マンドレイク6
〝オクダイラ〟の
酒乱に似た心地だった。
己の意識が肥大していく。常においてなら口に出すどころか、心の上澄みにも浮かび上がらないであろうことばが次々と己の口をついて飛び出し、音を結んでいた。彼の主観に置いて、ロネン・サイードは劇場の観客側だった。己の思うままに身体が動くが、この身体を動かしているのは、己ではない――そういった奇妙な浮遊感が、
ぬるま湯につかるような――とてもいい気持ちだった。
全身をガスに犯され、全身の神経が内側から揺さぶられているかのような痛みに襲われたとて、脚を砕かれ、肉が裂け、骨が大気にその身を晒しても――それは己の身体に差し迫る危機を知らせるためだけを目的とした、索敵行為の一巻でしかなくなっていた。ああ、そちらに敵がいるのだな――耳朶を打つ発砲音を標に身体を向けた先に飛び込んで来たマズルフラッシュへ向けて、オクダイラはただその打倒を願えばいいだけだった。思考が言葉を結ぶよりも早く動いた己の両手が正確な保持姿勢でもって自動小銃の三連射を敢行している。木の枝に吊られた短機関銃がまた一つ地に落ちて、そして周囲は静けさに包まれた。
――何をしようとしていたのだったか?
靄の掛かったような意識の中でもたげた疑問へ呼応するように、オクダイラの視線が己の手首をなぞっていた。腕時計の秒針がカチカチと音を刻むにつけ、彼はようやく本来の使命を思い出した。
――ああ、私は、決まった時間に死ぬために、この場で銃を取っているのか…………?
……答えの出ない疑問だった。死ぬ為に、銃を取る。倒すためでもなく、殺すためでもなく、死ぬために誰かを撃つ――酷く矛盾した思考に違和感を感じながらも、しかし摩耗したオクダイラの意識はもはやその単純な論理破綻にも反駁出来ない。秒針があと一回りする瞬間を冷めた瞳で見つめながらも、自らの胸にわだかまる奇妙なむず痒さを無視出来ないでいた。
――わたしは、誰かに、
その疑問が鎌首を擡げた瞬間、彼の視界の端に薄ぼんやりとした虚像が浮かび上がっていた。
光沢の無い
無造作にこちらへ歩み寄る姿――その両足が落ち葉を踏みしめ、折れ木を踏み割るが、オクダイラの両耳は
あれは幻覚か/それとも現実か?
答えを得る前に身体が動き始めた――ゆっくりとした所作で彼女の胸部を照準した瞬間、オクダイラは己が見失っていた答えが脳裏に過ぎるのを感じた。
ああ、疾風。我が教え子。我が
死を植わる種――真っ直ぐその心臓目がけて飛んで行ったはずの弾は、しかし的を外して彼女の背後へと逃れた。何故――その単純な理由に気付くことが、奇妙なほどに
疾風の取った回避方法――銃弾が発射される前に斜めに駆け出して曲線を描きながらオクダイラへ近づこうとしている=真っ直ぐ進んだら当たるからちょっと斜めに動いて避けながら近づく=恐ろしく単純な答え――なのにこの私が的を外した/照準の追随が
音。
それが無い。
こちらへ一目散に駆け寄って来る疾風は、奇妙なことに――
もはや距離は僅か――その表情が窺い知れるほど間近に迫ったその頭部へ向けて照準を重ねようとして、しかしまたも銃弾は空を切った。疾風はオクダイラを
彼の左手が斬り落とされ、手榴弾ごと
何の前触れも無く失われた左手――視覚と聴覚の不一致によって状況の認識が遅れる=あらゆる判断に支障が出る――ほんの一拍遅れて背後へ繰り出した右肘は宙を切った=やはり背後には誰もいない――周囲にサッと視線を巡らせたが、疾風の姿は見当たらなかった。
切断された左手を見て、しかしそんなものは馬鹿な考えだと振り払った――流血の全くない
オクダイラは、己の頭部を狙って銃器を構えなおすことを諦めた。そのような隙を見せれば、同じように右手を切断されるだけだろう――周囲へ油断なく視線を巡らせながら、彼女の気配を探った。あるいは先ほどの己が殴りつけた毒ガスをばら撒く特甲児童と同じように、光学迷彩に類似した兵装を使用している可能性を念頭に置きながら。
はらり、と。
静寂の最中に思考を回すオクダイラのほんの目の前に、はらはらと青い葉が独楽のように舞い踊りながらゆっくりと落ちて行った。
「――上か!」
