間のかかる所にあった。

 報告と、お骨分けをするために義理の両親の家に行こうとした。親子の仲が悪いのであれば別だが、きっと、あちらの家でもおこつは欲しいのではないだろうか。

 自分には手ぬぐいが形見としてあるから大丈夫、たった3ヶ月の結婚生活。生まれ育った家にいた時間は20年、体ごと両親の元にあってもいい。望まれればお骨を全部、渡す決心で向かった。



 道中は、空襲に狙われた場所だった。

 義理の両親の家も体も、自分のことも心配だが、もう空襲も終わっただろうから安全だろう。再襲撃はまずないだろう。

 それに・・・もしも、そこに空から死の火玉が落ちてきたとして自分もあの世に行くことになるのであれば、そういう運命なのだと。

 この人のお骨を抱きながら死ねるなら、あちらの世界で一緒に、いえ、空襲の瞬間の死ぬ時から一緒にいられるではないか。


 歩きはじめ「地獄絵」とは、このことだと体が震えた。


 倒れて苦しんでる人が、血だらけで助けを求めて着物のすそをつかむ。助けたいが、自分にはどうすることも出来ないのだ。

 ”ごめんなさい、私には助けることが出来ません。お願い。着物から放して、手を放して下さいな。進ませてくださいな”

 目を閉じて頭を下げて謝り、歩いていくしかない。

 死体が所々に横たわり片手がない人のもの、顔もわからない人のもの、体と体が重なっている、誰かが既に一緒に燃やすために何体も集めている光景。

 吐きそうになり口を押さえたり、石ころのように転がってる死体につまづきそうになるとうろたえたが、20分も歩けば恐ろしい空間になれてしまった。

 なれたというより感覚と神経、意識が麻痺していたのかもしれない。


 ***


 戦争が終わり、周りの人々からは何度も同じことを言われるようになる。

 女が子供を抱えて生きていくのはとても無理だから、当時は当たり前とされていたことーー長男が戦死したり事故や病気で他界した時には、その次男と結婚することを勧められていた。

 現在では法律上、配偶者のきょうだいとの結婚は無理なことだが、当時は合法で実際そうしてる人達は少なくなかったようだ。

 

 お腹の子供にしても、子持ちだと再婚したい時に難しくなる。皆が心配するのだ。貴女のため、次男と一緒になればいいのに。「心配して下さって、ありがとうございます」とお礼だけ伝えていた。


 夫の実家にしても同じだった。両親からすれば大事な長男の可愛いい孫が生まれた。次男と再婚すれば親類関係が続くじゃないか、生活の心配もないから一緒になればと。

 頭を床まで下げ、手をついてお願いした。

「私の夫は、あの人です。子供は大切に育てますし、顔を見せに参ります。どうか・・・」


 実家の親は「嫌であればやめておきなさい。貴女に芸は仕込んである。しばらく家に住みながら、師匠として芸を教えて生計を立てればいい」と気持ちを汲んで応援してくれた。

 娘さんは稽古をつけてる間は理解のあるその親がみていてくれて。


 たまたま土地は広かったために分筆して、若い母娘は30坪程の家に住むこととなる。

 隣り同士だから、何かあった時にはお互い助け合うことも出来、心強いと思っていた。


 ***


「当時はね、まだまだ着物を着る人が多かったの。呉服屋の旦那衆は毎晩、芸子、芸者遊びしていてね。それだけ羽振りが良かった。幸い、この辺りは空襲の被害がなかったから物も失わずに済んだのね」


 戦争の恐ろしさも、結婚後3ヶ月で愛する人と別れたことも、昔のその周辺の様子や他愛もないことを、泣きも笑いもせず淡々と私に話す先生。


「若くして夫を失ったからね、墓場まで持っていくような恥ずかしい話も正直あるよ。娘には隠してるけれど、気がついてるかどうかね」


 17歳という若さで子供を産み育て、歩いていると姉妹のように間違われたこともあったという。当時であれば、何人も子供を産む人は多いから子供の年齢差が20歳以上離れているということも、ざらにあった。姉妹に間違われることも頷ける。


 墓場まで持って行く・・・というのは、先生の中の「女」の話しだと思う。

 人には匂わせても良いことでも娘には自分の口からは言わないし言えない。例え、娘が気がついていたとしても。そんな義理堅さ、というよりもマナーを持っていた。


 70代でも毎日化粧をし、白粉おしろいのケースについてる鏡を見て口紅を確認する。それは、置屋に生まれた「さが」のようなものかもしれない。


 ***


 戦後、あっという間に生活のスタイルが変わり、洋服を着る人も増えてきた。

 経済的にも豊かになり、親の借金のかわりに芸子や芸者として置屋に預けられるということもなくなった。実家の置屋も閉められ、日本舞踊、三味線は人々の文化的な趣味として習うように変わっていく。

 先生は変わってきた人々の生活も考え方も見てきた生き証人でもある。戦争による大きな時代の変化を若い頃から肌で感じてきたのだ。



 初めて近くにスーパーが出来た時のこと。

 それまでは、豆腐は豆腐屋さん、味噌は味噌屋さん、卵は卵を売る店・・・役割があったが、スーパーに行けばまとめて商品が並んでる。


「スーパーには何でもあるんだって」

 そう娘さんに行った時に返ってきた言葉は、心に痛い位に刻まれて忘れられないという。


「そこでは『お父さん』も売ってるの?」


 父親がいない淋しさを殆ど言うことはなかった娘さんが「何気なく」言ってしまった、ただ、それが本音だと先生は胸が苦しくなり、何も言えなかったらしい。


 ***


「貴女のところでは、おじいさんが戦争に行ったのかしら?」

「はい。近衛兵で東京の皇居周りの護衛をしていたそうです」

「じゃあ、士官学校のエリートさん?」

「いえ、祖父は、ある日何も聞かされずに呼び出しがあって、身体検査や体力テスト、筆記テストを受けたようでした。数日後に連絡があって近衛兵として行くよう要請されたみたいです。でも、末端の地位でした」

「前線も怖いけれど、それでもね、東京にも大空襲があったんだし。おばあちゃまはとても心細かっただろうね」

「祖母は祖父が帰るという知らせを受けた時に、胸をなでおろしたようでした。

 ただ、朝から駅に行って、来て止まる電車から降りてくる人の顔を一人一人見て『まだ来ない』。次の電車からも降りてこない。その繰り返しのようでした。本当に帰ってくるのかって気が気じゃなかったと言ってました」

「うん、うん・・・。そうね・・・」



 祖父母からも何度か戦争の話しは聴いていた。


 きっと、こんな戦争体験した人達は皆が、誰かに多くの人に聴いてもらいたいんだと思う。そして、無事に生きて残っても苦しいことを体験したり目にしてきた。地獄絵や誰かの死を見てきたのだ。

 アウトプットすることで記憶の浄化をしたい。しきれなくとも。

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