さんびきめ

―――― 八月九日 ――――


 エアコンの風の音が、部屋の中を満たす。

 仕事を無断で休んでからどれだけの月日が経ったか、京子には分からない。家に引き籠もってからの数日間はひっきりなしにスマホが鳴ったが、電池切れと共に静かになった。

 部屋の中には空のプラスチック容器が散乱し、足の踏み場もない。悪臭が漂い、常人ならば一秒と息も出来ないだろう。

 京子は、そんなゴミ溜めに埋もれるように、床に座り込んでいた。

 壁に寄り掛かり、四肢と頭をだらんとさせたいる姿は人形のよう。されど生気を失い、痩せこけた顔に可愛らしさは微塵もない。唇どころか瞳も乾き、ぼんやりと虚空を眺める。

 されど意識はある。それも強力な意識……空腹感が。

 だけど満たせない。

 何故なら手足が動かないから。まるで中の肉がジュースにでもなってしまったかのような、そんな感覚が広がるだけ。ぴくりと痙攣すらしない……そんな状態が、昨晩から続いていた。

 喉にも力が入らず、声が出せなくなっていた。今では擦れた吐息を出すのが精々。昨日呼んでいた弁当屋は、京子が留守だと思って帰ってしまった。手足が動かない今、新しい弁当屋を呼ぶ事なんて出来ない。

 死人のような顔は、間もなく本物となるだろう。京子自身、それを強く感じていた。

「(私……なんで、こんな事、に……)」

 空腹よりもその空腹による苦痛が勝り、ようやく考え事が出来るようになった京子は、しかし頭の中を満たすのは恐怖と後悔の念ばかり。

 自分はどうしてこんな目に遭っているのだろうか。何を間違えたのだろうか。どれだけ考えても答えは出てこない。

 そのままぼうっと、エアコンの音だけが聞こえる部屋の中で考えていると、ふと腹の中で動きを感じた。

 腹が減って胃が暴れているのだろうか。達観し過ぎて暢気な考えを抱く京子だったが、腹の中の動きはどんどん大きくなっていった。最初はただの感覚だと思っていたが、それが勘違いであると気付く。

 腹の中に、何かが居る。

 ぞわぞわとした蠢きは、腹から少しずつ全身に広がっていく。腹の中に居る何かは身体の中身をぐちゃぐちゃに……心臓を破り、肺を引き裂いていくのが感覚として理解出来たが、痛みは不思議とない。空腹だけが、京子を苦しめる。

 やがて蠢きは京子の身体の、ごく薄い場所まで登り……ぷつりと、肌に穴が開いたような感触を覚えた。

 一度始まると、腹に潜んでいた何かはまるで競うように次々と穴を開けてくる。蠢く何かが服の下で溢れ、地面を目指して下りていくのが肌で分かった。

 京子は無意識に、自分の足下に視線を向ける。

 そこには、蛆虫が転がっていた。

 大きさは五センチ近くあり、白くて丸々と太った蛆虫だった。それも一匹二匹ではなく、何十、いや何百と蠢いている。そして蛆虫達は、京子の服の下から次々と零れ出ていた。

 京子は理解した。コイツらこそが、自分の腹の中に居た生き物だと。全身の筋肉を食い尽くし、肺を穴だらけにして、心臓を破いたのだと。

 途端、京子の意識が段々と暗くなる。

 身体の中には今頃内臓なんて残っておらず、代わりに蛆虫の糞が詰まっている事だろう。こんな状態で生きていられる筈もない。

 京子は、自らの死期を悟った。しかしそれは恐怖を生まない。遠退く意識と共に、飢えの苦しみも消えていくのだから。

 力なく下がる眼球。その目に映る蠢く無数の蛆虫。暗くなる視界の中、京子はゆっくりと口を動かし、

「きもちわるい」

 ぽつりと一言呟いた。

 それを境に、京子が苦しみを感じる事はなくなった。



















 彼女達の祖先は、カエルに寄生するハエの一種だった。

 彼女達の祖先は古来から脈々と、ひっそりと生をつないでいた……しかし人が生まれ、環境を変え、宿主となるカエルが激減。彼女達の祖先は必死に生きようとしたが、されど宿主がいなければ子孫は残せない。彼女達の祖先は、ゆっくりと途絶えようとしていた。

 そしてついに最後の田んぼが消え、カエル達がいなくなった年――――彼女達が生まれた。卵を抱えながらも宿主が何時までも見付からず、産卵衝動が暴発した親達が、ドブネズミに無理矢理寄生させた事で生じた変異の塊が彼女達だった。

 彼女達は、本来ならばすぐに潰える存在だった。何しろ腹に通常の何十倍もの数の卵を抱え、その卵を内包出来るほど巨大化した。お陰で身体が重くなり、飛ぶ速さはハエとは思えないほど遅い。翅も捻れ、素早さどころか安定した飛行すら叶わない有り様。更に分泌するホルモンが宿主の空腹中枢を刺激し続け、ストレスで悶死させてしまう。そして卵の数が多過ぎて、正しい宿主であるカエルの身体を食い尽くしてもなお子供は大人の大きさまで育たない。欠陥だらけで、正しく『不利な突然変異』の集まり。一代で消え去る存在に過ぎない。

 人間がいなければ。

 カエルには多過ぎる卵は、人間の身には丁度良かった。幼虫がどれだけ中身を食べても、巨体は潤沢な肉を提供してくれる。のろまな飛行や捻れた翅も、羽音を立てない事で人間への隠蔽性は増していた。

 それでも本来……古代の、狩猟と採集で生きていた人間なら、やはり彼女達は大人になれなかっただろう。気を狂わすほどの食欲が、そこから生じるストレスが、宿主に死を与えるがために。

 しかし現代は違う。

 少し歩けば食べきれないほどの食糧が手に入る。指を動かせば食べ物は幾らでも住処に届く。食べても食べても、食べ物が尽きる事はない。空腹は満たされずとも癒やされ、辛うじて宿主の命を守る。

 こうなると壊れた食欲は、寄生された宿主の生命維持機能となる。そして次々と供給される栄養を糧に、彼女達の子は十分な大きさにまで育って、たくさんの卵を抱えた立派な大人になれた。

 彼女達の子孫は、大空へと羽ばたく。

 自らを育ててくれた生き物が、溢れるほどにいる世界へと。


















「そういえば二ヶ月前にいなくなった人、死んでたらしいよ」


「二ヶ月前? ……ああ、あの先輩か。なんで死んだの?」


「さぁ? なんか腐敗が激しくて分からなかったみたい。ハエもいっぱい飛んでたって話だし」


「ふーん。可哀想な死に方だねー」


「……アンタ、一応その人に色々教わってた身よね? ちょっと冷たくない?」


「別に私キャリアウーマンになりたかった訳じゃないし。正直あの熱血指導はウザかったからさ」


「うわぁ、酷い女ねぇ。あの人も報われないなぁ」


「勝手に恩売ってきて、報われるも何も……いたっ!?」


「? どうしたの?」


「あ、うん。大した事じゃないよ」


















「ちょっと、虫に刺されただけだから。この時期はほんと、虫が多くて嫌ね」



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現世の中尸 彼岸花 @Star_SIX_778

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