21 下級生

 それからの夏休み中は、各々が気ままに部室に顔を出した。桐野か俺のうち先に来た方が鍵を貸出し、開錠する。黒川はほぼ日参していた。伊月もテニス部の活動の帰りに顔を出す。六条先輩はときおり補習の後に来ていた。

 伊月から、テニス部の夏合宿に参加するためしばらく部室にこないと連絡があった。

 この日は俺と桐野だけだった。

「六条先輩は?」

「予備校よ。補習が終わって、やっと夏期講習に参加しはじめたのよ」

「黒川は?」

「熱中症で倒れたって。自宅で療養しているそうよ」

「あの格好じゃな…」

 深く納得する。先日見たゴスロリの衣装を思い出していた。

「山う(山田うどん)でも食べにいかないか?」

「嫌よ。この暑い中、外に出たくないわ。埼玉県民の郷土愛をもって、昼食はガリガリ君で済ませましょう。《ナポリタン味》と《コーンポタージュ味》か《クレアおばさんのシチュー味》で一汁一菜を摂れるわよ」

 桐野はだらしなくソファに寝そべっていた。

 突如として体を起こす。

「そうだわ。学園青春コメディの定番のアレをやりましょう」

「アレ?」

 桐野に尋ねる。

「《部室でエロゲー》よ!」

「普通の高校にエロゲーはない!」

 ツッコんでから、俺は言い足した。

「実は、ラノベでよく見る《部室でエロゲー》のシチュエーションには俺も憧れていたんだ」

 桐野は気分が良さそうに窓際の教室用机に移動した。備品のノートパソコンが置かれている。

「文芸部がサークラで崩壊した後、一人で部室にいるときにずっとエロゲーをやっていたのよ」

 デスクトップ画面には、エロゲーのものらしいイラストのアイコンがずらりと並んでいた。

 桐野はアイコンの一つをクリックして、エロゲーを起動させた。

「《部室でエロゲー》と言えば、誰かが部室に来た途端にヘッドフォンの端子が抜けてしまって、大音量で喘ぎ声が流れるのが定番よね」

「そうそう」

 俺は笑って頷いた。

 桐野は《回想》機能から、モザイクのかかった場面を選択した。エロゲーでは、濡れ場がこうして後から個別に再生できるようになっている。

「なら、それをやりましょうか」

「いいね!」

 幸い、夏休みで校内に人はいない。

 桐野はボタンを押して再生した。

 男性声優の野太い声が響いた。

《んほおお! 濃い精液出ちゃう! うどんの麺みたいの出りゅうう!》

 俺はその場に突っ伏した。

 貞操観念の男女で逆転した世界におけるエロゲーならば、ヒロインには声優が就かず、男性キャラクターのみアフレコが録音されているということは予想して然るべきだった。が、思い至らなかった。

