26 さよならを教えて
桐野の部屋は、相変わらずオタグッズで埋め尽くされていた。
座卓の三辺に、俺、桐野、三宅先輩の三人がそれぞれ座る。
三宅先輩は言った。
「君をこの世界に連れてきたと言ったが、それは正確じゃない。正しくはこの私じゃなく、この世界の私がやったんだ」
俺は頷いた。部室で三宅先輩と会ったときのことを思い出した。道理でサークルクラッシュしたときのことを覚えていないはずだ。そのときの三宅先輩は今の先輩とは別人だったのだ。
「この世界の私… この世界とか、あの世界とか言うとわかりにくいから、男の性欲の方が前面に出ている世界をM世界、女の性欲の方が前面に出ている世界をF世界としよう。今、私たちがいる世界がF世界だ」
MとFは、MaleとFemaleの頭文字だろう。
「F世界の私が貞操観念の男女で逆転した世界に行くことを考えたのは、後輩を部長に取られてかららしい。それで、すこし頭がどうかしたF世界の私は、自分が男にモテモテになる方法を考えたんだ」
三宅先輩は鞄から革装の日記帳を取り出した。
「この日記にすべて書いてある。この日記は、訳のわからないまま異世界に飛ばされてくるM世界の私に宛てた私信も兼ねているようだ」
日記帳のページを適当にめくる。
「私も、この世界に来た初めのうちは混乱したよ。けど、この日記のおかげで事態を把握できた。M世界の私も、もう一人の自分を訳のわからないままこの世界に放置するのは忍びなかったらしい。それで、私も諦めてこの世界に順応することにした。この世界での見聞を元にして、ラノベを書いたりもしたよ。『あなたを脱童貞させてあげるから、私をオタサーの姫にしなさい!』という書名さ」
「高麗洵は副部長だったの!」
桐野が驚きの声をあげる。
「《一七歳》って折り返しに書いておいただろ?」
三宅先輩は皮肉げに言った。
「まあ、腐っても文芸部だからね。好きだったGA文庫の編集部に持ちこんだら、面白がってくれて出版まで行かせてくれたよ」
先輩は軽く溜息をついた。
「現役女子高生ライトノベル作家なんて元の世界ならすごい話題なのに、この世界じゃただのオタクだもんな」
「でも、それが当たり前ですよ。小説に作者の性別は関係ない」
俺がそう言うと、先輩は微笑した。
「それで、F世界の私が草鹿のことも転移させていたことを知ったんだ。ただ、私にできることはほとんどないし、静観していようと思ったんだ。でも、これでも私は君のことを心配していたんだぜ? 君が復帰したと知ったから、文芸部にもときどき顔を出すようにしたしね」
「事態をかき回して面白がっていたようですけど」
三宅先輩は肩をすくめた。
「私もこの世界に来てまだ慣れていないからね。実験して様子を見てみたかったのさ」
「けど、今日の騒動を見て考えを変えたんですね」
先輩は頷いた。
日記帳をめくる。大量の図式や数式が書かれたページだった。
「ここにM世界とF世界を行き来する方法の理論の解説が書いてある。全部説明すると幾つも複雑な数式を書かなきゃいけないから、概要だけ言うよ」
そう前置きして三宅先輩は説明した。
「この宇宙における真空のエネルギー密度は、真空の量子力学的揺らぎから予測される値より宇宙観測の実測値の方が一二〇桁大きいんだ。ここから予測されるのは、一二〇桁の数だけ異なる宇宙が存在するということ。話は変わるけど、確率分布に従って異なる宇宙に分岐した量子の量子状態は相補的なんだ。F世界の私はERP相関で、異なる宇宙における同一の量子の量子状態を交換する方法を考えた。そして超弦理論を利用して、ある特定の宇宙の座標を測定した。つまり、男女で貞操観念の逆転している世界のね。そして、私の姉が研究員をしている埼大(埼玉大学)の量子コンピューターを使って、二つの宇宙で個人の脳の電磁場を交換した。こうして、貞操観念の逆転した世界を行き来したんだ」
俺たちは寝そべってババ抜きをしていた。
「人間は両端のカードは無意識に避けるそうよ。そうなると、ババは中央に配置したくなるわね。さあ、どうかしら」
「クッ。こいつ、心理戦を仕掛けてきやがった…!」
「聞けよ!」
三宅先輩は叫んだ。
「ごめんなさい。話が長かったものだから」
俺たちは体を起こした。
「その説明を聞くと、自由に両世界を行き来できるように思えますが」
三宅先輩は顔を顰めた。
「理論上はそうだけど、とてもお勧めできないぜ」
「どうして」
俺は詰め寄った。
「君。事故の確率が高いからって、友人が格安航空会社を使うのを止めるかい」
「まさか」
「じゃあ、その航空会社が一〇〇便に二便は墜落するって知っていたら? それでも、友人が低い確率だからと無視して値段を優先させたら?」
俺は言葉に詰まった。
「世界を行き来するのに二パーセントも失敗の確率があるんですか?」
「うん」
三宅先輩は言いにくそうに頷いた。
「だから、君にこのことを話さなかったんだ。元の世界に戻りたがって、転移を行なって失敗したら目覚めが悪いからね。けど、今日のことがあった。もし君が危険を冒してでも元の世界に戻りたいというなら、私は手伝うよ」
俺はふと疑問に思った。
「そんな危険があるなら、どうして無関係の俺まで転移させたんですか?」
