15 処女(おとめ)はお姉さま(ボク)に恋してる


   ***


 桐野霞は荒くなる鼻息をおさえていた。

 動悸を落ち着けようと、胸を撫で下ろす。

 同じ部活の男子である草鹿創平を家に誘ったら、何らの逡巡もなく応諾した。その上、両親の帰りが遅くなる明日がいいと言ったところ、それにも賛成した。

 草鹿は今年度に入り、なぜか文芸部に復帰した幽霊部員だ。それにより、放課後は二人で部室で過ごすことになった。草鹿は女性である自分に対し、なぜか引いた様子がない。そのため自然と距離が近くなった。おまけに、どうやら彼女もいないらしい。元より近しい異性のいない桐野はよく胸を動悸させていた。

 ついに処女を卒業するときがきた。そう思い、感慨に耽った。

 この期待と興奮は、喩えるのなら、エロ本を普通の書籍で目隠しして買い、帰宅するときの足が速まる感覚に似ている。あるいは、スマートフォンでワンクリック詐欺を警戒しつつ、アダルトサイトに辿り着いたときの達成感だ。

 ウェブ上のアンケートによると、二〇歳の性交未経験の割合は女性が四〇パーセントだ。ならば、性交経験のないことが一般的になりそうだが、かえって二〇歳までに性交することが義務のように語られている。

 ちなみに、男性の場合は二五パーセントで、桐野は一五パーセントの重複に相当する女性に憎悪と敵愾心を抱いていた。

 もっとも、桐野はいまだ一六歳であり、明日処女を卒業すれば四〇パーセントの側を憫笑をもって扱うであろうことは、自分で想像に難くなかった。

 桐野は自宅近くのコンビニに寄った。その顔はニヤけている。コンドームを買うためだ。

 ドヤ顔でコンドームをレジに出す。

 店員の顔は怯えていた。そのことに自負心を覚える。もっとも、店員が怯えていたのはドヤ顔でコンドームを買う高校生に引いていたからだったが、桐野にそのことを知るよしはなかった。


 自室に立ち、桐野は室内を睥睨した。

 二階建て一軒家の角部屋。床はフローリングだ。窓際に、化粧板の机とパソコンラック。パソコンラックは、ウィンドウズのデスクトップが置かれ、棚板にはフィギュアがゴテゴテと載せられている。窓に面した壁際にベッド。反対側の壁際に書棚があり、漫画がぎっしりと詰められている。一段はエロゲーのパッケージに当てられている。さらに、二つ折りの冊子が大量に収納されている。いわゆる同人誌だ。やはり本棚にもフィギュアが陳列されている。液晶テレビの載ったテレビ台に、数台のゲーム機が収められている。

 部屋の中央には座卓があり、仕舞い忘れた漫画が積み重なっている。

 壁の空間はアニメキャラのタペストリーが下げられていた。

 完全なオタ部屋だった。

 異性を上げる部屋ではない。が、草鹿もオタクなのでその点は気にする必要がない。ただ室内を一通り清掃するだけでいい。

 机の上に、戦利品のように堂々と三種類の〈iroha〉が並べられているのを見て、さすがにこれは隠した方がいいな、と思う。〈iroha〉は女性用オナニーグッズの有名なブランドだ。クローゼットにぶち込む。