刹那――咄嗟に背を逸らして樹上を仰ぎ見たオクダイラ目がけて飛びかかる影があった。照準器を覗く暇すらなく腰だめに構えられた銃口は確かにその影を捉えていたが、雷火の残光が煌めくと、硬質な金属音があたりの空気を震わせる瞬間に、オクダイラの眼が驚きに見開かれた。半ば押し当てられるようにして銃口へ添えられた
たった一発の致死の銃弾――疾風は甘んじてそれを受けた。
顔面の前で十字に交差した金属製の両腕による防御姿勢は、破壊的な威力を有するライフル弾の衝撃に仰け反った。続く二発の弾丸がその命を狩るのに十分と思われるほど、致命的な隙を晒した彼女の命は――しかし、失われることは無かった。放たれた弾丸は
「
ゆっくりと立ち上がる彼女の頭蓋を目がけて、
「投降してください、ロネンおじさん……」逆手に握ったナイフをゆっくりと下ろしながら、疾風が勧告した。「……抵抗は無駄です。
AKは確かに振りぬかれ――しかし、疾風は無傷だった。オクダイラの手の中のAKは、いつの間にか半分ほどの長さになっていた。
溶断されたAKの銃床を一瞥して、オクダイラは先ほど己の左手の切断と止血を同時にやってのけた武器の正体に
「わたしを
「貴方の脳がミサイルに積まれてさえいなければ、そうしたかも知れません」右手で油断なくナイフを構える疾風――順手に持ち変え、
「犠脳体兵器――」オクダイラは使い物にならなくなった小銃を取り落としながら、その瞳に寂寞の色を浮かべた。「――恐ろしい技術だ。その
「惑わす……? あのような
「そうだとも。私のような老いさらばえた老人が、空を飛ぶ
「銃を捨て、両手を頭の後ろで組んで下さい」 朗々と語り始めるオクダイラを見て取り、疾風が怪訝な表情を浮かべながら命令した。「ゆっくりと跪いて下さい――怪しい行動を取れば、今度こそ容赦はしません」
「怖い事を言わないでおくれ、疾風。銃器を失い、左手は君にもがれた。膝も……」オクダイラが視線で指し示した彼の両膝は、夥しいほどの出血に塗れていた。「……この通りだ。立っているのすら、つらいよ」
オクダイラはその言葉の通り、満身創痍という言葉すら生温い状態にあった。焼き切られた手首と砕かれた膝は常に激痛を伝えており、疾風の言葉に従って跪こうにも、そのために膝を曲げることすら困難だった――少なくとも、見た目に置いては。
しかし、オクダイラの両膝はゆっくりとその形を畳んでいった――神経線維を焼き溶かされているのではないかというほどの痛みがオクダイラの脳を満たしたが、
「疾風。この後、私をどうするつもりかね?」
「喋らないで下さい。膝を付いたままでいて下さい」――オクダイラから一定の距離を取りつつも、疾風は武器の構えを解こうとはしなかった。
「そうか。
「喋らないで下さい」目を細める疾風――うんざりした様子でオクダイラに勧告した。「最終警告です。次に何か口にしたら、残った腕も切り落としますよ」
「脅しのつもりかい? 警官のきみが拷問の真似事など、
「話すことなど――」
「
その質問を投げかけた瞬間――疾風は目に見えて、うろたえ始めたように見えた。
「それ、は……
「メディア向けの公式見解ではそうだな。だが、それは真実の一端に過ぎないと私は考えている。あの狡猾な男が、果たしてあのような場所でただ撃たれて死んだりするものだろうか? 何か予想外のことがあったんじゃないかと私は見ているんだがね……」
「……そのようなこと」
「ウィーンの森事件。世間では、きみとゼペットの二人で行われたゲリラ作戦であるとされている。ただね、あの森は
「何を、ですか」――明らかに動揺した様子の疾風――心なしか、その額に脂汗のようなものすら吹き出しながら問い返す彼女の様子を見るに、オクダイラはこれを好機であると考えた。
いくら強力な武器を持とうとも、所詮は子供――口先ひとつで懐柔し、隙を作ったならば、この絶望的な状況すら何とかなると――そういった目論見から、オクダイラは長年のあいだ温め続けていた疑問を口にした。
「あの訓練キャンプで君と同じ釜の飯を食っていた子供たち――きみの
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます