マンドレイク9
*
移動速度において、疾風に叶うはずはない。
逃げたところで、そう間を置かず追いつかれることは自明の理であったが――しかし、嵐が振り向いた背後に、彼女の姿は影も形も見えなかった。
「…………」
無言のまま、嵐は己の特甲を駆動させ続けた。
あえて先端を
「んー……?」
ぐるり、と周囲を見渡す。
追手の影は、やはりなかった。
「追っかけて来ると思ったんだけどなあ……?」
そのぼやきに答える者は無く、移動の際にばら撒くように設置した
樹皮に隠した液体金属の噴出による
――が。
「めんどくさ……」
嵐・ヨハンナ・ヤンセン。14歳。
ぼさぼさの髪/眠たげに細められた瞳/気だるげな表情の与える印象に違わず、怠惰な少女である。とある
何故か。
決断という行為そのものを面倒臭く思うという、彼女自身の怠惰な性格に由来する要素も皆無ではないが――その一番の理由は何といっても、彼女が| 人命というものに全く価値を見出していない《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 》からだった。
「このまま疾風を放っといたところで、死に掛けの
これである。
仮にも治安機構の構成員が口走ってよい台詞ではない。
だが同時に、偽らざる彼女の心中でもあった。嵐・ヨハンナ・ヤンセンにとって、生命とは無価値であり、人生もまたそれに同じく。ましてや、見ず知らずの他人が遠く離れた場所で死んだり殺し合ったりする無常より、趣味であるネットゲームの運営会社が差しこんだ緊急メンテナンスによってログインボーナスの取得スケジュールが乱れる方がよっぽど問題意識を自覚できるくらいであった。
自らの視界の外に世界は無く、自らが視界に映した箇所にこそ、世界は形作られる。ともすれば、生命とは空想の中に蠢く実体のない概念に過ぎず、人生の幸福などという言葉はすなわち、空虚の中で死にゆくことへ耐えきれなくなった人間たちが生み出した、うたかたの
ともすれば彼女の思考はいま、ただ
「ふーぅ、よーぉ、さぁーん」だからこそ、糸を手繰った。命綱のように腰部へマウントしていた、一層細く不確かな糸を。「貴方はぁ、そこにぃ、いますかー?」
指先に繋がる糸を――
また一人になる。
それは少しばかり、つまらなくなりそうだから――まあ、もう少し気張ろうか。
すーっと、深呼吸をひとつ――そして。
「――疾風ぇぇぇ! この
罵声/怒声/絶叫――そう表現すべき咆哮が、静けさに満ちた森の端々にまで通ずるかのごとく響き渡った。
「
そのとき。索敵糸に感があった。
直下――足場とする樹の幹――ほぼ
「ううん……すこし、やかましいですね」相変わらず満面の笑みを浮かべた疾風が、反応すら不可能な速度で高電磁ナイフを振り下ろした。「えいっ」
ぐしゃあ、と金属のひしゃげる音が聞こえた。
嵐が足場とする枝越しに回り込んだ高電磁ナイフが、彼女の左足の甲へ深々と突き立っていた。一拍遅れて指先から
「ンフ、フ……」
冷や汗が、うなじを伝った。
死ぬことは構わない。痛いのも大嫌いだが、まあ耐えられる。怖いのは――
「……マジで、頼んだからね――」
――怖いのは、事の次第によっては恐らく、疾風を殺しかねない己自身のこらえ性の無さだった。何か想定外のことが起きた際に、その場のノリで気まぐれに加減を解いてしまうことだ。そのとき
だって特甲児童は、かつて実際に
「ご高説、
三角飛びによって十分な高度を得た疾風が、嵐の目の前にまで飛び上がった――こちらが足を潰されて動けないとタカを括っているのか、何の小細工も無く正面から襲い来た。
「自己批判なさい!」拳が振り上げられた。怒りと使命感に歪んだ疾風の顔貌は、なぜゆえか
