マンドレイク10
覚束ない意識を必死で保ちながら周囲を見渡せば、さきほどまで己と
「あっは……ははっ!」嵐ほどでなくとも、決して浅くは無い創を顔貌に刻みながら、童女は笑った。「
すべてが、移ろいゆくかのようだった。
実際の所、
まるで、消し去られたはずの
「革命の志に水を差そうとする体制の狗が、身を
自らの口からこぼれ落ちているという事実に、吐き気すら催すほどだった。それほどまでに、身の無い言葉。実の無い演説だった。
彼女自身は、ただ教えられた思想を正義と信じてさえずるだけのカナリア嬢に過ぎず、しかしその真の言葉の届かぬところにおいて――遠くから眺むるにいたっては、さも天稟の才を得て世界を導引せしめようとした麒麟児と映る。
疾風は確かに、山狩りを行う治安機構の目をかいくぐり、痛打を与えた。それは事実だ。
しかし、仮にそれを行ったのが
たぶん、
「はーっ……」死に掛けの
嵐の気絶と共に液状化した液体金属を肩口から零れ落としながら、軋む両手で彼女の首根っこを抑え込んだ。仰向けに翻した彼女の胴の上にまたがると、上半身の自重で押し切る様に、その頸を圧迫していく。今の今まで殺し合っていた相手の命を完全に自らの掌中へと握り込んだ征服感がゆえか、下腹部が妙に熱っぽく感じられた。たまに腰を上下に振っては、より強く掌中に自重を落とし込んだ。一瞬ごとにみしみしと負荷を掛けられていく細首の
その時――ぽたりと。
一滴の滴が、機甲化された彼女の拳のうえに零れ落ちた。
「え……?」嵐の首元を抑えつけていた手を緩め、目元を探った――「……涙?」
疾風はようやく、己の両目が涙を流しつつあることに気が付いた。
胡乱なセンチメンタリズム――疾風はそう結論付けて、中断した作業へ戻ろうとしたが、どうにも涙が止まらない。丸めていた上半身を持ち上げて、両腕を用い、躍起になって目元を拭うが、涙は後から後からぼろぼろと流れ落ちてきて、止まらなかった。
「そんな……私が……
「うん。確かに今の疾風ェ、
咄嗟に背後を振り返った疾風の視界には
「誰ですか! どこに!?」
「残念やけど、教えられへんなあ。嵐がせっかくウチがおる場所の近くにまで、アンタを誘導してくれたんやから、わざわざ姿見せて殴られようっちゅー道理はあらへんで」
咄嗟に誰何の声を上げる疾風。しかし、いくら目を凝らそうとも、周囲には声の主らしき影は無く――やがて、息のつまるような感覚に襲われ始めたのを見てとり、疾風は己が
「……もっとも、待ち伏せ予定の場所へ向かう途中で嵐が落っこちるなんて、色々トラブルはあったみたいやけど――」
「どこへ――げほっ! うえっ……」
「――まあ、落っこちた時の音いうたら、相当五月蠅かったからなあ。姿消しながら、その音響の発生地点へ向けて移動する程度の事なら、いくら怪我しとるいうたかて、簡単なことやしねえ……」
時を追うごと、彼女の表情はみるみる
「ゴメンなあ、起こしてもうて。ずっと、眠らせておけたらよかったんやけどなあ」疾風の視線の先に浮かび上がる影――申し訳なさそうな表情を浮かべる芙蓉のかんばせ。「でもなあ、ウチらの小隊長、そろそろ返してほしいんや……ええかな?」
「かえ、す……? うえっ――」口を開けた拍子にまた
「ええんよ。ほら、興奮せんといてなあ。
――それは、いつか……ベッドの上で聞いた言葉だった。
『疾風、
「うそ、つき……」
「え?」
「嘘つきだ――みんな、みんなそうだ。おまえは
荒い呼吸を繰り返しながら、うわごとのように呟かれる怨嗟の言葉。
困惑する芙蓉の視線を真っ直ぐに見返しながら、疾風は熱に浮かされた調子で言葉を紡ぎ続けた。
「私は――私は、貴方の手を取りました。他の全ての手を振り払って――」慟哭――そう形容すべき悲鳴が木霊する。「
「疾風……」
「――わたしは、
