13 虹を見つけたら教えて。

 六条先輩は《処女》と書かれた札を首から下げていた。

 桐野は意気揚々と説明していた。

「モテるために避けなければならないのは、性欲を剥きだしにしていることよ。体目当てということは、それ以外の価値は見出していないということになるわ。それは相手を侮辱することよ。六条先輩は、まずそのガツガツした姿勢を改めなければならないわ」

 六条先輩は札をとり上げた。

「それでこの札を下げるわけだな」

「いや、おかしいだろ」

 桐野は俺を無視して続けた。

「そうよ。ガツガツしていないことをアピールする必要があるわ。六条先輩はまずバイト先の男性全員に《高校を卒業したら修道院に入って一生、貞潔を貫くつもりだから近づかないでほしい》と宣言してきなさい。これでモテること間違いなしよ」

 六条先輩は力強く頷いた。

「アンタの話を聞いてたら、マジでモテるような気がしてきたわ」

「逆に男が離れていくと思うけど」

 桐野は部室を使い、六条先輩にモテ方の指導を施していた。それも二日目だ。俺と黒川は呆れて二人を見ていた。

「外見に気を遣うのはモテの前提条件よ。体操着は用意してきた? 運動してスタイルを整えるわよ」

 桐野は自信満々に言った。


 桐野はグラウンドで六条先輩を走らせていた。

 六条先輩はアウトドア派だがスポーツをしないので運動は下手だ。走るのも内股になり、腰が引けていた。顎が上がっている。

 桐野は熱血コーチのように腕組みし、六条先輩に叱責を浴びせていた。

「六条先輩、ペースが落ちているわよ!」

 傍らの草鹿に言う。

「見事なオタク走りね。普段、オタクをバカにしておいてあの様よ。小気味いいわ」

 体操着で輪郭のはっきりした六条先輩の胸が揺れていて、俺はすこし赤面した。

「どうしたの? 赤くなって」

「いや、胸が…」

「はあ? 草鹿くんはあんなのがいいの?」

 桐野の声は純粋に怪訝そうだった。この世界では女性に性欲が向くことが少ないため、巨乳や巨尻も限られたフェティシズムなのだろう。

 六条先輩に大声を発する。

「足が下がってきているわよ! ワン・ツー、ワン・ツー!」

 爽快そうに笑う。

「ギャルが干からびているわ! 清々しいわね」

「お前、楽しんでるだろ」

 俺は非難がましい目を桐野に向けた。

「仕方ないじゃない!」

 桐野は慟哭した。

「今までオタクはギャルとヤンキーに虐げられてきたの! 排除され、嘲笑われてきたのよ! その長年の差別と迫害の歴史がわかる? これは虐げられしオタクたちの怨嗟なのよ!」

「オタクの集合無意識を個人にぶつけるなよ…」

 俺たちが騒いでいると、体操着の一団がグラウンドに来た。その中に笹木もいた。

 笹木に尋ねる。

「もしかしてこの時間、テニス部がグラウンドを使ってるのか?」

「ああ。基礎体力の練習にな」

「勝手に使ってまずかったかな」

「いいんじゃないか。グラウンドの全面を使うわけじゃないし」

 テニス部は男子テニス部と女子テニス部に分かれているが、基礎体力の練習は同日だ。女子テニス部の伊月が俺たちを見咎めた。

 伊月夏生は二年一組のクラスメイトだ。外向的な性格で、スクールカーストの上位にいる。

 明るい茶髪で、くりっとした丸い目をしている。可愛らしい顔立ちだ。体操着ごしに胸の厚みがわかる。

「グラウンドの使用予定くらい確認しておいてよ」

「ごめん」

 俺は素直に謝罪した。

 伊月は俺たちを見て嘲るような笑みを浮かべた。

「それにしても、オタクに中二病にギャルが集まって、まるで学園青春ドラマだね」

 黒川はムッとした表情を浮かべた。六条先輩は息が切れて地面に倒れている。

 桐野が得意げに応じた。

「学園青春モノのラノベは大好きだわ!」

「ラノベじゃなくてドラマ。あ、三十年くらい前に放送されてたやつね」

 桐野は沈黙した。

「グラウンドを使いたかったら連絡しておいてよね。これだから陰キャはコミュニケーションができなくて嫌なんだよ。さ、早く出ていって」

 手で追い払う仕草をする。

 桐野は大げさに嘆いた。

「追い払われてしまったわ。でも仕方がないわ。相手は陽キャでパリピのリア充たちだもの。周囲の目も気にせず大声で騒いで教室を占領する脳ミソの九九パーセントが筋肉のゴリラに、私たち陰キャが敵うはずないわ。しかも陽キャはコミュニケーション能力があって、ゴキブリみたいに際限なく仲間を集めるもの。陰キャでオタクで非リアの私たちが逆らえないのも当然だわ」

