マンドレイク9

 *



 移動速度において、疾風に叶うはずはない。



 逃げたところで、そう間を置かず追いつかれることは自明の理であったが――しかし、嵐が振り向いた背後に、彼女の姿は影も形も見えなかった。


「…………」


 無言のまま、嵐は己の特甲を駆動させ続けた。


 あえて先端をすい 状に丸めた糸を左手の指先から噴出し、手近な枝に叩き付けることで巻き付け、固定する。間を置かずして同じように右手から噴出した糸は、樹冠に迫るほど上方の枝を捉え、しかと握り込んだ。何度か右手を引いて枝の剛性を確かめた。やがて問題なしと見るや、足場にしている樹の幹に足裏を当てると、一息に駆け上った。右手指の糸を手の中でぐいぐいと手繰り、限界まで駆け上ったところで糸を切除し、幹を蹴って飛び離れた。即席のロープクライミングで得た位置エネルギーを最大まで活用し、左手指の糸先を支点とした遠心力によって ぐぅぅん・・・・ と加速すると、その勢いが最高潮に達したところで左手指の糸を切除。その矮躯がほんの一瞬、重力の軛から解き放たれたかのように宙を舞った。やがて手頃な足場となる樹を空中で見繕うと、その横合いの樹へ糸を引っ掛けることで己の身体にかかる慣性を操作し、大ぶりな枝を狙って着地した。


「んー……?」


 ぐるり、と周囲を見渡す。

 追手の影は、やはりなかった。


「追っかけて来ると思ったんだけどなあ……?」


 そのぼやきに答える者は無く、移動の際にばら撒くように設置した 索敵糸鳴り子 にも感は無し――静穏な空気だけが場に満ちている。


 樹皮に隠した液体金属の噴出による 猫騙し目くらまし によって、いったん 疾風の間合いいつでも死ねる場所 の外へ逃げることには成功したものの――そのせいで彼女の姿を見失ってしまったのならば、本末転倒であった。芙蓉が頭部へのダメージによってまともに動けぬ状態にある以上、小隊随一の機動力で 何処へなりとも・・・・・・・ 行きかねない状況にある疾風を 抑え込む絡め取る 事が出来るのは、じぶん を置いて他にないのだ。


 ――が。


「めんどくさ……」


 嵐・ヨハンナ・ヤンセン。14歳。

 ぼさぼさの髪/眠たげに細められた瞳/気だるげな表情の与える印象に違わず、怠惰な少女である。とある 由来・・ から仕掛け繰りを得意とするが故に、支援小隊の錬成過程においては参謀の真似事を行う事もある彼女であったが、基本的に何かを決めるという事をしない。訓練過程においては、小隊長にして斥候たる疾風の索敵によって得た情報から即席の作戦を練る事はあれど、彼女自身が疾風や芙蓉の行動を指示することは皆無である。銃撃された疾風の救出へ一も二も無く飛び込んだのは 芙蓉・・ であり、嵐は攻撃手段たる銃器を集めたのち、それに追随したのみ。その後、返り討ちにあった芙蓉を助ける隙を作るため、拾い集めた銃器を樹冠に隠して囮として扱うことを進言したのは嵐であったが、その行動は疾風の承認を得たうえで行われている。要するに、彼女には積極性というものがまるで無かった。少なくとも、戦闘の只中において発揮されることは全く無い。


 何故か。

 決断という行為そのものを面倒臭く思うという、彼女自身の怠惰な性格に由来する要素も皆無ではないが――その一番の理由は何といっても、彼女が| 人命というものに全く価値を見出していない《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 》からだった。


「このまま疾風を放っといたところで、死に掛けの テロリストオクダイラ が高電磁ナイフでなぶり殺されて、誘導機能が動き出した 犠脳体兵器ミサイル がジャンボジェット機を撃ち落として、数十人かそこらの要人が焼け死んで、このニュースを知ったユダヤ人とアラブ人がこれまで以上に憎み合って殺しあいを続ける だけ・・ じゃん。もう 帰っフケ てオナニーでもして寝ようかな……」


 これである。

 仮にも治安機構の構成員が口走ってよい台詞ではない。


 だが同時に、偽らざる彼女の心中でもあった。嵐・ヨハンナ・ヤンセンにとって、生命とは無価値であり、人生もまたそれに同じく。ましてや、見ず知らずの他人が遠く離れた場所で死んだり殺し合ったりする無常より、趣味であるネットゲームの運営会社が差しこんだ緊急メンテナンスによってログインボーナスの取得スケジュールが乱れる方がよっぽど問題意識を自覚できるくらいであった。


