23 霞外籠逗留記

 伊月が夏合宿から帰ってきた。

「お土産は?」

 桐野が尋ねる。

「そんなものないよ。合宿所に行って帰ってくるだけなんだから」

「パーキングエリアで売っているでしょう? 龍の巻きついた剣のキーホルダーが」

「それがほしいの!?」

 伊月は合宿中におきた出来事を尋ねた。

 俺と桐野が池袋に行ったことを知ると、俺に言った。

「ね。あたしたちもどっか遊びに行こうよ」

 俺は桐野に視線を遣った。

「二人の話でしょう? 勝手に決めればいいじゃない」

 桐野は不愛想に言った。

「ああ。そうするよ」

 桐野の物言いに反発して伊月に承諾した。後悔したが、そのときはすでに遅かった。

 伊月は気まずそうにしていた。だが、提案を撤回することはなかった。


 伊月とのデートは川越水上公園での水遊びに決まった。

 例によって大宮駅の《まめの木》前で待ち合わせする。その後、川越線で西川越駅に向かった。

 伊月の私服はオフショルダーのブラウスに、ショートパンツだった。上下ともしまむらで揃えたものだ。

 俺の服も、上下ともしまむらだ。

「知ってる? 原宿あたりの若者はみんな古着を着てるらしいよ」

「可哀想。きっと新しい服を買うお金がないんだね」

「俺たちにはしまむらがあってよかったな」

 たがいに頷きあう。

 川越水上公園に着く。

 大人料金を払い、プールに入る。

「お待たせ」

 チューブトップ型の水着に着替えた伊月が現れる。健康的な体つきだ。思わず顔が赤らんだ。

 伊月は俺の視線が隠微なものになっていることにまったく気づかなかった。男性が女性に欲情するということは思考の埒外にあるらしい。単に照れているとしか思っていないようだ。

 一方で、俺も自分の水着が人目を引いていることを理解するまで、それから半日かかった。


 俺と伊月は足湯に浸かっていた。

 川越水上公園で遊び疲れた後、夕涼みに川越駅近くを遊歩した。喫茶店で休憩し、その後、無料の足湯を利用していた。

 しばらく二人でぼんやりしていた。

 伊月が思い出したように言った。

「あたしと付き合って」

 その言葉をゆっくりと反芻する。デートに誘われたときから予感はしていたが、本当に告白されるとは思わなかった。それも、伊月のようなスクールカースト最上位の女子からだ。好かれたことへの自尊心と喜びを感じ、同時にそんなはずはないという疑念を覚える。

 だが、俺はそうした遅疑逡巡を恥じた。

「ごめん」

 告白を断る。

「桐野がいるから?」

「うん…」

 伊月は俺の目を覗きこんだ。

「あたしも、桐野と草鹿が何かを共有してるのは知ってる。あたしにそれがないことも。陽キャのパリピだもんね。でも、桐野とはそれを分かちあえるかもしれないけど、あたしにはそれを与えられるかもしれないよ」

 言葉に詰まる。

「普通、そういうときは自分の持っているものをアピールするものじゃないか?」

 ようやくそれだけを言う。

「でも、何で俺なんだ? 自分で言うのもなんだが、これといっていいところはないぞ。陰キャだしな。正直に言って、体の関係が目的なんじゃないかと思ってる」

「体の関係が目的じゃ駄目なの?」

 伊月は真剣に言った。

「仮に性欲が動機でも、性欲を満たせるのなら誰でもいいかとか、人間ってそんな単純じゃないと思うよ。好きな相手とセックスしたいと思うことはそんなにいけない?」

 俺は軽率な言葉を反省した。

「すまない」

「草鹿って卑屈すぎるよ」

「自信がないからな。プライドを保つために必死だ」

 伊月は言った。

「草鹿はなにか他の男と違うんだよ。こう言うと陳腐だけど、そうじゃなくて、もっと具体的に何かが違うの。草鹿と付き合えば、その正体がわかるかもしれない。そうなれば、きっとあたしはもっといいあたしになれる。それが草鹿と付き合いたい理由。納得した?」

 それは俺が貞操観念の逆転した世界の住人であることが原因だろう。

 動機は納得した。だが、それでも断った。

「伊月が俺と付き合いたい理由はわかった。でも、俺はお前とは付き合えない。俺は桐野が好きだからだ」

 伊月は息を詰めていた。

 宙空に叫ぶ。

「あー! フラれたー!」

 足湯を蹴って波立たせる。

「でも信じらんないな。あたしはスポーツ万能だし成績優秀だし、スクールカースト上位だし、中学のときの北辰テストで順位一桁だったしさ」

「うん…」

「桐野は顔はいいけどさ。陰キャだしオタクだし性格悪いし…」

「うん…」

「下ネタ多いし二次元でオナニーしてるし性犯罪者予備軍だし…」

「そこまで言うことないだろ!」

 俺はツッコんだ。

 伊月は溜息をついた。

「でも、これでまた処女を卒業しそこねたな」

「だから、その嘘はもうつかなくていいんだって」

 俺は呆れて言った。

 伊月は無言で足湯を出た。俺の背後に回る。

「嘘じゃねーっつってんだろ!」

 背中に衝撃を感じ、蹴られたと気付いたときは、湯面が眼前に迫っていた。


 その翌日。俺と桐野、伊月の三人は大宮駅近くの《漫々亭》で昼食にスタミナラーメンを食べていた。

 カウンター席で、中央が桐野だ。

 伊月が言った。

「こないだ草鹿と遊びに行ったときに、一緒に温泉に入っちゃった」

 桐野がラーメンを吹き出す。

 俺も咳きこんだ。

「足湯だよ」

「ああ。足湯。そう…」

 桐野は平静を装い、ハンカチで口元を拭った。

「それで、そのとき草鹿に告白したんだ」

 桐野の動きがとまる。

「安心して。フラれたから」

 伊月は「お勘定!」と声を出した。

 一人だけ会計を済ませて退店する。最後までふり返ることはなかった。

「もしかしたら、彼女のことを誤解していたかもしれないわ」

 桐野は小声で言った。

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