マンドレイク12
不意に左肩へ依りかかる誰かの重みを自覚した時、疾風・クラーラ・アイヒェルは瞼を開いた。
反射的に首をその方向へ傾けると、モスグリーンに染められたぼさぼさの髪が頬に触れた。常態的な寝不足と不摂生で艶を失った緑髪のあるじ、嵐・ヨハンナ・ヤンセンの頭部がそこにあった。半開きの口からぴゅるぴゅると呼気を零しながら瞑目する彼女は、誰がどう見ても眠っていた。彼女の手元のPDAに表示された黒人アーティストが奏でるクールジャズの音色が、樹木の枝葉を思わせる毛髪へ埋没したイヤフォーンの隙間から零れて、疾風の耳朶をくすぐっている。
ぴゅるるる。
寝息までもが疾風の耳たぶを脅かし始めたところで、いい加減鬱陶しくなってもたれ掛かる身体を押しのけた。意識を失くして夢の世界に没頭する嵐の肢体はゆっくりと逆側へ倒れゆき、やがて、ポテン、という気のない音を立てて、そのまま自らが今まで座っていた座席へと横たわる形となった。しかし彼女らの坐する横長の座席に他の客の姿はなく、そもそもにしてこの路面電車には疾風たち以外の乗客の姿も見えなかった。公共交通機関を寝台代わりにいびきを立てる嵐の痴態へ眉を顰める者は見当たらず、ただ、ガタンゴトン、という車輪が路面を滑り行く独特の音色が、夕日の差しこむ橙色の車内へ満ちるすべての情景であった。
「……でん、しゃ」
呟きながら、疾風は脱力して座席に背中を預けた。眠っていた。いつの間にか。そしていつ乗り込んだとも知れない電車に乗っている。疑問符が脳内を飛び回り、しかし奇妙な疲労と倦怠感と、そして満足感に包まれていた。ふと右隣へと視線をやれば、俯きながら黙して座る金髪の髪の少女の姿があった。上着のポケットから伸びるイヤフォーンの片方は彼女自身の耳部を離れ、座席のうえに転がったまま、ユーロビートの軽快な電子音を盛れ溢れさせている。イヤフォーンを零した無防備な耳朶へ向けて、芙蓉、と疾風が呼びかけた。
「ん……うぁ……?」
「芙蓉、芙蓉。起きてくれ、どうした、此処は市電か。何故私は……我々は、此処にいる」
「うぅ? ……ああ、なーるほど……ふあぁ……ウチも寝てもうとったんか。疾風も嵐も、電車乗った途端すぐにおねむやったさかい、ウチまでつられてもうたわぁ」
「電車……? 寝る……? 私が……?」
「せやね。まあ、今日はいろいろあったもんなあ。終点はまだ先やろぉし、疾風ももうちいっと寝とったらええんちゃうかなあ」
「馬鹿な。オクダイラはどうした。やつを捕まえるのが、私達の任務」と、捲し立てたところで、ふと疾風の脳裏に何か過ぎる物があった。「……いや、まて、私は、確か……」
〝――「
起爆寸前の
想定される代償――爆炎に焙られた腹が中身ごとふつふつと煮え始めたような感触/内臓に混ざり込んだ鉄片がまるで蟲の大群のように肉を喰いちぎらんと画策しているかのような悪寒/それら想像することすら全力で拒否したくなるほどの
「ふ――」絞り出すような声――縋るように「芙蓉。おしえて、くれ」
「ん?」
「わ、わたしは、死んだ、のか――」
「は?」芙蓉の怪訝そうな表情――「え? 疾風、死んでたん?」
「は、腹のすぐそばで、爆弾が破裂したら……もう、助からない、だろう」
「まあ…………せやね。ウチが同じことしてたら死んでたんちゃう?」
「や、やはり」うぐぅ、とばかりに頭を抱えつつ「だとしたら、此処は地獄か。それとも煉獄か。ああ、そんなことよりも、す、すまない芙蓉。お前も、嵐も、守ってやれなかった……」
「……? まあ、
「よしてくれ! 私は……守れてなどいない……! 守ろうとした! 必死に! だが、結局、全員あの場で……」
「んんん~~~~? 疾風、もしかしていま何か寝ぼけながら話しとらへん? ちょっと整理させてくれへん?」
「…………整理?」
「そのな」芙蓉――言い聞かせる様に。「疾風の言う〝守れなかった人〟って、誰?」
「それは……全員、だよ。あの場にいた、全員」
「その全員の名前、出してみ?」
「……まず、
「疾風……」芙蓉の慈しむような瞳――可哀想なひとを見るような目つき「……その人たち全員、
「――――は?」
「ええか? 疾風、アンタ、手榴弾に覆いかぶさったあと、咄嗟に指先を突き込んで
「なに?」
「そのまま
「いや……? 待て……? そんな、こと、は……」
困惑する疾風の脳裏に、しかし過ぎる光景があった。芙蓉と嵐の働きによって無力化されたロート・ヴィエナたち。彼らの倒れ伏す光景を背後に、一騎打ちの構図となった疾風とオクダイラの交錯――小銃が火を噴き、抗磁圧のヘルメットを掠め、しかし
「ああ――」思考が晴れる/記憶が明瞭となる。「――そう、だったな」
「……落ち着いた?」