力なくしな垂れていた疾風の右腕が持ち上がった――天を掴もうとするかの如く、空へ向かって伸ばされ、指を解く――機械仕掛けの指が花弁のように花開き、灰褐色の華を咲かせていた。
「ゼペットおじさん……わたしのてをにぎっていてください――どうか父さんと母さんのように、離さないで……」
いつだったか、現実に打ちのめされた日の喧騒を、記憶の中に聞きながら。
救急隊とマスコミに迎えられた森の縁で、担架の上より吐き出した言葉を思い出しながら――ようやく、疾風・クラーラ・アイヒェルの暴走は終焉を迎えた。胡乱な光を抱いていた瞳がにわかに暗い色を帯び、緩んだ頬は苦みと渋みを噛みしめた年かさの人間のそれへと引き締められ、零れ落ちる涙の奔流は未だ止まらずとも、細めた両瞼の裏に覗く眼力は、視る者に軟弱な印象など与えはしない、確固たる意志の光を宿していた。
「芙蓉、心配かけた」――その口から、先ほどまでとは打って変わって、理性的な言葉が零れ落ちた。「ただいま」
「こ
疾風はふと、己の全身を撫でる様に包み込む
「
「こんなけったいなもん……やっぱ、いらへんよお。当初の作戦通り、
「……それでも、
疾風はぼやきながらおもむろに立ち上がると、けほん、と咳を一つ。
手足を伸び曲げて、身体の調子を確かめると――先ほどまでの不調が嘘のように回復していた。
「
「嵐の有機性
「原型――初耳だが、もしやその
「いや、別口らしいけどなあ。嵐が言うには、
「む……」
ふと、背後を振り返る。
横たわる嵐の四肢は力なく投げ出され、死体と見紛うばかりだった。仲間の暴走を身を挺して止めた痛ましい姿……まさしく満身創痍だった。
「嵐……本当にすまなかった」疾風は胸いっぱいの謝意と申し訳なさを抱きながら、彼女の身体を抱き起こした。「感謝の言葉も無い。お前は本当によく――」
《いやまあこれも仕事だから感謝とかそういうのはいいんだけどさあ。疾風さん自分のやった事覚えてるんなら意識取り戻した瞬間いの一番にわたしの様子見に来ない普通? なんでナノマシンの名前がどうたらとかクッソどうでもいい雑談交わしてんの? 馬鹿なの? 死ぬの? レズなの?》
「思いのほか元気だなお前……」
《んなワケないじゃん。声出すのも億劫なくらい瀕死だっての。わたしもう今日肉声で喋んないからね絶対。疲れた。帰って寝たい。あと自慰したい。Gィー! マスターベーション! セルフファッキング! オーナーニィー!》
「おまっ」
《ちょまっ》万有引力に従って投げ出される嵐の後頭部――べしゃん、と地面に叩き付けられた。《痛い!》
「あ……すまん、つい」慌てて抱き起こす――ただでさえ満身創痍だった身体に、たんこぶ傷がひとつ増えていた。「あとレズでもない。部隊内での意思疎通に対して、そういう言い方をするのは良くない」
《この人おかしい……》小声――ふと疾風は、瞑目したまま脱力する彼女の指先から銀糸が伸び、自身の脇腹に纏わりつき始めていることに気が付いた。《ていうか、横っ腹の傷開いてんだからいの一番にわたしのところに来て
みるみるうちに塞がれていく傷――その痛みが消え去ったわけでは無くとも、失われていく血液がせき止められることによって、生命が繋がれているという実感があった。
……あらためて彼女の肢体を見つめることで、解る事はあった。瞼一つ動かさぬまま眠り逝ったように見えて、嵐自身、自らの身体に刻まれた傷への
なんという精密な四肢の
発する言葉にこそ、まるで他人の感情への気遣いという物が存在しないものの――その実、嵐・ヨハンナ・ヤンセンという少女は、常に己の隊員の安全について気を使い続けている。
「嵐、お前は――」
《なに? このうえまだわたしになんか仕事しろっての? ヤダよ。ちょーヤダ。もうわたし今日新しい特甲転送しないからね。警官隊か憲兵隊かどっちか来て回収してくれるまでここで眠ってます。おやすみ。解散。ばいばい。以上》
「――寝るのは構わんが、せめて口でものを言わんか!
