17 群青の空を越えて
夏休みに入り、俺と桐野、伊月の三人はあらためて文芸部に集合した。
部室の鍵は部活動の名目で職員室から貸出ししている。
伊月もテニス部の活動で登校しているので都合がいい。
貞操観念が男女で逆転した世界に転生したということを、俺は二人にあらためて説明した。そして、『あなオタ(あなたを脱童貞させてあげるから、私をオタサーの姫にしなさい!)』がその経験を借用していることもだ。
「だから、『あなオタ』の作者に会うのに協力してほしい」
桐野は胡乱そうだった。
「正直、世界を転移したというのはメルヘン… メンヘラにしか聞こえないけど」
「言い直す必要あったか?」
「けど、『あなオタ』が草鹿くんの経験を参考にしていることは事実のようだわ。舞台が埼玉で、たしかに西武高校をモデルにしているのではないかと思ったわ。そのときは単に偶然としか思わなかったけれど。言われてみれば、たしかにこのストーリーは私たちを取材したものだわ」
俺は頷いた。
「ああ。この小説は俺の経験をなぞっているから、お前の知らないこともある。それもあって気付かなかったんだろうな」
「というか、このラノベが本当に草鹿くんをモデルにしているなら、やっぱり黒川さんと二人で会っていたんじゃない! この! この!」
桐野は応接机の下で俺の足を踏んだ。
「痛い! やめろ!」
伊月は不審そうだった。
「その話が本当なら、作者は草鹿なのが一番ありうると思うけど」
桐野が否定する。
「いえ、それはないわ。わざわざ『あなオタ』が自分の体験を元にしたことを指摘しておいて、作者であることを否認するのは矛盾しているわ」
「ってことは、草鹿のストーカーがいるってことか。放っておけないね」
伊月は頷いた。
桐野が不満そうに言う。
「それより、どうして伊月さんまでいるのかしら」
「行きがかりだ。伊月も当事者だしな」
桐野は考えこむようにした。
「あなたの言っていることはよくわからないのだけど、伊月さんに早く帰ってもらうためにも作者探しに協力するわ」
しつこい抵抗に、さすがに閉口した。
「どうしてそんな伊月を毛嫌いするんだ」
桐野は目を剥いた。
「だってリア充よ! オタクと男子が二人でいるところにリア充が現れたら、男子が寝取られるものと相場が決まっているじゃない。私は同人CG集で知って詳しいのよ! そのうちあなたのスマホから着信があって、草鹿くんがピースしながら伊月さんに犯されてるところのハメ撮り写真が届くのよ! それを見ながら私はひとり虚しくティッシュの山を築くのだわ!」
「伊月がゲスすぎるだろ」
戦慄する桐野に白い眼を向ける。
伊月は軽く肩をすくめた。
「もし、そうしたらどうするの?」
「学校裏サイトに二人の悪口を書きこむわ」
「やることが陰湿すぎる」
俺はドン引きした。
俺たちはソファーの両側に俺と女子二人で別れて座っていたが、伊月が俺の側に移動した。俺の肩に手を回す。
「作戦会議をしよっか」
桐野は悲鳴をあげた。
「ヒッ。寝取られCG集で見た構図だわ! ヒロインの目の前で男子がビッチとイチャついている。肛門にピンクローターとか入れられているのよ!」
「人の肛門で勝手な妄想をするな!」
「草鹿くんも伊月さんから離れて頂戴。私はNTRではオナニーできないのよ!」
「人のことをオナネタとしてしか見ていないのか…?」
桐野がハッと気づいた顔をした。
「伊月さん、あなた武蔵浦和にいたわね。もしかして武蔵浦和在住なんじゃない?」
「そうだけど」
伊月は事もなげに答えた。
桐野は指を突きつける。
「草鹿くん、伊月さんは旧浦和市民よ!」
伊月に微笑みかける。
「残念だったわね。私と草鹿くんは旧大宮市民。旧大宮市と旧浦和市は例えるなら会津と薩摩、イギリスとフランス。決して相容れることはないわ! あなたたちの間にはドーヴァー海峡より深い溝があるのよ!」
「市区町村以下の字(あざ)で何を大袈裟な」
伊月は呆れた顔をした。
「何てことだ…」
俺は震えた。
「草鹿…?」
「まさか伊月が旧浦和市民だったなんて。これほどの裏切りに遭ったのは生まれて初めてだ」
俺は桐野の側のソファーに移動した。
「なッ」
伊月は激昂した。
「この旧大宮市民ども! 旧大宮市なんて鉄道博物館くらいしかないくせに! 県庁所在地を有する旧浦和市を差別するつもり!?」
俺と桐野は肩を寄せあって震えた。
「助けてくれ! 旧浦和市民が本性を露わにした!」
「負けては駄目よ、草鹿くん。こちらには新幹線の停車する大宮駅があるのだから!」
「埼玉県庁の最寄りは浦和駅だよ!」
「東北本線しか乗り入れない駅の住民が何か言っているわ」
醜い罵り合いが続く。
先に争いを止めたのは伊月だった。
「待って。草鹿のストーカーを見付けるのが先決でしょ? 仲間割れはよそう。元はといえば、草鹿を巡って喧嘩がはじまったんだよね」
「そうね」
伊月は提案した。
「間をとって3Pにしよう」
桐野は考えこんだ。
「童貞を譲ってくれるならいいわ」
「あたしは童貞に興味ないからいいよ」
「同盟成立だわ」
桐野と伊月はハイタッチした。
「人の体を勝手に分配するな…!」
俺だけが慄然としていた。
『あなオタ』作者の名前は高麗洵(こうらい じゅん)だ。
GA文庫のカバーの折り返しに筆名と一言コメントが書かれている。