「うん」
先ほどまでの取り乱しようからして一点、穏やかな面持ちであった。腹腔に埋火のごとく燃えていた熱気が霧散すると、今度は心地よい疲労が全身を浸して行った。一仕事を終えた帰り路の充実感が胸を満たして、しかし、ほんのわずかな寂寥だけが、小さな棘として残る心持であった。オクダイラ。疾風の師。未知を違えたとはいえ、かつて師事を受けた自らの手でもってその捕縛を成すというものは、なんとも奇縁たる運命に他ならぬと、ただ静かな悲しみの中に心と体を預けるしかないのだった。隣の芙蓉は何かを察したような目つきで、そっと自分のイヤフォーンを差し出してくれた。疾風は微笑みながら首を横に振ると、自らのPDAを取り出して、底へ繋がれていた自前の配線を自らの耳へとつないだ。音楽アプリケーションを開けば、ジャーマンメタルの奏でる斬撃音のようなビートが疾風の耳朶へ響き渡った。荒々しいリズムに思考のオールを委ねながら、夕焼けに暮れなずむ街の姿を車窓から眺めつつ、目を閉じた。
卉小隊の初任務は、
死傷者は皆無。オクダイラを確保。100点の出来栄え――完璧な任務遂行。
MPB第一支援小隊の本格的運用のための、試金石たる――
(――ああ、これで)疾風は意識を手放す――ただその胸に去来する暖かな感情を抱きしめながら。(安心、した――)
「そのまま眠るのも選択肢の一つだし、おそらくはそれこそが
囁くような声に瞼を開いて、声の主を探して辺りを見渡した。
芙蓉も、嵐も、いつの間にか消えていた。
がらんどうの車内を見回して、ふと、車窓の向こう側に羽搏く影を見た。
「
「いや、
声の発される位置は判然としなかった。その声の語るように、
「疾風ちゃん、
「…………なに?」
怪訝な様子で聞き返す疾風に対し、美男子は笑みを崩さない。
「さっきの電車の中でのことだよ。
「…………まあ、そうかもしれないな。張りつめていた糸がようやく緩んだかのようで――安堵したことは、確かだよ」
「そっか。じゃあ、困ったな。これからしようと思っているお願い、すごく言いづらくなってしまったな」
「ほう。私が安心したり友誼に恵まれたりすると、貴様は困るわけだ? 随分と失礼な物言いだな……?」疾風のいらいらとした口調――ただならぬ物言いに警戒心をさらに跳ね上げた。「そして、いい加減名乗ったらどうだ? 貴様が私の夢の一部だとして、もし私の忘れている誰かだとしたら、名前ぐらい尋ねておきたい。もし次に現実で出会った時、また同じように一方的にこちらだけ名前が判らないまま会話に臨むのは、些か困るだろうからな……?」
「律儀だね。それが疾風ちゃんの長所で、そして短所でもあるんだろうね」美男子はからからと笑いながら続けた――「もし現実で逢えていたなら、ふふ、お近づきになりたかったなあ」
「……口説いているつもりか? キモいぞ。はやく質問に答えたらどうだ、優男」
ふん、とバカにしたようにして鼻を鳴らす疾風に対し、美男子はついに口元に浮かべていた笑みを消すと、穏やかな面持ちで言い放った。
「キミとセックスしたい……あ、違った。僕は桜花・クリストファー・デリンガー。
隣に佇み続けていた少年――伏龍の振るった拳骨が強かに桜花の頭部を打ち据えた瞬間、あんまりにもあんまりすぎる
セクハラ同然の文言と何か重要かつ不可解な情報の処理に思考を総動員させつつ絶句して口を鯉のようにパクパクとさせている疾風に対して、申し訳なさそうな横顔をどこか朱に染めながら視線をよこしてきた伏龍という少年が、巌のような顎をもごもごと動かしていた。
「……
それは、より、救い難いのでは、無いだろうか――
呆れ返って黙り込む疾風の視線に耐えかねたのか、伏龍の言葉もやがて途切れた。痛い沈黙がその場を支配して――しかし、打ち破ったのはやはり多弁の
「で、だ。疾風ちゃん」人懐こい微笑みをそのままに、彼は尋ねた。「この電車から飛び降りてくれないかな?」
「――それをすると、私はどうなる?」
「夢から覚める……それだけだよ。
「ハ――」嘲笑/困惑。「――ハハ、ハ。なんだ、それは。そんな願い事を、どこの誰が聞き届けるというんだ。何が起こるのかも分からない。どんなものを目にするのかも分からない。そのうえで、
「だよねえ。そんな選択肢、普通は選ばないよ。あえて
「だとしたら、この応答に意味など無いな?」疾風はくるりと踵を返した。もう話すことなど無いとばかりに。「私は、帰るよ。仲間の元に帰る。第一支援小隊は、これからなんだ。卉小隊は、
「…………」
「芙蓉と、嵐も、私と同じように、これから……」
「…………」
逡巡は、数分間にも及んだ。
蒼天の下、立ち尽くし続けていた疾風は、振り返りながら問うた。その目元から、大粒の涙が零れ落ちた。
