にひきめ
―――― 七月十三日 ――――
頭が痛い。
喉が渇く。
お腹の中がぐるぐると渦巻くような感覚に襲われる。
朝からずっとそのような苦しみに見舞われた京子は、苦悶の表情を浮かべていた。死ぬほど辛いものではないのだが、どうにも意識が掻き乱され、物事に集中出来ない。指を動かそうとしても何時の間にか止まり、苦しみを堪えているうちに気付けば三十分も時間が過ぎていたりする。
こんな状態で普段通りに仕事が進められる筈がない。しかし進められなくても、時計の針と共に締め切りは迫ってくる。焦りと苛立ちが、どんどん心の中に積み重なっていく。
「あ、あのー、先輩。ちょっと質問が」
「……あ?」
「い、いぇ、なんでもないです……」
苛立ちの余り、何時もなら快く教えている後輩からの質問に威圧を返してしまう有り様だ。とぼとぼと去っていく後輩の後ろ姿を見て、普段なら自己嫌悪の一つでも覚えるが、今の京子にはそんな余裕すらない。
パソコンを凝視し、キーボードを叩いて仕事を進めようとする。今やっているのは毎日始業直後にやっている作業であり、京子の技量と経験があれば三十分と掛からず終わるものなのだが……考えが纏まらず、指が止まってしまうを繰り返し、既に二時間が経とうとしていた。
今日も仕事は山積みだ。むしろ先日のプレゼンで新たな仕事を任されるかも知れないのだから、片付けられるものは片付けて、少しでも身軽にしなければならないのに……
苛立ちが収まらない。考えが纏まらない。先に進めない――――感情が胸の中でぐるぐると渦を巻き、醜く膨れ上がって、今にも裂けそうなほど張り詰める。
そして
「あの、東くん」
その呼び掛けが、止めを刺した。
「ああんっ!? さっきから五月蝿いのよ! 邪魔しないで!」
反射的に罵声を浴びせかけながら、京子は後ろへと振り返る。血走った目で睨み付け、邪魔者を威圧する。
結果、後ろで目を丸くしていた上司と目が合った。
沈黙は一瞬。聡い京子は、自分が何をしてしまったのかを即座に理解し顔を青くする。苛立ちなんて彼方に吹き飛び、目に浮かんでくる涙を拭う事さえ忘れるほど、慌てて頭を下げた。
「あ、や、えっと……すみません!」
「あ、ああ。こちらこそ、その、驚かせてしまったみたいだね。体調が悪そうだったから声を掛けたんだが……休んだ方が良いんじゃないかな?」
酷い罵声を浴びせてしまったにも拘わらず、上司は優しく、京子に早退を進めてくる。
本音を言えば、まるで仕事が進んでいない今、早退なんて絶対にしたくない。むしろ明日が休日なため多少夜更かししても平気な事を思えば、深夜残業をしたいぐらいだ。納期遅延という、これまで積み上げてきたキャリアを汚すような真似はしたくないのだから。されどこれ以上デスクと向き合っても作業が進むとは思えず……それどころか周りに当たり散らすような気がした。
自分の仕事は勿論大切だ。しかしそのために周りの仕事の邪魔をしては社会人失格である。それに上司の好意を無下にしたくない。
理性とプライド、そして不快感のせめぎ合い……勝ったのは、理性と不快感の連合軍だった。
「……すみません。そうしたいと、思います。あの、今日の午後の仕事は」
「ああ、出来るものは他のメンバーに割り振っておくよ。君の事だ。今日使う分は既に完成させてあるよね? それを何時もの共有フォルダに入れてくれれば後はやっておくよ」
「はい……ありがとうございます」
上司に礼を伝え、引き継ぎのための作業を行うべく京子は再びパソコンと向き合う。
資料のデータを、別のフォルダにコピーするだけ。
ただそれだけの作業を進めるのに、また多くの時間を費やして……
……………
………
…
「……はぁ」
全ての引き継ぎ作業を終え、昼時の炎天下を歩きながら京子はため息を吐いた。
腹部を襲う不快感は未だ取れず、頭の痛みとむかつきは収まる気配すらない。身体が重く、足は前に進んでくれない。
性質の悪い夏風邪でも引いたのだろうか? 家に帰る前に病院へと行くべきか……考えながら歩いていると、ふと一件の店が目に入る。
それは所謂ファーストフード店。全国にチェーン展開しており、京子も出張先でよく利用している店である。どっぷりと塩と油を使った典型的ファーストフードを提供してくれる、自然嫌いな京子としては非常に好みの飲食店だ。しかし風邪気味の時に食べるものではないだろう。
なのに――――口の中に、涎が溢れ出していた。
一瞬、ほんの一瞬無意識に店の方へと足を踏み出し、我に返った京子は自らの身体を抱き締めるように腕を回して立ち止まる。体調管理など、社会人なら新人でも出来て当然の事。それすら出来ないのは、小学生ぐらいではないか。
理性ではそう強く理解しているのに、されど身体は言う事を聞こうとしない。立ち止まると今度はその場から動けなくなり、頭がぐらぐらと酔ったような感覚に満ちて思考が薄れる。反面、腹の奥底にある衝動が活性化していた。
即ち、食欲。
食欲が、抑えきれない。
「……ちょ、ちょっとは、胃に何か入れた方が良いわよね……」
ついに京子は言い訳を口にしながら、ファーストフード店の誘惑に負けてしまう。足は自ら意思を持ったかの如く軽やかに動き、颯爽と店の前に辿り着く。
自動ドアを通り店内に入ると、そこは戦場のような賑やかさに満ちていた。昼時を迎えた店内は大混雑で、入口から見えるレジには長蛇の列が出来ている。普通の飲食店なら、一~二時間待ちの長さだろう。されど流石は『ファーストフード』店。行列は見る見る消化されている。これなら左程待たずに済むと京子には思えた。