 そこで、ハッと気づいた。

 明日、草鹿とセックスにもつれ込むための流れを準備しておかなければならない。部屋にアダルトグッズの一つもあれば、そのための話題の誘導ができる。

 しかし〈iroha〉では露骨すぎる。もっとさり気ないものがいい。

 桐野はクローゼットから電動マッサージ機を取り出す。

 性に貪欲で(今より)バカだった中学生時代、小遣いを貯めて買ったものだ。実際はさほど気持ちよくないため、何回か使っただけでお蔵入りしてしまった。

 これなら室内にあっても違和感はない。

 これを放置しておき、草鹿が見つけたところで仕舞い忘れたように照れれば、自然と雰囲気をいかがわしいものにすることができる。

 コンドームを机の引出しに仕舞う。

 桐野は自分の計画に笑いを堪えきれなかった。


   ***


 放課後、俺は桐野に連れられて自宅に向かった。

 桐野の自宅は俺と同方向で、大宮駅で川越線に乗り換えて二駅の西大宮だった。俺の自宅は大宮のマンションだ。

 西大宮駅を囲むようにして住宅街が存在する。そこから三〇分も歩けば田畑が広がっている。

 ちなみにここは首都圏だ。首都圏には当然、埼玉県の全域が入る。断じて田舎ではない。

 俺たちは両側が田んぼの畦道をテクテクと歩いていた。

「知ってる? 北辰テストって埼玉だけらしいわよ」

「嘘だろ…!?」

 無駄話をしているうちに桐野邸に着く。

 桐野邸は田地にあり、間隔を置いて並ぶ住宅の一軒だった。

「今日は両親の帰りが遅いって言ってたけど」

「父はいつも遅いの。母は在宅勤務だけど、今日から取材旅行なのよ」

「取材旅行ってことは小説家なんだ」

「ええ」

 桐野は事もなげに頷いた。

「俺でも知ってる?」

「駅の売店やコンビニに置いてあるわ」

「すごい売れっ子じゃないか!」

「官能小説よ」

「ああ…」

 桐野は鍵を開けた。

 「お邪魔します」と断って家に上がる。

 家内には気配があり、リビングで旅装の中年女性がスーツケースに荷物を詰めていた。

「お母さま。〈お友達〉を連れてきたわ」

 桐野は〈お友達〉に強勢を置いて発音した。暗に恋人だと匂わせるためだ。

 その見栄が如実に感じられ、俺は悲しい気分になった。

 桐野母は挨拶した。

「あら。慌ただしくてごめんなさいね」

「いえ。こちらこそお邪魔してすみません」

 桐野が俺に言う。

「母はもう少しで出かけるみたいだから、部屋で待っていて」

 オタ部屋の座卓に座らせる。

 妹を除き、女子の部屋に入るのは人生で初めてだ。あまりジロジロ見ないように注意する。

「飲み物をとってくるわ。ベッドの下に隠したエロ本でも読んで待っていて頂戴」

「人に家探しを勧めないでくれ」

 桐野は部屋を出ていった。

 しばらくして、ノックの音をさせて、桐野母がドアをわずかに開けた。

「あの子はいないの? ごめんなさい。そこらへんにマッサージ器がないかしら。職業病で肩コリが酷いのよ。旅行先に持っていくつもりだったのだけど、見つからないの」

 俺は本棚に載せられている電動マッサージ器を見つけた。

「これですか?」

「あら。こんなのがあったの」

 桐野母は肩にマッサージ器を当てた。

 ヴィーン。

「いやあー!」

 廊下の先で、お盆とグラスを手にした桐野が絶叫した。

「それはダメえー!」

「な・ん・で・ダ・メ・な・の・よ」

 桐野母は顎にマッサージ器を当て、声を震動させて言った。

 マッサージ器がすべり、口に当たる。

「痛ッ」

 桐野は白目を剥いた。

「編集さんも最近、肩コリだって言ってたから、これ貸すわね」

 桐野は立ったまま泡を吹いた。

 肩にマッサージ器を当てつつ、桐野母は一階に下りていった。

 しばらくして、玄関の扉が閉まり、施錠する音がした。


 桐野は気をとり直した。笑いを漏らす。

「男子が私の部屋にいるなんて、まるでエロゲーみたいだわ」

 思わず可哀想なものを見る目をしてしまった。

「恋愛に関するイメージが貧困すぎる…」

「でも、背景CGがオタ部屋だから陵辱ゲーね」

「その違いがいるか?」

 桐野が母親の書斎からDVDのパッケージの束を取ってくる。

「これがSODの『真・時間が止まる腕時計』シリーズ、『時間を止められる女は実在した!』シリーズよ」

 三〇分後、テレビ画面では、コスプレした中年男性がポーズをとる中をAV女優が闊歩していた。

 俺は質問した。

「DVDを間違えてないか? これってヌーヴェルヴァーグの前衛映画だろ?」

「AVよ! ほら、セックスしているでしょう」

 桐野が画面を指す。

 画面では、全裸の中年男性が白眼を剥き、複雑なポーズをとって固まっていた。明らかに無理のある姿勢でAV女優が交合している。

「ATG(アート・シアター・ギルド)のプログラム・ピクチャーかな」

 桐野は歯噛みした。

「クッ、時間停止AVの良さはわかってもらえなかったようね。次はコスプレAVと催眠AVよ」

「へー。どんなカウンターカルチャーなんだ?」

「ポルノよ! アダルトビデオよ!」

 桐野は必死に叫ぶ。

「それにしても、どうしてさっきからAVに出てくる男優が学ランばっかりなんだ。応援団みたいだ」

「制服姿の同級生とセックスしたい。学ランはそういう失われた青春の夢なのよ」

「高校生には見えないけど」

 素朴な感想を言うと、桐野は歯ぎしりをした。

「それはわかっていても言わないお約束なのよ。それに、最近のAV男優は昔に比べてすごくレベルが高くなっているのよ。そもそも、一八歳未満がAVに出演していたら、諸々の法律に違反するでしょう」