 傍らで笹木が引いていた。

「言ってくれればグラウンドくらい貸すのに」

「まあ、よほどのバカじゃなきゃこんな挑発には乗らないだろ」

 伊月は肩を震わせていた。桐野に怒鳴る。

「陰キャが調子のんなー!」

「バカだったー!」

 桐野は黒髪をかき上げた。

「では、グラウンドを賭けて勝負よ。私は二年二組の桐野霞よ」

「あたしは二年一組の伊月夏生。でも、グラウンドは元々こっちのものなんだから賭けにならないでしょ」

 伊月は俺を指さした。

「勝ったら草鹿にあたしとデートしてもらう」

 笹木が抗議する。

「そういうのは性差別だ。男を物扱いするな」

 が、女子の部員たちは歓声を上げた。

 桐野は予想外の条件に顔を引き攣らせたが、承諾した。

「いいわ。その代わり、勝負の内容はこちらで決めさせてもらうわ」

「人を賭けの対象にするなよ」

 桐野に不満を言う。とはいえ、質草になるくらいには価値を認められたことに多少の自尊心は感じた。

「おい、勝つ自信があるんじゃろうな」

 黒川も文句をつける。

 桐野はニヤッと笑った。

「勝負の種目は… 変態エピソード自慢よ!」

「こいつ、勝った方が失うものの多い勝負を選びやがった…!」

 俺は戦慄した。

 桐野は悠然としていた。

「それだけではないわ。勝つ自信があるものを選んだのよ。先攻、私! 私は中学生のとき、教室で授業中に体育をしている男子を見ながらこっそりオナニーしたことがあるわ!」

「変態だー! もう勝ちが決まったようなものだけど、まったく誇れない!」

 テニス部員たちはドン引きしていた。

 が、伊月は平然としていた。

「後攻はあたしだね。あたしは小学生のとき… 男子が使ったテニスラケットを股間に挟んでオナニーしてた! もちろんオナニーとは知らずにだけどね!」

 桐野は地面に膝を着いた。

「負けたわ… 草鹿くん、ごめんなさい」

「二人とも病院いけ」

 俺は冷たく言った。

 桐野は伊月に正体不明の友情を感じたようだった。握手を求める。伊月もそれに応じた。

「負けたわ。伊月さん」

「そっちもなかなかやるじゃん」

 伊月は爽やかな笑みを浮かべた。

「それにしても、現役のテニス部でテニスラケットをオナニーに使ってたなんて、なかなか言えるものではないわ。今後、男子は一切近づいてこなくなるでしょうね。そこを含めて私は敗北を認めたわ」

「え?」

 伊月が周囲を見回すと、部員たちは距離をとっていた。

「小学生! 小学生のときの話だから!」

 慌てて弁明するが、他の部員は聞こえないふりをしていた。


 翌日、教室で伊月が話しかけてきた。

「草鹿、どこ遊びにいく?」

「グループで?」

「草鹿がグループなら安心するって言うならグループでいいけど。あたしは二人のつもりだった」

 俺は教室を見回した。俺はインドア派のオタクでスクールカーストの下位にいる。伊月のようなスクールカーストの上位の女子に話しかけられることは、あまり経験がない。そのために緊張していた。

 近くにいた女子二人が俺たちを見て失笑したが、それ以上、関心はないようだった。

 この世界では女子が男女交際において主体的なため、女子がスクールカースト上位であれば、カーストの階層に差があっても問題ないのだろう。元の世界でスクールカースト下位の男子が上位の女子に接近すれば、秩序を正すために攻撃される。