 自らの視界の外に世界は無く、自らが視界に映した箇所にこそ、世界は形作られる。ともすれば、生命とは空想の中に蠢く実体のない概念に過ぎず、人生の幸福などという言葉はすなわち、空虚の中で死にゆくことへ耐えきれなくなった人間たちが生み出した、うたかたの よすが・・・ に過ぎない。 誰か・・ の住まう世界などはなく、己が感ずる刹那的な快楽こそがすなわち 世界の全て・・・・・ であるのだと、彼女は特に根拠も無く信じていた。

  かつて・・・ 、耐え切れぬほどの悪意と激痛の中にあって、 狂う・・ ことでしか命を繋ぐ術の無かった彼女の死生観は、おおよそ一般の人間のそれと隔絶している。なんとはなれば、彼女の頭の片隅にはいつも、己に降りかかる面倒ごとのすべてを投げ出したいという欲望が渦巻いており、それは今現在この鉄火場においても例外では無かった。


 ともすれば彼女の思考はいま、ただ 面倒臭い・・・・ という理由だけで、同僚たる疾風や芙蓉を見捨ててこの森を出立する算段をすら立て始めていた。彼女たちに友情を感じていないわけではないし、目の前で危機に陥れば助けに入りもする。その為に自らの命を捨て去ってもいいとすら考えている。だが彼女にとって、そういった尊い友誼の絆すらも 気まぐれ・・・・ で放り棄てて構わないと思う程に、嵐の視界に広がる世界とは全てが等しく無価値であった。


「ふーぅ、よーぉ、さぁーん」だからこそ、糸を手繰った。命綱のように腰部へマウントしていた、一層細く不確かな糸を。「貴方はぁ、そこにぃ、いますかー?」


 指先に繋がる糸を―― 芙蓉友人 の元へ確かに繋がる糸の端を引いて、その先にいる存在を確かめた。やがて糸は同じように手繰り返され、嵐はその感触をもって自らの克己心を奮い立たせた。すべては無価値であるが、その意に従ってこの場を離れたなら、もはや彼女らと笑いあう明日は無い。


 また一人になる。

 それは少しばかり、つまらなくなりそうだから――まあ、もう少し気張ろうか。


 すーっと、深呼吸をひとつ――そして。


「――疾風ぇぇぇ! この アカ野郎コムニスト ぉぉぉ!!  子供兵士クメール・ルージュ 気取りの大馬鹿野郎ぉぉぉ!! お前の信じた理想の 果て・・ にさぁぁぁ、何が起こったのか教えてやろうかぁぁぁぁ!! 」


 罵声/怒声/絶叫――そう表現すべき咆哮が、静けさに満ちた森の端々にまで通ずるかのごとく響き渡った。


きみ疾風 の未来にはさあ、痛みと怨みと絶望しか残らない! 大人たちに吹き込まれた 借り物の理想共産思想 を吹聴したところで、 養護施設煉獄 でもがき続ける餓鬼どもの心に届いたりなんかしなかった! 鬱陶しがられ、虐められ、挙句の果てに殺されかけた!  問題児危険分子 として 養護施設子供工場 隔離部屋牢屋 に繋がれて、それでもきみを見捨てた 同志思想 への羨望を捨てきれず、狂い叫びながら赤子の様に泣きわめくんだよ! いつか、愛する 師匠ゼペット が自分を助け出してくれる日が来るって、死ぬまで駄々をこね続ける!  死ぬまで・・・・ !  死ぬまでだ・・・・・ ! それがきみの夢の終わりだ!  疾風・クラーラ・アイヒェルこども赤軍疾風 は失意と絶望の中で ブタ・・ のように泣き喚きながら死んだ! そして――」


 そのとき。索敵糸に感があった。

 直下――足場とする樹の幹――ほぼ 至近距離・・・・ ――そしてすぐさま視線を投げかけた先に、氷のように冷えた視線を嵐に向けながら猛然と樹表を駆けのぼりながら、右腕を振り上げている疾風と目が合った。