《
「だから! そういう! 不正を! 推奨するようなことを!
本当に、感謝しかない――しかし問題は、それを直截に伝えることをためらってしまう程の、彼女の生来の口の悪さと空気の読めなさ――そして、疾風自身の不器用な生真面目さから来る衝突だろうか。
身を挺して自分を庇ってくれたことに対する感謝の言葉を紡ぐ暇も無いほどに――目の前の〝正しく無いこと〟を正さねばならぬという想いが、疾風に心のうちに騒めき始めた。ともすれば、過去の幾度もの訓練において発生した口喧嘩を想起させるほどに、二人の罵り合いは勢いを増して行き――そして、いつものように、間に割り込む影があった。
「はーいなっ。いまそれどころやないんやし、この話はまたそのうち……な?」二人ともの顔を覗き込みながら、言い聞かせる芙蓉――華やぐような"エヴァ"の微笑。「なにはともあれ、疾風も、芙蓉も、無事でよかったわあ。初陣からこの騒動って、どうなるか思ったけど……なんとかなりそうやん? なあ?」
天稟たる愛嬌と人懐っこい声音でもって、疾風と嵐の間を強引に取り持つ
「確かにそうだが――元はと言えば、一番はじめに
《うん。いきなり無線切ったからまた
「ま、まあまあ――」叱責の矛先が己へ向かった事にたいし、冷や汗をかきはじめる芙蓉――露骨に話を逸らそうと。「それより、まずは
芙蓉・エーファ・ベルクマン。見た目の
元は
「オクダイラ――」これまでのゴタゴタによって、半ば思考の外へ放り出さざるを得なかった人物――誘導ミサイルの犠脳者という最重要確保対象。「確かに、一刻もはやく身柄を抑えねばならんが、うむ……」
《もう死んでるんじゃない?》
「それだ」むっつりとした、しかもかなり気まずそうな顔で頷く疾風――きりりとした目付きのまま、ぽそりと呟いた。「完全に忘れてた。どうしよう」
《あーあ、せっかく人が
「止血ならウチがやっといたよ? 疾風と嵐が闘りおうとるあいだ、基本暇やったし」
「なにっ!?」
《芙蓉さんマジ天使!》
「いやまあ……ウチもちょっとカッとなって
《ンフフフ、疾風さん聞きましたかこの神対応を。おーっと、そういえば止血と称して
「か……返す言葉も無い……というより……そうだ……私……昔の身内に……ご、拷問を……?」
「アホーッ! 嵐ィー! せっかく落ち着いた
《だーってさあ、今日のこと、物凄い不祥事じゃない? 被疑者確保後に意味も無く拷問した結果死なせるところだったとか、犠脳体兵器のことも鑑みたらだけど、初任務の結果としては最悪とかいうレベルを通り越してもはやこれ利敵行為じゃない? クビじゃない? フツーに考えてさあ、ねえ?》
「う……うう……
「だーっ! また記憶が!」慌てて疾風に
「……めんどくさいなあ、もう」
芙蓉に急かされる形で、むくりと置き上がった嵐――彼女も含め、三人全員が互いに互いを抱き合うような姿勢を取り始める。スクラムを組むかのように繋がり合った中で、疾風は己の
肌身に直接触れることによって生成される
「――傍目からみるとさあ」嵐――抱き合ったまま、ぽつりと呟いた。「やっぱレズっぽくてやだなあ、これ」
「言うなや」芙蓉――げんなり。「ウチかてせっかく抱き合うんなら男の子のほうがええわボケ」
「別に見てる者もいないんだから、どうでもいいだろうに」疾風――いつの間にか正気を取り戻した様子で。「……まあ、少し変な気分になることは、認めるが」
「レズだ」――嵐。
「ビアンや」――芙蓉。
「色恋に興味は無い」
「うわ」
「ヒくわー、その返し」
「お前ら……」疾風――涙目。「実は私のこと、嫌いか!?」
《――卉小隊応答せよ。繰り返す。卉小隊応答せよ……おーい、君らー、聞こえてるー? ねー?》
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