「あら、恥ずかしかった?」

「これで恥ずかしがるのは制作者だけだと思う」

 どこか嬉しそうな桐野に、俺は無感動に言った。

「ユーザーにとってはこれでもエロいのよ。ただ、少しガラパゴス化が進んでしまっただけなの」

 桐野は弁解するように言った。

「エッチシーンはダメね。なら、順当に最初からプレイしましょうか」

 マウスをクリックし、《最初からはじめる》を選択する。

 冒頭はヒロインが自室で目覚めるところだった。制服や登校といった単語から、学園モノのエロゲーであることがわかる。

 攻略キャラらしい男子が、ヒロインの部屋に入ってくる。モノローグによると幼馴染らしい。

《おい、早く起きないと遅刻するぞ!》

 男子がヒロインの布団を剥ぐ。

 布団がめくれてヒロインが着けていた夜用の生理用ナプキンを目撃する。

《うわ、朝から何てものを見せやがる!》

 ヒロインをド突く。

「ちょっと待て!」

 俺はツッコんだ。

「なんでプレイして早々に人格異常者が出てくるんだ? あ、そうか。これはいわゆる電波ゲーなんだ」

「違うわよ」

「なら、なんで寝ている異性の部屋に侵入して、人の生理現象を見て怒る場面があるんだ。誰かこの住宅街に救急車を呼んでくれ! 黄色いやつ!」

「これが萌えよ」

 桐野は見得を切った。

「これがダメならばもう後はないけれど、その代わり、確実にお勧めできるわ。万人の感動できる名作。《泣きゲー》よ」

 自信満々に言う。

 《泣きゲー》だというエロゲーをプレイして半時間ほど、メインの攻略キャラらしい、目の大きい少年のキャラクターが画面で喋っていた。

《はうはう。アンパンうまうまなのです》

 俺は桐野からマウスを借り、画面の幾つかの箇所をクリックした。首を捻る。

 桐野が尋ねる。

「どうしたの?」

「おかしいな。《殴る》コマンドがない」

「そんなコマンドがあったらソフ倫の審査を通るはずがないでしょう!?」

「けど、このキャラクターが喋るたびに殴りたくなる。本当はこのキャラクターを殴りたくなるのを我慢するたびに百円貯金するゲームなんじゃないか。ゲームが終わるころには大金持ちだ」

 桐野は無言で画面をクリックした。

《はうはう。アンパン、地面に落としちゃったのです。えーんえーんなのです》

 俺はそばにあった空き缶に百円を入れた。チャリンと涼しげな音がする。

「勝手にゲームの目的を変えないでちょうだい!」

 桐野が必死に言う。

「それに違うゲームがしたいのなら、このゲームに野球のミニゲームが収録されているわ」

「それって、ドット化したこのキャラクターをバットで吹っ飛ばしていく横スクロールゲームか?」

「それは野球ではないわ」

 桐野はノートパソコンを閉じた。

 二人で帰り支度をする。

 スマホに通知があった。LINEのメッセージだ。

 校舎を出たとき、俺は桐野を呼びとめた。

「黒川の家って、俺の家から近いらしいんだ」

「それで?」

 一人で後輩の女子の家に行って桐野に誤解されたくないと言えばいいのだが、なぜか言葉尻が曖昧になった。

「だから見舞いにいこうと思うんだけど、一緒にいかないか。男一人だけだと何だし…」

「誘うなら、せめてお見舞いにいっていいか確認してからにしなさい」

 そう言いつつ、桐野は嬉しそうだった。


 大宮駅で降りる。黒川の自宅は大宮公園にほど近い中層のマンションだった。

 家族が留守らしく、黒川が自分で玄関を開けた。

 黒川はパジャマだった。襟元から細い鎖骨がのぞき、白い肌が見えている。つい赤面する。だが貞操観念の逆転しているこの世界では、女性が寝衣を晒すことに抵抗はないようだった。

 桐野は前髪を指で弾いた。

「草鹿くん一人でなくて残念だったわね。男の先輩がお見舞いにきてくれるというAVのような状況ではなくなったわ」

「AVに例える必要ないじゃろ」

「これで先輩が彼氏とお見舞いにきたら、先輩の彼氏が見えないところで手マンしてくれたという企画モノAVのような状況しかなくなったわ!」

「強引に喩えずともよい!」

 黒川の自室に上がる。マニエリスム風の部屋を想像したが、書斎机にベッド、衣装棚、本棚だけのよく整理された部屋だった。本棚にゴスロリのワンピースが吊るされていて、そこだけ異彩を放っている。女子の部屋にあがって緊張した。

 桐野が書斎机に目を留めた。

「あら。あなた絵を描くのね」

 卓上にはパソコンと液晶タブレットがあった。スキャナーと画材を収めた小棚がある。手描きもするらしい。鉛筆に限っても芯の種類だけでなく、ステッドラーにユニ、ハイユニ、ファーバーカステルと各社のものがあった。