「一八歳未満の淫行を法律で規制しているのに、AVに出てくるのは学生服ばかりか。不可解だ」

「AVに出てくる役柄は〈男子校生〉なの。〈男子高生〉ではないのよ」

 桐野は空中に字を書いて言った。

「それに、さっきから気になってたんだけど」

「何かしら」

「どうして劇中で一回、短パンに着替えるんだ?」

 桐野は目を見開いた。

「エロいじゃない! あなたには体操服の魅力がわからないの?」

 画面では、体操服に着替えたAV男優たちが、短パンから脛毛の生えた足をのぞかせていた。

 俺は頭を抱えた。


   ***


 草鹿を自宅に招いてしばらくしたころから、桐野はそわそわしていた。

 腰に手を回そうとしては、躊躇してやめる。

 内心では葛藤していた。自宅にAV鑑賞に来たということは、事実上、体の関係を許したと見ていいだろう。しかし、体の関係を求めて断られれば気まずくなる。加えて、積極的な行動にでなければ、現状維持は保証される。桐野に男女交際の経験がまったくないことが、疑心暗鬼を強めていた。

 草鹿はAVを見て笑い転げていた。

 意を決し、肩に腕を回す。

「ね、シない?」

「え?」

 草鹿は不思議そうな顔をした。

 わからないふりで誘いを躱そうとしているのか、とにかく、文の指示対象を明確にする必要があった。桐野はあらためて言った。

「私とセックスしませんか」

 緊張のために語尾が敬体になっていた。

 リモコンを操作して、テレビを消す。

 草鹿は黙考していた。

「やめとこう」

 桐野は絶句した。それでも食い下がる。拒否された理由を知るためというより、いまだ残るセックスへの期待のためだった。

「私のことが嫌い?」

「まさか」草鹿は言下に否定した。「それだけはない。お前はこの世界での、俺の数少ない友人だよ」

 桐野にとっていまひとつ意味不明な文言だったが、それでも好意を持っているだろうことは感じられ、漠然とした喜びが広がった。

「ただ、恋愛感情という意味で好きなのかはまだわからない。でも、セックスについてだったら、俺もお前とセックスしたいよ。知りたいのはこっちのことじゃないのか?」

 『セックスしたい』という言葉に桐野は髪が逆立つように感じた。

「なら、どうしてよ!」

「俺はお前の人格を傷つけたくないんだ」

 草鹿は静かに言った。

 桐野は混乱した。

「あなたのではなくて? 何を言っているのかわからないわ。意味がわからないわ」

 桐野にとって、男子、とくに童貞がセックスしたら名誉を失うという論理は理解できる。だが、草鹿が言っているのはそれと真逆のことだった。

 草鹿は一語ずつ区切るように話した。

「お前はもしかしたら俺に恋愛感情をもっているのかもしれない。そうだったら嬉しい。でも、少なくとも今、お前が俺とセックスしたがるのはただの性欲で、自由意志じゃないだろ。お前だって処女でなくなるんだぞ。時と条件によっては大事にされるものだ。それを性欲だけで捨てるのはおかしいと思うんだ」

 桐野は憤然とした。

「別に性欲で行動したって、それで個人の満足が得られるのならいいじゃない。処女でいてまで名誉なんて欲しくないわ。草鹿くん。さっきから、あなたの言っていることはおかしいわよ」

 草鹿は桐野の目を正面から見た。

 思わず桐野は怯んだ。

 草鹿は真剣な語調で言った。

「これはこの世界で俺だけがわかっていることなんだ。お前が理解できなくても無理はない。けど、本当はこの世界の誰もがわかっていなくちゃいけないことなんだ。もし、俺がこの世界に来たことに理由があるなら、それを人に伝えるためだと思う」

 そう言い終わると、草鹿は気まずそうに視線を逸らせた。

 しばらく、二人は無言で時間を過ごした。

「帰るよ」

 やがて、草鹿は一言だけそう言って、桐野の家を辞去した。


   ***

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