現世の中尸

彼岸花

いっぴきめ

―――― 七月十日 ――――


「痛っ!?」

 突然手に走った痛みに、あずま京子きょうこは小さな声を上げた。

 なんだと思い右手を見てみれば、甲にニキビのような膨らみが出来ているのを見付けた。そしてその手の周囲を、今し方飛び立ったと言わんばかりに大きさ数センチほどのハエだかハチだか分からない生き物が飛んでいる。弱っているのかふらふらのろのろとした飛行で、中々遠くまで逃げていかない。

 京子が勢いよく手を振ると、のろまな虫は避ける事も出来ず、べちんと叩き落とされた。虫は夏の朝日を浴びて熱々になったコンクリートの上で、丸くなって動かなくなる。

 どうやら仕留めたらしい。不届き者を退治した京子は、身に着けているスーツを整えながら満足げな鼻息を漏らした

「――――たくっ。こんな花なんか植えるから虫が来るのよ」

 のも束の間、道の横に作られた色鮮やかな花壇に向けて悪態を吐く。

 京子はとある企業に勤めるキャリアウーマンである。

 二十代半ばという若さで、既に多くの企画を任されている彼女は、大の虫嫌いであった。というより、自然だのなんだのが嫌いだった。虫は勿論、カエルやトカゲ、犬猫はおろか草花すら嫌いなほどである。

 こうも自然嫌いになったきっかけは、母親が自然崇拝の新興宗教に嵌まった事であろう。エコだなんだで始まった活動は、やがて生命エネルギーだの波動だのとなり、意味不明な持論を述べる毎日。父親も我慢の限界を迎えて家庭が崩壊し、親権を争う裁判が行われたが、そこで下されたいい加減な ― 少なくとも京子はそう感じている。父親より母親の方が育児が上手いと無条件に信じているかのような裁判官だった ― 判決により、京子はまともだった父ではなく母の下に引き取られた。結果訳の分からない事を命じられ、友達はいなくなり、近所から白い目で見られる毎日を十年以上味わう羽目になった。大学卒業後一人暮らしを始めたが、積み重ねた『思い出』はそう簡単に消えないものである。こんな経験をして、自然が好きになる筈もない。

 お陰で今では過激な反自然派である。自宅アパートの近所にある小学校のやっていた水田が昨年ついに ― 京子とその賛同者によるクレームによって ― 廃止となり、カエルの鳴き声が聞こえなくなった事を心から喜ぶほどに。

 そんな彼女にとって花畑など、害虫誘因場以外の何物でもなかった。

「市役所にクレーム入れないと……刺す虫なんか飛んでたら危ないじゃない。綺麗なものが見たいなら造花で良いのに」

 市役所の開く時間は何時だったか。それを確かめようとしてスマホの画面を見て、ふと思い出す。

 今日は午前中に大事なプレゼンがあるのだ。資料自体は昨日のうちに完成させてあるが、見直しをするため早めに家を出ていた。こんなところで暢気に立ち止まっている場合ではない。

「ああもう! ほんと気分悪い!」

 怒りを声にして発しながら、京子は駅に向けて走り出す。

 人々を見守る地蔵に蹴飛ばした石をぶつけてしまっても、気付いてもいない良心が痛む事はなかった。




 会社に着き、見直しを終え、準備を進め……満を持して迎えたプレゼンは、大成功に終わった。

 自然嫌いである京子だが、人に対する性格は悪くない。むしろ気配りが出来、手伝いも積極的にする『良い人』である。細かなところまで気が回り、相手の気持ちをよく汲める。

 そんな彼女が用意したプレゼン……新製品の販促プロジェクトが悪いものである筈もない。上司達の反応は良く、「任せたい」との言葉ももらえた。勿論それは確約を意味しないが、そのつもりで準備を進めても悪くはないだろう。

「凄いですねぇ、先輩。わたし、まだまだなーんの企画も立ち上げられてないのに」

 昼休みを迎え私語が許された時間帯、京子は隣のデスクに座る後輩社員にこの話を伝えると、後輩からのんびりとした尊敬の言葉が返ってきた。

 おっとりとした後輩に、京子は柔らかな笑みを返す。バリバリ仕事をこなすキャリアウーマンらしい端正な顔に浮かんだ心優しい微笑みは、女性慣れしていない男性の心を一瞬で奪い去る魅惑を放った。

「まだまだよ。私が目指すところはこんなもんじゃないんだから」

「目指すところ? なんですかそれ?」

「前にも言ったでしょ。私はこのまま出世して、取締役まで行くつもりだって」

「あー、飲み会で言ってたやつですね。あれ本気だったんですねぇ」

 冗談だと思っていたらしい後輩は、けらけらと悪気のない笑みを浮かべる。どうにもこの後輩、悪意はないのだが天然気質で、仕事が出来る風ではないと京子も思う。

 しかしその独特の考え方は磨けば光るとも考え、先輩として熱心に指導しているのだが。

「ま、仕事自体が好きなのもあるけどね。自然に優しくない製品を作ると、心が安らぐわ……あー、大量生産最高」

「先輩、本当に自然が嫌いですねぇ」

「だって気持ち悪いじゃない。カエルとか。この前近所から田んぼがなくなって、カエルがいなくなって清々したわ」

「えー? カエル可愛いじゃないですかぁ。虫も食べてくれるし、生態系のバランスを守ってくれるんですよー」

「くだらない。人間が関わってない生態系なんか崩れて何が困るの? 虫が増えたら殺虫剤を撒けば良いのよ」

 手にしたパンを齧りながら、京子は持論を述べる。後輩からの返事は「そうですかねー」という曖昧なものだった。

 口では反対意見を述べているが、正直大して興味などないのだろうと京子は判断する。除菌シートで毎日机を拭いているような奴が、本心からカエルを守ろうと思っている筈がないのだから。

「ところで先輩、今日はよく食べますね。お弁当だけじゃなくて、パンも買ってるし」

 その予想通り、後輩は京子の意見とぶつけ合う事はせず、簡単に話題を変えてきた。

 京子は自分の手に持つパンをちらりと見て、齧り付くために開けた口を一旦閉じる。再び開けた口から、しっかりとした言葉を発した。

「んー、なんかお腹空いちゃってね」

「そのパン、会社の自販機で売ってるやつですよね? 美味しいですか、それ」

「ええ。甘くて美味しい」

「うへー。私にはちょっと甘過ぎでしたよそれぇ。練乳とか苦手なんですよねぇー」

「頭使わないからよ。脳は糖分をたくさん使うから、頭を使えば甘いものの美味しさが分かるわ」

 後輩の意見に反論し、しかし京子は違和感も覚える。

 確かにこのパン、ゲロ甘だ。砂糖の塊を舌で転がしているような、くどいほどの甘さがある。普段なら、残すほどではないが素直に美味しいとは言えなかっただろう。

 しかし今日は食が進む。幾ら食べても食べ足りないぐらいだ。

「(まぁ、良いけど……午後の仕事はちょっとハードになりそうだし、栄養付けないとね)」

 されど京子はあまり気にせず、パンを食べ終えると椅子の背もたれに寄り掛かる。それから甘いジュース入りのペットボトルに口を付け、ホッと一息吐く。

 そして静かに閉じた瞼の裏で、午後の仕事の段取りをシミュレートしておくのだった。



























 自らの身体に起きた異変に、気付く事もなく。



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