「ううん……すこし、やかましいですね」相変わらず満面の笑みを浮かべた疾風が、反応すら不可能な速度で高電磁ナイフを振り下ろした。「えいっ」


 ぐしゃあ、と金属のひしゃげる音が聞こえた。

 嵐が足場とする枝越しに回り込んだ高電磁ナイフが、彼女の左足の甲へ深々と突き立っていた。一拍遅れて指先から 噴出ジェット した切断糸を振り下ろす嵐の一撃を、疾風はあえてナイフを手放し落下することで回避する。そのまま樹の根元まで落下することを防ぐため、幹を足場に踏み切って嵐から飛び離れる疾風の動きを、もはや目で追う事すらせず、嵐は冷静に移動用の牽引糸を展開し始めていた。そこら中に張り巡らされていた索敵糸の監視網を如何にして掻い潜ったのかは定かではないものの、近くの樹木を足場として蹴り跳ねた疾風が、ほんの数秒後には今度こそ自らの懐へ潜り込んでくることは疑いようも無い。ナイフは鋼鉄の義肢を深々と足場の枝に縫いとめており、疾風が戻ってくるまでのわずかないとま では、それを抜くことも叶わない。


「ンフ、フ……」


 冷や汗が、うなじを伝った。

 死ぬことは構わない。痛いのも大嫌いだが、まあ耐えられる。怖いのは――


「……マジで、頼んだからね――」


 ――怖いのは、事の次第によっては恐らく、疾風を殺しかねない己自身のこらえ性の無さだった。何か想定外のことが起きた際に、その場のノリで気まぐれに加減を解いてしまうことだ。そのとき もしかするならば・・・・・・・・ 、愛すべき友人の背骨を、小枝を手折るようにへし折りかねない己の無謀だ。

 だって特甲児童は、かつて実際に 殺し合った・・・・・ ――



「ご高説、 ダンケどうも ダンケどうも です! 浅学の身の上ですから、何を仰っているかわかりませんでしたが、どうやらあなたは同志ではないようだ!」乱立する木々を蹴り登りながら、疾風の呼びかける声が耳朶を打つ。「声を上げる権利は誰にだってあります。ただ、それに対する 反応・・ に関しては、覚悟してくださいね。私だって、怒るときは怒るんですよ!」


 三角飛びによって十分な高度を得た疾風が、嵐の目の前にまで飛び上がった――こちらが足を潰されて動けないとタカを括っているのか、何の小細工も無く正面から襲い来た。


「自己批判なさい!」拳が振り上げられた。怒りと使命感に歪んだ疾風の顔貌は、なぜゆえか 土汚れ・・・ に塗れていた。「この鉄拳にて、お手伝いいたします!」

「やだよ」瞑目する嵐――ギリギリまで引きつけてから意表を突く腹積もりで、妄言を聞き流しつつ挑発した。「なにが悲しくて自分を虐めて喜ばなきゃならないのさ。そういうのはもう うんざり・・・・ なんだよ」


 空いた方の手で中指をおっ勃てつつ、嵐は己の左足に巻き付けた切断糸をもう片方の手で思い切り引っ張った。金属を削る恐ろし気な騒音を撒き散らしながら、嵐の特甲は見た目の異様さとは裏腹に、思いのほかあっさりと切断された。そのままぐらりと姿勢を崩し、あえて樹の根元へ向けて落下を始める。意表を突かれた疾風の拳が樹上で空を切ってたたらを踏むさまを敢然とした様子で眺めながら、嵐は先ほど足場の枝のに展開しておいた牽引糸に指先を引っ掛け、 索道ロープウェイ の要領で滑り落ち始めた。樹上という名の位置エネルギーを半ば非効率なまでに消費しながら、ほとんどジェットコースターめいた勢いでその場から離れゆく嵐は、進行方向に向けて背中を見せていた。というより、 疾風・・ から目を離せないのだ。これで彼女がその愚直さでもって追いかけて来るならよし。しかし、もしも彼女が少しばかりでも頭を働かせたならば、あるいは 索条ロープ 足る牽引糸の切断に掛かり、 搬器輸送物 たる己の落下を狙うだろう。その際は別の方法で 誘導を行わねば罠に掛けねば ならないが――しかし、それらはとりあえず杞憂と化した。嵐の移動方法を見てとり、疾風も同じように牽引糸へ指をかけ始めたのだ。


「よしよし、そのままおねいさんについてくるんだよ」軽口を叩く嵐の視線の先で、疾風の右腕が、俄かに閃いた。「……っと?」


 ほくそえむ嵐の表情が驚愕に歪んだのは、己に向けて飛び来たる一筋の 緑光・・ を目にしたからだった。飛び道具となるものなど無い筈だったが――そのような思考すら紡ぐ間もなく、無我夢中で振るった彼女の右腕が弾き飛ばしたのは、先ほど切除したはずのの左足だった。その足先にぱっくりと開いた大穴から溶けた 造換素材メリアー体 を滴らせつつ、風鳴りの音を伴に纏いながら、遥か眼下の山肌に叩き付けられて砕け散る自らの四肢――その末路から視線を外して、嵐は投擲手たる疾風の様相を見つめ返した。牽引糸の索条に沿って、一直線に移動し続ける嵐と疾風――嵐の左腕は牽引糸の保持/右腕は先ほどの防御行動によって振りぬかれた直後――疾風がその右手指の先で刃先を摘まんで狙い定める 高電磁ナイフ飛び道具 を遮るものは、二人の間にまったく何も存在しなかった。そして、疾風が心なしかにこりと笑ったかのようにみえた瞬間――その右腕がまたも恐ろしい勢いで閃き、その手の中の白刃が投擲されていた。