「アナログとはサブカルの黒川さんらしいわね。けれど前時代的だわ。私は同人CG集はアニメ塗りが一番オナネタになると思っているのよ」

「聞いとらんわ」

 俺は本棚を見た。

「けっこう読書家だな」

 書棚にはハードカバーの本が並んでいる。『存在と時間』や『純粋理性批判』といった哲学書もあった。

 桐野はスマホで写真を撮った。

「《後輩の家にきたら本棚がサブカルすぎてワロタww》というコメントを付けてツイッターにアップしてあげましょう」

「汝れらは何をしにきたんじゃ!」

 いい加減に黒川がキレた。

「ごめんなさい。けどここにくる途中、色々と用意してきたのよ。病院と変わらない手厚い看護を約束するわ」

 桐野が謝罪する。

「まずは休息のために冷えピタ」

「ふむ」

「栄養のために桃缶」

「ほう」

「そして性欲処理よ」

「それはAVの病院じゃろ!」

 黒川が怒鳴る。

「急なことで看護師の制服は用意できなかったの。代わりに医療用のゴム手袋を持ってきたわ」

「余計マニアックになっているではないか!」

 黒川は荒い呼吸をした。

「もうよい。汝れらの相手をしているとかえって疲れるわ」

 ベッドに潜りこむ。

「フォークをとってくるわ。台所はどこかしら」

 黒川が場所を教える。

 台所に向かった桐野を俺はじっと見ていた。

 扉が閉まった後、黒川は尋ねた。

「我れは汝れにだけ住所を教えたつもりだったのじゃが。桐野は汝れが連れてきたのか?」

 下校するとき、黒川からLINEのメッセージが来た。住所が記されていて、見舞いに来てほしいということが書かれていた。

「まあな」

 ふーん、と黒川は無関心そうに言った。


「好きなら好きって、さっさと言ったらいいんじゃないですか。先輩」


 どこからか少女の声が聞こえてきて、俺は困惑した。その声がベッドの上の黒川が発したものだと気付いたとき、俺は絶叫した。

「喋ったァー!」

「うるさい。我れはもともと喋っているであろうが」

 黒川は元の口調に戻り、不機嫌そうに言った。

「この機会に汝れが一人で見舞いにくるようなら、我れにもまだチャンスがあったのじゃが。それももう諦めたわ」

 俺は言いがたい気持ちになった。

「よい。気にするでない。もともと高校で恋人をつくることは諦めておる。自分で積極的に行動せねば、恋人ができないことくらいわかっているつもりじゃ。まあ、誰か見知らぬ男に告白されたりはしないかと、都合のいい妄想はするのじゃがな」

 黒川は言葉を切った。

「恋人をつくろうとするのは億劫だし気恥ずかしい。ここのところは例外じゃったが、それももう終いじゃ」

 風変りなところはあるが、黒川のような美少女から好意を持たれていたということが信じられなかった。

「黒川なら俺じゃなくても、きっといい人が見つかるよ」

 自分が後輩をフる女の先輩のようなことを言っていると気付き、失言を自覚した。だが、黒川はとくに気にしないようだった。

「別に構わぬ。後腐れのなくなる汝れの卒業直前に、処女を捨てさせてもらうつもりじゃしの。土下座でもすれば一発じゃろ」

「勝手な計画を立てるな!」

 思わずツッコむ。

「そのためには汝れが童貞であってもらっては困るのじゃ。せいぜい桐野と不純異性交遊するがよい。やつも汝れのことが好きであろうぞ」

 そう言って、黒川は壁に向けて寝返りを打った。それで表情は見えなくなった。

 しばらくして桐野が部屋に戻ってきた。

「あなたの言う台所の位置、間違っていたわよ。お陰で迷ってしまったわ」

 黒川はベッドで上体を起こした。桐野に顔を向ける。

「桐野。高麗洵と連絡をとれるかもしれんぞ」

「どういうこと?」

「我れも同人作家の一端でな。他の同人作家とも、合同誌に寄稿するくらいには交流がある。そこで情報収集してみたんじゃ。そうしたら知人が高麗洵と接触したらしいことがわかったのじゃ」

「どうして伝聞調なのよ。確かめればいいでしょう」

「イベントの打ち上げはいくつものグループが同じ居酒屋を利用することになる。知人は打ち上げで高麗洵の名前が呼ばれているのを聞いたそうじゃ。しかし、そのときは関心もなかったから顔も見なかったそうじゃ。じゃが、高麗洵がいたグループはわかる。ただ、そのグループは成人向けサークルの集まりでな。我れや知人とは面識がない」

 俺は言った。

「個人情報だから、直接聞かないと警戒されるだけだろうな」

「それは問題ない。そのコミュニティのサークル主が夏コミのコス売り子(コスプレでする売り子)を募集しておる。売り子をすれば打ち上げには参加できる。打ち上げもおそらく同じメンバーじゃ。ダメ元らしいから先約が決まることもなかろう」

 黒川に尋ねる。

「でも黒川。桐野でもいいけど、コスプレの経験なんかあるのか?」

 桐野は怪訝そうに言った。

「何を言っているの。女子高生がコスプレなんかしても気持ち悪いだけでしょう。あなたがコスプレするのよ」

 黒川も真顔で頷いた。

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