京子は最後尾に並び、自分の番が来るのを待つ。苛立ちは募るばかりなのだが……しかしキッチンから漂う油と塩の香りが食欲を刺激すると、不思議な事にぐっと押し込める事が出来た。もし出来なければ、ふとした事で感情が爆発する、危険な精神状態に陥っていたかも知れない。
やがて京子の番がやってくる。
「いらっしゃいませ! ご注文をどうぞ!」
「あ、えと、ハンバーガーをみ、いえ、二つください」
危うく三つ頼もうとした口を閉じ、訂正した注文内容を京子は伝える。店員は素早くレジに打ち込み値段を提示。支払いを済ませると、五分もせずにハンバーガー入りの袋が二つ出てきた。
テイクアウトにしていたため、ハンバーガーは茶色の紙袋に入れられ、京子に手渡される。思わずふんだくりそうになる手をもう片方の手で押さえ、ゆっくりと受け取った。そして逃げるように京子は店の外へと出る。
京子は店から出るや、人通りの少ない日陰へと移動。はしたない事、手が汚れる事は承知している。それでももう我慢が出来ず……ハンバーガーを一つ取り出すと、がぶりと齧り付いた。
瞬間、京子の脳裏に火花が散る。
ショックを受けたのではない。喜びの想いが弾けたのだ。味は今まで食べたものとなんら変わらない筈なのに、塩味が舌を猛烈に刺激し、肉の脂が脳を蕩けさせていく。そしてごくりと喉を鳴らせば、至福の想いが全身を駆け巡った。
心を満たす幸福に頬を緩めるが、されど幸せは時間と共に失せていく。否、むしろ漫然とした不安が空いた隙間に満ちていき、ざわめいた想いに四肢がそわそわと動いてしまう。
無意識にもう一口、もう一口と、京子はハンバーガーを口にする。幸せと不安が交互に訪れる中、やがて口に常にものを入れた状態で食べ続け――――
「……あ、れ?」
そんな食べ方をすれば、ハンバーガー二つはあっという間になくなってしまった。
途端、心の中に不安が広がっていく。
正直なところ、不安だけなら我慢が出来ただろう。しかし一口齧るだけで感じた幸福と合わさると、途端に衝動が増していく。あの幸せをもう一度だけ……それはさながら薬物中毒者のような、抑えきれない欲求。
とはいえ、ハンバーガーを食べたい、とは不思議と思わない。食べたくない訳ではないが、拘るつもりもない。
兎角、なんでも良いから食べたいのだ。
「……っ!」
京子は堪らず走り出す。
家路の途中にあるコンビニに、何度も何度も駆け込みながら。
―――― 七月十七日 ――――
昨日までの
食べていた。ずっと、ずっと、延々と。
いや、正確には更にその前日の、金曜日の昼間からだ。食べ歩きのようにコンビニを出入りし、どうにか家に辿り着いた京子は、冷蔵庫の中身を貪るように食べ進めた。
冷蔵庫は土曜日の夜には空となった。その後は戸棚のカップ麺を喰らい、おやつを食べ、災害時の非常食まで手を付け――――今や家の中はすっからかんだ。
だけど、空腹は収まらない。止まらない。
「う、うううううぅ……なんなの、なんなのよ……!」
唸りを上げながら京子は、自宅アパートのリビングで大の字に倒れていた。
幾らなんでも食べ過ぎだ。それぐらいの事は京子にも分かる。なのにお腹が空いて、何か食べないと不安で堪らず、気が狂いそうになる。
明らかに今の自分はおかしい……苦しみの中で、京子は自らの状態をなんとか客観視する。今日は平日で会社に出ないといけないが、こんなメンタリティではパソコン画面と五分も向き合えない。いや、それどころかこの暴飲暴食で体調が一層崩れ、生命の危険すらあるのではないかとの考えも過ぎる。
仕事人間に類する京子であったが、自分の命を投げ捨ててまで仕事に尽くすつもりもない。今日の仕事は休もう。連絡を入れて、すぐに病院に行こう……そう考え、強張る身体に鞭を打ってスマホを手に取った。それからメールを起動し、上司に休む旨を伝えようとする。
そして無意識に、この後ネットで病院の開く時間を調べないと、と考えてしまった。
そう、ネットの事を考えてしまった。悪い事である筈がない。何時病院が始まるか分からず、真夏の炎天下で何時間も待てばそれこそ命に関わる。適切な出発時間まで、エアコンの利いた自宅で待機するべきだ。
ならばきっと、これは避けられない思考なのだろう。
――――ネットで食べ物を注文すれば良いじゃないか、という考えが過ぎるのは。
「……………」
ぴたりと、京子の動きが止まる。上司宛てのメールは半分ほど書き終え、もう数十秒もあれば送信出来る状態。なのに指先が動かない。
食べ物が頼める。食べられる。
病院に行ったら治療として貧相な食事しか許されないのではないか? いや、きっと一日三食を強要されるのだ。治療だから当然そうなるべきである。
だけどネットで注文すれば、ご飯が食べられる。幾らでも、どれだけでも。
……病院に行く事と食事が直結した、理論が成り立っていない思考だった。しかしそのおかしさを指摘する者は、この家には居ない。殴ってでも彼女を止めようとする同居人も同じだ。
誰も京子の暴走を止めない。
「……あはっ♪」
メールを打とうとしていた指は、気付けばネットを開いていた。迷わず打ち込む、『出前』『注文』の二単語。クレジットカード払いOKの文字を見付け、サイトをタッチする。
後はもう、止まらない。
仕事の事など、今の京子の頭からはすっかり抜け落ちていたのだから……
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