 自らの心臓目がけて飛び来たる銀光は、回転する白刃に紫電を纏いながら、無慈悲なまでにその切っ先を尖らせている。抗磁圧の防壁はその刃先をいくらか反らしてくれるだろうが、しかし、投擲したのは あの疾風特甲児童 だ。尋常の腕力で放られたものでないのならば、反れた刃先は胸を避けてに刺さるかに突き立つか――


南無三シャイセ ……」


 吐き捨てながら、嵐は牽引糸を保持する指を解いた。直前までの移動の勢いに依る慣性に従って、放物線を描くように落下を始めた嵐の顔面めがけ、ナイフは躍りかかった。自由になった左腕を下げて頭部を庇うと、 一の腕うで の表面へじりじりと熱された刃先が がつん・・・ とぶつかり、跳ね上がった。突き刺さりこそしなかったものの、恐ろしいほどの衝撃が嵐の左腕を遅い、 肉体なまみ との接続箇所である二の腕へ引きちぎられそうなほどの反動が襲い掛かった。食いしばった歯の間から悲鳴を漏らしつつ落下する彼女の視線の先では、嵐が落下した箇所と同じところにまで牽引糸を滑り降りて来た疾風が、器用に上体を持ち上げながら、跳ね墜ちようとする高電磁ナイフを しっか・・・ と捕まえていた。疾風はそのままくるりと身をひるがえすと、今まで自分が掴んでいた牽引糸を足裏にあてがい、眼下に落下し続ける嵐を真正面に見据えながら、天地さかさまの姿勢を取った。一瞬の踏切りののち、牽引糸を蹴り離れて頭から落下し始めた疾風の右手の先には、俄然として雷光を纏った死の切っ先が握られている。柄に左手を添えて腰だめにナイフを構える彼女の姿勢は、まさしく防御不能の一撃を狙いすましたものだった。自ら 牽引糸足場 を踏み切ったがゆえの速度と、特甲の怪力と、接触時に尽き出される刺突の勢いによる相乗効果と比するならば、先ほど投擲されたナイフですら、子供の放る投石と区別がつかないだろう。完全に生命を獲りに来た かつて・・・ の仲間の姿を胡乱な目付きで観察しながら、嵐は咄嗟に両腕を十字に組んで頭上へ掲げた。


「はぁぁぁぁぁぁァァァ!!」


 裂帛の気勢と共に突き出されたナイフの刃先が、両腕に組まれた嵐の十字の中心点、最も防御の硬い箇所を貫き、砕き、手首ごとその内側に侵入し、やがて完全に真っ二つに切断せしめた。溶けた金属部品が宙空へ飛散すると、その腕の裏側に隠れた嵐の頭部がざくろのように四散することを予想してか、疾風の顔には勝利を確信する恍惚とした笑みが浮かんだ。そしてその数瞬後――勝ち誇り、残心を忘れた、その無垢な笑顔が――歪み、その刃先から伝わって来るはずの 手ごたえ・・・・ がまったく皆無であることに眉をひそめたときには―― あえて・・・ 自ら両腕を 切り離すパージする ことによってデコイ とせしめた嵐の特甲が、その内部に充填された 液状リキッドモード の液体金属を四方八方へと 爆散・・ させ、疾風の全身を包み込んでいた。肩口から頭部に掛けてぐっしょりと粘性の 液体金属リキッド を被った疾風は、目元を拭って最低限の視界だけを確保すると、憤懣やるかたないといった様子の形相で、もはや右足だけを残して達磨と化した嵐を憎々し気に睨みつけた。


「虚仮脅しを……!」

ソリッド にすると避けるか斬られるからね。 こうリキッド でもしなきゃ、捕まえられないと思ってネ」彼女の右足の 先端さき ――蜘蛛の糸のように伸びる一本の 牽引糸いのちづな が、疾風の肩口にかかる液体金属へと繋がれていた。「そんなザマになってもれるっていうなら、やってみなよ――全力で邪魔してやるからさぁ」