「
「夢を見ているからには、眠っているんだよ。とても深く――
その
「う、あ」限界だった――何もかも忘れて
「疾風さん、
女性の声――疾風のことを心の底から慮る声/しかし同時に疾風が
やがて疾風の意識は、遥か過去へと飛んだ。
『疾風、きみにしか頼めないことだ』男性の声/疾風が心の底から尊敬していた人物の声。『必ずやり遂げてくれるね?』
『
『おお、嬉しいな。もう使われなくなってしまった
『はい、ええと、ドゥシ、ドッ、ドゥ……』唇を尖らせながら、やっとのことでその名を呼んだ。『――
男性=国際指名手配犯・元日本赤軍
『ありがとう。じゃあ、今日は疾風が政治委員で、そして同時に
『はい!』疾風――この日の為に手ずからメンテナンスした
『うむ! では、気張れよ、疾風!』
………………
…………
……
――だめだよはやてもうむりだよにげようよこうさんしようよおとなたちはどこにいったんだよロネンおじさんはゼペットおじさんはもうやってられるかこんなタコツボでしにたくないおれたちはみすてられたんだおいてまてよはやてなにをするんだまてよまさかなかまをうつつもりじゃうわあこいつほんとにうったひいっひいいっやめてうたないでころさないでわかったたたかうからでもばくだんがもうほとんどないよいやそんなじさつこういなんてできるわけうわあああいたいいたいやめろはやてやめてくださいおねがいぎゃああおかあさん――
……
…………
………………
『同志モリクニ……どこですか……? 予定された時間は……もう過ぎているのに……』
『なにか……もしかして……トラブルが……?』
『……やむを得ない状況のため、独自の判断によって捜索を開始させて頂きます……同志……』
『ゼペットおじさん……何処ですか……? 手が冷たい。とても冷たくて、痛いんです……』
…………
……
『キャンプ地はほとんど回ったし、もう残りは、この山荘ぐらいしか……』
『同志、何処ですか……? 警官隊が迫ってきています。このままでは、逃げられなくなります……』
『……あ、ああ、あっ! 同志! 同志モリクニ、やっと、やっと会えた!』
『わ、私ですか? あはは、全然平気ですよ。でも、ちょっと手が冷たくて……え、血が……?』
『あ、ほ、ほんとだ。手がこんなになるまで強くグリップを握っていただなんて、気が付きませんでした』
『み、みんな、とてもしっかり戦いました。私、皆が闘えるように、これで、私、これで』
『うっぐうううう、ううううう、泣いてなんかいません、私はッ、正しいことをした! 時間を稼いだ! 都市内の殆どの警邏組織がこの山に集まっている今ッ、別動隊が今のうちに行政区や警察署、テレビ局を、襲撃……』
『えっ、同志、誰と話しているんですか、うまく逃げれたって、なんですか。別動隊はいま、何処にいるんですか。それにその電話の声、まさか、お父さんですか、私の』
『えっ』
『えっ、なんで、なんでっ、なんでッ、何で私に銃を向けるんですか、何でッ同志ッ何でッ』
『――』
『あ……』
『撃った……』
『…………』
『撃っちゃった……私……つい……』
『薬室に……まだ一発、残してたんだった……自決用に……』
『あは……』
『あははは、同志、私の抜き撃ち、すごく疾かったでしょう。
『貴方が教えてくれた日本語ですよ』
『…………』
『ねえ……起きて下さいよ……同志……私の発音が正しいかどうか、ちゃんと聞いてみて下さいよ……』
『…………』
『お手を、拝借、させて頂きます……』
『ゴツゴツした手……お父さんみたいだって、いつも思ってました』
『まだ、暖かいな……』
『…………』
『…………あれ、山荘に、誰か、足音が』
バンッ。
ダダダッ。
……
…………
………………
事件発生から四日目――ついに逮捕者が現れる/マスコミがこぞって飛びつく/強引なジャーナリストが救急搬送の為に担架へ載せられる逮捕者の姿を無理やりカメラに捉えた。
『いやだあ……』全身を銃弾で撃ちぬかれて血まみれの少女――虫の息。『死にたくないよぉ……』
口の端に血泡を浮かべながら、酸素マスクの下でうわごとのように呟き続ける――『父さん』/『母さん』/『死にたくない』/『ごめんなさい』/『しにたくない』
「ゼペットおじさん……」喀血――やがて意識を失う直前に残した最後の呟き=「わたしのてをにぎっていてください――どうか父さんと母さんのように、離さないで……」
担架から零れ落ちた腕――ぐにゃりと曲って力なく垂れ下がっていた。
………………
…………
……
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