「やだよ」瞑目する嵐――ギリギリまで引きつけてから意表を突く腹積もりで、妄言を聞き流しつつ挑発した。「なにが悲しくて自分を虐めて喜ばなきゃならないのさ。そういうのはもう
空いた方の手で中指をおっ勃てつつ、嵐は己の左足に巻き付けた切断糸をもう片方の手で思い切り引っ張った。金属を削る恐ろし気な騒音を撒き散らしながら、嵐の特甲は見た目の異様さとは裏腹に、思いのほかあっさりと切断された。そのままぐらりと姿勢を崩し、あえて樹の根元へ向けて落下を始める。意表を突かれた疾風の拳が樹上で空を切ってたたらを踏むさまを敢然とした様子で眺めながら、嵐は先ほど足場の枝の
「よしよし、そのままおねいさんについてくるんだよ」軽口を叩く嵐の視線の先で、疾風の右腕が、俄かに閃いた。「……っと?」
ほくそえむ嵐の表情が驚愕に歪んだのは、己に向けて飛び来たる一筋の
自らの心臓目がけて飛び来たる銀光は、回転する白刃に紫電を纏いながら、無慈悲なまでにその切っ先を尖らせている。抗磁圧の防壁はその刃先をいくらか反らしてくれるだろうが、しかし、投擲したのは
「
吐き捨てながら、嵐は牽引糸を保持する指を解いた。直前までの移動の勢いに依る慣性に従って、放物線を描くように落下を始めた嵐の顔面めがけ、ナイフは躍りかかった。自由になった左腕を下げて頭部を庇うと、
「はぁぁぁぁぁぁァァァ!!」
裂帛の気勢と共に突き出されたナイフの刃先が、両腕に組まれた嵐の十字の中心点、最も防御の硬い箇所を貫き、砕き、手首ごとその内側に侵入し、やがて完全に真っ二つに切断せしめた。溶けた金属部品が宙空へ飛散すると、その腕の裏側に隠れた嵐の頭部がざくろのように四散することを予想してか、疾風の顔には勝利を確信する恍惚とした笑みが浮かんだ。そしてその数瞬後――勝ち誇り、残心を忘れた、その無垢な笑顔が――歪み、その刃先から伝わって来るはずの
「虚仮脅しを……!」
「
嵐の返答を受け、疾風は咄嗟に己の身体に視線を走らせた。肩口に降りかかった液体金属はパキパキと音を立てながら固体化を始めており、圧迫された二の腕はみしみしと危険な音を立て始め、やがて内部の駆動系が圧潰する耳障りな音が響き渡った。故障により握力を失ったらしい右手から高電磁ナイフが零れ落ちるさまを見つめながら、疾風は未だ自由に動く下肢を捻るようにして持ち上げ始めた。竜鱗のごとき特甲のひび割れから姿勢制御用の圧縮空気を噴出し、眼下の嵐へ向けて強烈な一撃を見舞うべく、その鋭いかかとを振り上げた。大地への落着寸前に振り下ろしたならば、断頭台の如く
今まさに断頭台のギロチンを振り下ろそうとしていた疾風の
突然の衝撃によろめいた疾風の足刀は狙いを外し、嵐の側頭部をわずかに掠めたのち、脱力したように投げ出された。身じろぎする嵐は、己の胴体や下腹部を含む全身と、残った右足とを総動員することで、驚愕に眼を向きながら脱力する疾風の身体を
「こんな方法しか取れなくてごめんねえ」苦笑――あるいは、
嵐がちらりと眼を動かした視線のさき、疾風の脇腹の傷から
『斥力磁場を背部へ集中――開放』
抗磁圧偏向装置が
《転送を開封――
甲高い共鳴音と共に、嵐の欠損した四肢を幾何学的な模様が覆っていく。切除したはずの右足と両腕が、緑光を迸らせながら実体化されていった。嵐は未だ造換途中の両腕を思い切り伸ばすと、疾風の全身へ巻き付けるようにしてしがみつき、何が何でも離さないといった風情で、やがて来る衝撃を待ち構えた。そして数瞬後――砂利と岩の隆起によって天然の
残ったのは、彼女の
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