 嵐の返答を受け、疾風は咄嗟に己の身体に視線を走らせた。肩口に降りかかった液体金属はパキパキと音を立てながら固体化を始めており、圧迫された二の腕はみしみしと危険な音を立て始め、やがて内部の駆動系が圧潰する耳障りな音が響き渡った。故障により握力を失ったらしい右手から高電磁ナイフが零れ落ちるさまを見つめながら、疾風は未だ自由に動く下肢を捻るようにして持ち上げ始めた。竜鱗のごとき特甲のひび割れから姿勢制御用の圧縮空気を噴出し、眼下の嵐へ向けて強烈な一撃を見舞うべく、その鋭いかかとを振り上げた。大地への落着寸前に振り下ろしたならば、断頭台の如く 彼女の細い首根っこをへし折って切断するのは容易であろうとすぐ判るほどの迫力だった。刹那を交わしあうような応酬は、ようやく終わりの時を迎えようとしていた。もはや数瞬後には互いに地面へ叩き付けられるはずの二人の間に、この瞬間、なんの躊躇も介在する余裕はありはしなかった。半ば達磨状態にある嵐に取る事の出来る選択肢は存外少なく、であれば、彼女は躊躇なく 己の施した慈悲・・・・・・・ を無情にも奪い去ることを、迷ったりなどしなかった。


 今まさに断頭台のギロチンを振り下ろそうとしていた疾風の 脇腹きず から、鮮血が噴き出した。

 突然の衝撃によろめいた疾風の足刀は狙いを外し、嵐の側頭部をわずかに掠めたのち、脱力したように投げ出された。身じろぎする嵐は、己の胴体や下腹部を含む全身と、残った右足とを総動員することで、驚愕に眼を向きながら脱力する疾風の身体を しっか・・・ と包み込み、 卵殻シェル のように背を丸めながら、含み笑いを漏らした。


「こんな方法しか取れなくてごめんねえ」苦笑――あるいは、 狂った方法最終手段 でしか始末を付けられなかった己への蔑み。『抗磁圧を偏向――』


 嵐がちらりと眼を動かした視線のさき、疾風の脇腹の傷から 溶けた縫合の解けた 液体金属の滴が滴っていた。

  嗚呼・・ 、やはりわたしは 治す・・ なんてガラじゃないんだと……一抹の寂しさのような物を感じつつ、自らにも搭載された 狂気への引き金抗磁圧偏向装置 へ意識をやった。


『斥力磁場を背部へ集中――開放』


 抗磁圧偏向装置が うなり・・・ を上げると、不可視の力場が丸まった嵐の背部へと集中し――やがて、 爆発・・ することによって生み出した衝撃波が、小さく丸まった二人の少女の矮躯を、硬い地面から 押しのけ・・・・ 、斜め上空へと弾き飛ばしていた。脳髄をミキサーに叩き込まれたかのような衝撃が嵐の意識を揺さぶったが、彼女はほとんど気力だけでそれに耐えながら、しかしさも平静であるかの如く、いつも通りの語調で 無線通信くさぶえ を吹き鳴らした。


《転送を開封―― じゃあ・・・ 、ご足労よろしくネ――》


 甲高い共鳴音と共に、嵐の欠損した四肢を幾何学的な模様が覆っていく。切除したはずの右足と両腕が、緑光を迸らせながら実体化されていった。嵐は未だ造換途中の両腕を思い切り伸ばすと、疾風の全身へ巻き付けるようにしてしがみつき、何が何でも離さないといった風情で、やがて来る衝撃を待ち構えた。そして数瞬後――砂利と岩の隆起によって天然のかんな と化したウィーンの森の山肌が、落着する二人の全身を 削り下ろし・・・・・ に掛かり始めた。抗磁圧の 偏向と開放を行った直後クールタイム中 であった嵐は、それらの脅威に対して通常の抗磁圧防壁を展開することすら出来なかった。せっかく直したはずの両腕は、岩肌に表面をがりがりと削り取られ、着地の衝撃によって両脚は関節からへし折れた。無論、そのような状態で 肉体なまみ が無事であるはずもなく、細かな砂利や木の根に全身を 揉み洗い・・・・ され――やがて近くの樹の根元にその小さな背をしたたかに打ち付けて停止した時、嵐の全身は夥しいほどの生傷で真っ赤に染まっており――彼女の意識は、既に途切れていた。



 残ったのは、彼女のぬけがら だけだ。

  忘れ得ぬ過去トラウマ に根を張った 肢体死体 の苗床が、 狂気マンドレイク を孕み、静かに息づいていた。

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