 だが、俺の感覚はまだ元の世界のままだった。そのため抵抗があった。

「デートの約束なんて賭けの形式だろ。実際にしなくてもいいんじゃないか? 話も弾まないかもしれないし」

 俺は卑屈に言った。

「えー。せっかくの機会なんだからいいじゃん。それとも嫌なの?」

 伊月は顔を近づけた。整った顔が近づいて硬直した。

「別に嫌ってわけじゃないけど…」

「決まり。今日の放課後空いてる?」

 伊月は要領よくデートの予定を決めた。

 後になってから、あれがモテる余裕か、と俺は理解した。


 昼休み、部室にいきデートのことを報告すると、桐野は悶絶した。

「好きな男子がビッチとデートだなんて、寝取られるに決まってるわ。きっと今晩は草鹿くんのスマホからハメ撮りが送られてくるのよ。それか半年後くらいに草鹿くんのスマホを見たら、メモリにハメ撮りが大量に保存されているのを目撃することになるんだわ」

「俺はお前の何なんだよ」

 震える桐野を放置して、教室に戻る。

 俺は笹木に尋ねた。

「お前、彼女いたことあるか?」

 笹木は半笑いで答えた。

「えー、ないよ」

 俺はイラッとしつつ「いたんだな」と言った。

 笹木は真顔になった。

「いた、っていうか、彼女と言っていいのかわからないんだよな。一年のとき、三年の先輩と短い間つきあってたんだよ」

「へー」

 俺は無感動に応じた。

「でも、先輩の家にいったとき強引にキスされそうになってさ。逃げだしたら気まずくなって、そのまま自然消滅したよ。結局、先輩はエッチだけが目的だったんだな」

 こめかみを押さえる。頭痛がしていた。

「もし彼女をつくるなら?」

「まあ、すぐにエッチとか言い出さないことが条件だな。少なくとも付き合って一ヶ月はそういうことを言ってほしくない」

 馬鹿馬鹿しくなり、それ以上、聞くのをやめた。


 俺と伊月は越谷のイオンレイクタウンに遊びにいくことになった。

 学校の最寄り駅から武蔵浦和で武蔵野線に乗り換え、越谷レイクタウン駅で降りる。

「イオン最高! 県内に遊べる場所があるのっていいよな」

 イオンに着くと、思わず快哉を叫んだ。

 伊月も深く頷く。

「東京都民なんか、都内に遊べるところがないからわざわざ他県のディズニーランドにいくらしいよ。千葉県にあるのに《東京》ディズニーランドなんて言っちゃって、いじましいよね」

「俺たちは埼玉県民でよかったな」

 伊月とは家具屋や雑貨屋を冷かして過ごした。

 俺は伊月に尋ねた。

「俺といて本当に楽しいか?」

「ええ? 何か草鹿、卑屈すぎない?」

 伊月は引き気味だった。

「いや、さっきからただ駄弁るだけだからさ。何かした方がいいんじゃないかと思って」

 伊月は苦笑した。

「そういうのを気にするのって、普通は女の方じゃない? 女がデートに誘うものなんだから。そもそも、そういうのって二人の空気で決まるのであって、どっちがどうするってものじゃないでしょ」

「モテるやつは言うことが違うな…」

 元の世界に戻ったら参考にしようと思い、俺は心に銘記した。

 ペットショップにいく。ショーケースにデコレーションされたケーキが並んでいる。イヌ用のペットケーキだった。

「あたしさ、こう見えてNPOの主催してるボランティア団体に入ってるんだよね。友達にも《意識高い系》とか言われるし」

「ハハッ」

 自虐を装った自慢に、俺は冷笑で返した。

 伊月は思わしげに呟いた。

「このケーキをアフリカに持っていけば、何人の飢えた子供が救えるだろう…」

「そういうことを言うのやめろ!」

「でも、こうしている間にもアフリカでは六秒に一人、子供が死んでるんだよ?」

「お前の意識が高いのはわかったから! 店員さんがこっち見てるだろ!」

 俺は急いで伊月をその場から引き離した。呼吸を整える。

 移動した先で、商品のイヌを眺める。子犬たちが円らな目で俺たちを見ていた。

 伊月が呟く。

「このイヌたちは売れ残ったらどうなるのかな」

「まあ、殺処分されるだろうな」

 また意識の高いことを言うんだろうな、と思った。

 伊月は溜息をついた。

「そのイヌをアフリカに連れていけば、何人の飢えた子供が救えるだろう…」

「食肉換算するな!」

 俺は叫んだ。

「意識が高いなら高いでせめて動物保護のことを言えよ!」

 気付くと、店員が俺たちを睨んでいた。

 俺は伊月を連れて慌てて退店した。

「もうイオンにはいづらいな。カラオケにでもいこうか」

 伊月は笑った。

「草鹿、警戒心なさすぎ。個室で二人きりなんて、そういうことのためにいくようなもんじゃん。そういうこと言ってるとマジでヤリ捨てされるよ」

「初デートでカラオケは駄目なのか。勉強になるな…」

 俺は小声で呟いた。

 ふと気付く。伊月にとっても同じであるにも関わらず、伊月はまったく気にしていないようだ。この世界でも男女の関係は非対称的なのだろう。

 さらに考える。伊月にとってスクールカースト下位の俺と交際することは、別に不快でないらしい。スクールカーストのヒエラルキーを追認するようだが、俺は構わない。伊月はスクールカースト上位の女子で、顔も可愛い。