「新しいボールペンを買ったら、清書に使う前にまずチラシか何かで試し書きするだろ?」
「俺はチラシか」
悲しくなる。
「F世界では、私と草鹿は交流があったみたいだ。だから経過を観察しやすかったんだろうね。それで、成功を確信したF世界の私は自分も転移した。ここに観察記録が書かれているよ」
三宅先輩が日記帳を見せる。そこには俺が痴女に遭ったことや、教室で着替えをしたことなどが細かく書かれていた。三宅先輩が『あなオタ』を書くのには、F世界の先輩の観察記録も利用したのだろう。
「すべて理解したよ。俺がこの世界に来た原因も。どうすればいいかも」
俺の元いたM世界では、F世界の俺が生活しているのだろう。すこし心配したが、自分のことだからうまく順応しているだろう。
これから一つの選択をしなければならない。このままこの世界に留まるか、危険を冒して元の世界に戻るかだ。
桐野に尋ねる。
「俺たちの話が理解できたか?」
「平行世界だとかループだとか、まるでゼロ年代のエロゲーね。批評家は選択を拒む若者の象徴だとか言うわね。けど、脱衣麻雀やブロック崩しのエロゲーをしていた若者たちは決断力に優れていたのかしら」
「聞いた俺がバカだった」
三宅先輩に向きなおる。
「この世界にいた三宅先輩は、向こうの世界に行って、何をするつもりだったんですか?」
「日記には、大学を卒業したらAV女優としてデビューして、毎日AV男優とセックスすると書いてある」
「すべての女の夢じゃない!」
桐野が叫んだ。
「ただ女でいるだけで毎日AV男優とセックスできるなんて。死ぬほど羨ましい…」
桐野は本気で涙を流していた。
「三宅先輩は元の世界に戻りたくないんですか?」
先輩は鼻で笑った。
「元の世界では、管理職に占める女性の割合が一〇パーセント。フルタイムの女性の賃金が男性の七〇パーセント。多少セックスで優遇されていたからって、誰が元の世界に戻りたいと思う?」
M世界の三宅先輩とF世界の三宅先輩は利害が一致しているようだった。
「向こうの世界では、女子が理系に進学するだけでリケジョって呼ばれていたんだよ。わかるかい? 理系の女子でリケジョだ。理系に進学するのはほとんど男だけだから。私も理転(理系への転進)するのに木島先生に進路相談したんだ」
「ということは、そちらの世界では理系に進学するだけでハーレムだったのね。何という世界なの…」
桐野が歯噛みする。
先輩はゴミを見るで桐野を見下ろした。
「バカに話しちまった」
先輩は立ち上がった。
「一時間くらい、家の外を散歩してくるよ。元の世界に戻るかどうか、ゆっくり考えておいで」
部屋には俺と桐野の二人だけがとり残された。
「桐野…」
俺が言いかけると、桐野は手で制した。
「言わなくてもわかっているわ。草鹿くんが元の世界に戻ると、この世界にいるのは、私と過ごした記憶を持っていない草鹿くん。本当にゼロ年代のエロゲーみたいだわ」
桐野は冗談めかして言った。
だが、その目はわずかに濡れていた。
俺が元の世界に戻っても、そこにいるのは俺と過ごした記憶を持たない桐野だ。
この桐野と別れる?
バカな…
「こういうとき、エロゲーなら、別れる前にエッチシーンがあるのがお約束なのだけど。けど、ここはライトノベルらしく綺麗に締めましょう。これであなたが元の世界に戻ったら大団円よ。もしかしたら、向こうの世界の私と言葉を交わすかもしれないわね。それで、すこし寂寥感を覚えたりするのよ。どう、らしいじゃない?」
たしかに、これで俺が元の世界に戻れば大団円だ。こうして貞操観念の逆転した世界にいたことは幻のように感じられるだろう。元の世界でこのことを知るのは三宅先輩ただ一人だ。やがて夢か思春期の妄想だったと思うようになるだろう。
うん。いい終わりだ。
「そんなわけあるかァー!」
俺は絶叫した。
「現実はラノベじゃないんだよ! 人生がどうしようもなく捻じ曲がることがあるんだ! 俺の人生が変わったのはこの世界に来たときじゃない。お前に会ったときだ、桐野」
俺は桐野を正面から見詰めた。
率直に本音を言う。
「俺、しばらくこっちの世界で暮らしてわかったよ。こっちの世界とあっちの世界、どっちの世界が狂ってるわけでもない。こっちの世界とあっちの世界、どっちも正しくて、少しずつおかしいんだ。だから、俺はこの世界に残って、少しずつおかしいところを直していくよ」
「草鹿くん…」
桐野は感情を抑えた声で呟いた。
笹木、伊月、黒川、六条先輩、木島先生。誰よりも桐野。この世界で多くの人と知り合った。その縁を絶ちたくない。
さようなら『ゼロの使い魔』。さようなら『涼宮ハルヒの憂鬱』。俺はこの世界で生きる。
俺は桐野とともにベッドに倒れこんだ。
「これから何をするの」
「世界でいちばん気持ちのいいことだ」
桐野が囁く。
「コンドームの準備はできているわ」
その後、戻ってきた三宅先輩によって俺と桐野の初体験が未遂に終わったことは言うまでもない。
(了)
お前を脱処女させてやるから、俺をオタサーの王子にしてくれ! 海老名五十一 @ebina51
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