《一七歳なので、レンタルビデオ店の一八歳未満立入禁止のコーナーに入れないのが悩みです。何があるんだろ?》
微妙にイラっとするコメントだ。
生年月日や住所など、簡単なプロフィールを載せている作者もいるが、『あなオタ』の作者は違うようだ。
作者の下に、イラストレーターの氏名と一言コメントもあるが、それは関係ない。
桐野は言った。
「草鹿くんは文芸部に高麗洵がいると考えているのね。それで黒川さんでなく伊月さんに協力を求めた」
俺は頷いた。
「俺も黒川が人のことを勝手に小説に書くようなやつとは思えない。だが、高麗洵は文芸部の関係者でしかありえない。それに、『あなオタ』には黒川と大宮に行ったときのことをモデルにしたらしいエピソードがある。これは俺か黒川を家から尾行していなくては知りえないはずだ。だが、高麗洵がそこまでしているとは思えない」
「それで黒川さんが高麗洵ではないかと考えたのね」
桐野は真剣に尋ねた。
「一つだけ訊かせて頂戴。どうして私が高麗洵ではないと判断したの?」
桐野に小説を書くだけの知能がなさそうだからとは言えなかった。
「もちろん、お前を信じているからだよ」
「草鹿くん…!」
桐野は感動していた。
「私に任せて頂戴。推理力には自信があるのよ。なぜなら『この中に1人、弟がいる!』を愛読しているもの」
桐野はまったく根拠のない自信を披露した。
「まず、『あなオタ』の出来事の当事者でも六条先輩は候補から除外できるわ。六条先輩は常用漢字の読み方がわからなかったそうだもの。小説を書くのは難しいわ。『私の弟は漢字が読める』の逆ね」
「弟、大活躍だな」
桐野は指を突きつけた。
「とすると、残るのは黒川さんだわ。草鹿くん、黒川さんを詰問しなさい。安心なさい。黒川さんはSNSに《男はクソ》とか書いておきながら、実際に男と話すとすぐ赤くなってキョドキョドしてしまうタイプよ。草鹿くんが詰問すればすぐ白状するわ」
「さすが。オタクだけあって、オタクの心理をよくわかってるね」
伊月が悪気なく言った。桐野は沈黙した。
黒川を文芸部に呼び出す。事情を話すと、黒川は頷いた。
「貞操観念の逆転と言ったか。草鹿の言っておることは、要するに社会通念への違和感の比喩じゃろう」
頭の回転の速い黒川は、より合理的に解釈したようだった。
「その話だと、どうやら我れが高麗洵として疑われておるようじゃの。しかし、疑いを晴らすのは簡単じゃ」
「どうするんだ?」
黒川に尋ねる。
「簡単なことじゃ。我れと汝れらでGA文庫編集部に行けばよい。我れが高麗洵なら、社員の誰かが気付くじゃろう」
「いえ。その必要はないわ。その発案をしただけで、もう黒川さんが高麗洵でないことは確実だわ」
黒川は「後でその『あなオタ』とやらを貸してくれ」と言った。
桐野は考えこんだ。
「けど、高麗洵の候補がいなくなったわ。これで容疑は西武高校の生徒、教職員全体に広がったわ。この中から一人を探すのは大変よ」
「なら、高麗洵本人の方から探せばいいじゃん。出版社に事情を話せば教えてくれるんじゃない?」
伊月の提案に、桐野は首を振った。
「それは下策だわ。出版された小説が自分をモデルにしてるなんて男子高生が主張したら、メンヘラ… いえ、頭がメルヘンな人だと思われてしまうわ」
「言いかけたなら訂正しなくていいから。余計、痛々しい表現になってるだろ!」
「事情を話すわけにはいかんの。しかし、下手な嘘をつくと破綻するぞ」
黒川の言に、桐野は頷いた。
「正直に、高校生の身分で電話しましょう」
桐野は俺に言った。
「草鹿くん、あなたが電話しなさい。男子高生のファンの方が電話した方が作者や編集者も喜ぶはずよ」
「え。それなら女子高生の方がいいんじゃないか?」
言葉を返すと、桐野は怪訝そうな顔をした。
「女子高生が媚びを売っても気持ち悪いだけでしょう? どうせラノベの作者なんて三〇歳過ぎて処女のオタクのオバサンよ。ついでにプリクラを貼ったファンレター、自撮りを添付したメールも送りましょう」
「それじゃ出会い系のスパムメールだ」
俺は呆れた。
伊月が二人を制する。
「待って。ファンだって理由で連絡先を教えてくれるなら、普通のファンを装った方がいいよ。それこそ詐欺を警戒されかねない」
桐野は頷いた。
「それなら私に考えがあるわ」
桐野はGA文庫編集部の連絡先に電話した。
「私、埼玉県立西武高校文芸部の桐野霞と申します。ただいまお時間よろしいでしょうか。はい、私たち西武高校文芸部は学園祭で部誌を発行しているのですが、そこに『あなたを脱童貞させてあげるから、私をオタサーの姫にしなさい!』作者の高麗洵先生のインタビューを掲載させていただきたく、お電話差し上げました。…はい。いえ、こちらこそお手数をおかけして申し訳ありませんでした」
桐野は電話を切った。
俺たちに向けて首を振る。
「駄目だったわ。高麗洵は一切のプロフィールを非公開にして、取材も受け付けないそうよ」
「これで線は切れたな」
俺が言う。
「いえ。まだ釣り糸を垂らすことができるわ。高麗洵は草鹿くんを監視しているのでしょう? 私たちで小説に書きたくなるようなことをして、高麗洵が監視に夢中になっている間に見付ければいいのよ」
桐野は意味ありげに微笑した。
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