マンドレイク7
一見して――疾風はその質問に対し、何の反応も返さなかったかのように見えた。
オクダイラはわずかばかり怪訝に思ったものの、揺さぶり方が足りなかったのかと思い直し、さらなる言葉を紡ごうとして――次の瞬間。
ひゅぱっ、と――白刃が閃いた。
今の今まで苦虫を噛み潰したかのような表情を湛えていた疾風が、笑いながら高電磁ナイフを振りぬいていた――何の躊躇もないままに。
オクダイラは、差し出した自分の右腕がにわかに宙を舞い、二の腕の半ばから切断されるさまを、どこか信じられないものを視るような面持ちで眺めていた。
疾風の表情を伺ってみれば、その顔は先ほどと変わらず、生真面目で思いつめたような、堅苦しいさまを保っている。
「ごめんなさい。でも警告に従わなかったから……
「疾風、急に何を」
「貴方の手を握るのはもう
ひゅぱっ――またも無造作に振るわれたナイフが、今度はオクダイラの左腕を切断した。
疾風は困惑するオクダイラの背後へゆっくりと回り込むと、右手に握ったナイフの切っ先をその背中へと突き付けた。
「左右の長さ、同じ方がキッチリしていて、なんていうか、
「…………」
「おじさん? ねえ、何か仰ってくださいよ。覚えていませんか?」
「ああ」オクダイラ――記憶の糸を手繰りながら、おそるおそる返答した。「たしか、そのようなことが……」
ひゅぱっ――視界がほんの一瞬だけ
両の眼へわっと湧きだした熱――頬をだらだらと伝う液体の感触を鑑みて、
「眼球の水分までは焼き止められませんけど、失血死の心配はないのでご安心くださいね」暗闇の中に疾風の声だけが響いている――「というより、何で喋ったんですかあ?
暗闇に包まれた視界の中で、童女のような声音が反響している。
丁寧で、敬意に満ち、しかし直截で、どこか背伸びしたような印象の残る語調――在りし日の
真剣な態度で自らの講義を受ける彼女の横顔/
だが現に、彼女はいま、
予想外の事態に脳裏を白く染めたオクダイラの眼前に――ふと、とある男の顔が浮かび上がった。
おそらく、彼が
その瞬間、オクダイラはこの
もしも彼の予想が当たっていたならば、彼女は――
「やあやあ」その時、俄かにかさかさと落ち葉を踏みしめる足音が迫り来た。「お疲れさまだね、
敬称を殊更に強調したねちっこい声音――オクダイラが今日初めて耳にするこの声は、恐らくまだ今日会話を交わしていない特甲児童の物だろうと推測できた。
しかし――あの頭上からの
彼にとって重要なことは、
そしてその為に、彼は自らに残された
あの夜に打ち上げられた照明弾の光を覚えている。
星が空を裂いて落ちて来るかのような、幻想のともしびを。
まさか、あの光の下で
そしてまさかその場所に、戦火にまかれてはぐれてしまった己の家族が居合わせていただなどと。
当時は、夢にも思わず。
――そして。
「お楽しみのとこ悪いけどさあ、それ以上の拷問はまずいって。膝の出血も酷いしさ、腿の内側の大動脈をちょちょいっと縛って止血を――」
「……止血? そんな、必要ありませんよ。だって、
「あっはは、革命て――」ぴたり、と笑い声が止まった。「――あの、疾風さん。ひとつ聞きたいんですけど?」
「なんでしょう」
「わたしの名前、わかる?」
「
「ン、フフ、フ……」乾いた笑い――「そりゃあ知ってるさ。仮にも同じ小隊のメンバーじゃ――」
ひゅぱっ、という
聞き覚えのある声。ほんのついさっき、いましがた、この周辺に歩み寄った
「仕留め損ねてしまいました……」疾風の呟き――少しばかり、トーンの高くなったような風な違和感を感じた。「面識もないのに、私の名を知っているひとであるならば――斬れば良いのでしたよね、たしか」
「疾風……? なにが、起こったというのだ……」
「ロネンおじさん。ちょっとだけお待ちいただいてもよろしいですか? ちょっと野暮用を済ませてまいりますので――
間を置かず、オクダイラの横合いに常にあった気配が、はた、と消え失せ――そして静寂だけが残った。
「そう、かつ……」オクダイラの呻き――信じられない物を耳にしたという体で。「馬鹿な、疾風がそのようなことをあえて行うはずがない。それは……
オクダイラの脳裏に過ぎった顔貌――
「お前は何者だったんだ、
いらえは無く。
ただ、遠くから響く
おそらく疾風が仕掛け、もう一人が応じた。
きっと彼女らは――
*
一般的に人間の最大視野角は水平方向へ200度とされるが、これは静止状態における理論上の最大値というだけの話だ。
歩行時の視野角は160度以下とされており、特に意識を集中して〝見れる〟視野角は46度にまで減少する――訓練による向上が可能であるという点を差し引いたとしても、肉眼による視覚の限界はこの近似値がせいぜいであるが――。
この視野角の減少は
そしてその理由は、
いくら高性能な義眼を経由した大量の視覚情報を取得できたとしても――それらを演算し、活用するのは、
この軛から逃れるために人類が生み出した物――人体パーツの置換によって
機械科学と脳科学における偉大なる発明は、しかし――軍需産業との融合によって新たなる問題をつまびらかにすることとなった――特甲の開発によって。
〝特殊転送式強襲機甲義肢〟――通称
本来であれば車両や
傷痍軍人を始めとした不具者に対する国家補償兼復帰及び
ただし、その失敗を母として生み出された者たちがあった。
人体機能を逸脱した腕部を手足と認識できないほど脳が
――特甲児童。
人には過ぎた力を与えられ、そしてそれに適応することを求められた者たち。
時にそれは、
………………
…………
……
「
がつん、と頭を殴りつけられたかのような衝撃――その質問を耳にした途端、疾風の脳裏を、猛烈なまでの
「それ、は……
「メディア向けの公式見解ではそうだな。だが、それは真実の一端に過ぎないと私は考えている。あの狡猾な男が、果たしてあのような場所でただ撃たれて死んだりするものだろうか? 何か予想外のことがあったんじゃないかと私は見ているんだがね……」
「……そのようなこと」
「ウィーンの森事件。世間では、きみとゼペットの二人で行われたゲリラ作戦であるとされている。ただね、あの森は
「何を、ですか」――脳髄で警鐘が鳴らされている。全身の細胞が伝えていた。
「あの訓練キャンプで君と同じ釜の飯を食っていた子供たち――きみの
――何もかも、思い出してしまった。疾風の意識は、その直感を最後に、
埋めておいた方が
疾風・クラーラ・アイヒェル。
メディア上ではもっぱら、彼女はこう呼ばれている――
オーストリア史上最悪と云われる
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