 一瞬だけ桐野の顔が脳裏に見えた。自分で打ち消す。

 俺は遠慮がちに言った。

「それでもカラオケにいきたいって言ったらどうする?」

「え」

 伊月の目の色が変わった。

「つまり、チューしたり、体に触ったり、それ以上のこともしていいってこと…?」

「うん」

 俺は頷いた。


 俺たちはイオンを出た。

 伊月は急に上機嫌になっていた。

「いやー、草鹿ってむっつりだったんだね! 教室ではいつも読書してるからわからなかったよ!」

 俺はこれから童貞を捨てるのだと思い、感慨を覚えていた。

 伊月は勢いづいて言った。

「女に慣れてなくても気にしなくていいよ! あたしも処女だからね!」

 伊月に男女交際の経験がないというのは意外だった。同時に、元の世界で非童貞がセックスするために童貞を装うという話を聞いたことを思い出した。また、その非童貞を憎悪していたこともだ。

 まさか、伊月もこの世界におけるその類なのか。

 俺は足を止めた。

「やっぱりカラオケにいくのはやめよう」

「え? え?」

 伊月は混乱していた。

「俺は初心を忘れていた。ヤリチン、ヤリマンは非モテの敵だ!」

 俺は断固として宣言した。

「いや、あたしだって下半身で行動してるわけじゃないけど! その気にさせておいて撤回するのはなしだよ。これじゃ生殺しじゃん! ていうかヤリマンって何? あたし本当に処女なんだけど!」

 伊月は俺にとりすがった。

 俺は礼儀正しく言った。

「今日はデートに誘ってくれてありがとう。でも、ほぼ初対面で肉体関係を持つのは不健全だと思うんだ。この辺で帰ろう。また明日学校で」

「ちょっと!? ちょーッ!」

 悲鳴を上げる伊月を残し、俺は駅に向かった。

 帰宅するとLINEに伊月から大量のメッセージが来ていた。俺はデートのお礼を送信し、スマホの電源をオフにした。


 翌日、文芸部で俺はデートのことを報告した。

「それで、どうだったの?」

 桐野は平静を保っていたが、どこか不安そうだった。黒川も落ち着かなさそうにしている。

 俺は力をこめて言った。

「やっぱり桐野の言うことが正しかったよ。オタクはリア充に対して団結して戦わなければならない。そのことをあらためて認識した」

「そのとおりよ」

 桐野は実感をこめて返事した。同時に、伊月との間に何もおこらなかったことを察して安堵したようだ。

 俺は部室を見回した。

「そういえば、六条先輩はどうしたんだ?」

「ああ。彼女は…」

 桐野が退屈そうに言ったとき、扉が開いた。

「桐野。ダメ元で依頼してみたが、本当にやってくれるとはな。見直したぞ」

 木島先生が立っていた。表情に敬意があらわれている。

「六条が急に学業にやる気を見せてな。職員室に質問に来ていたぞ。漢字の読み方だがな」

「はじめはそんなものでしょう」

 桐野は事もなげに言った。

「数学の質問だったのだが… とにかく、これでまた私の評価も上がった。感謝する」

 俺は桐野に囁いた。

「一体、何をしたんだ?」

「《有名大学に入れば男子大生を喰い放題》と言ったのよ。いい加減、からかうのも飽きてきていたし」

 木島先生は二人の会話が聞こえておらず、話を続けた。

「学業だけではない。昨日、テニス部に入部してな。これで生活態度も改善されそうだ」

 桐野はいやらしく笑った。

「スタイル改善のために運動することを勧めたのよ。これで厄介払いができたわ。ついでにお荷物を押しつけて、女子テニス部にささやかな復讐をすることもできたしね」

 俺は戦慄した。

「桐野… その頭脳を別のところに活かせば、もっと有意義ことができるんじゃないか」

「褒めてもらって光栄だわ」

 桐野は黒髪をかき上げた。

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