03 書淫、或いは失われた夢の物語。

 一日の授業を終え、ドッと疲れを感じた。

 電車に乗り、空いている座席に腰を落とす。

(あ、しまった)

 女子大生らしい乗客の隣に座ってしまった。若い女性なら、隣に男性が座るのは嫌だろう。

 スマホの画面が見える。女子大生はLINEでやりとりしていた。

『やったww』

『何?』

『隣に男子高生が座ってきたww』

『マジか』

『男子高生が空き席から自分の隣を選ぶとすごい自己肯定感ww』

『分かるww』

 俺は最後の気力を失った。目を閉じ、女子大生の肩を借りて眠りに落ちた。


 いわば国内にいながらにして異邦人となった状況で、俺には精神を回復する目当てがあった。多くの人間は無人島に持っていくものに書物を選び、刑務所では普段は書物を手にすることもない受刑者が読書家になる。要するに、読書で現実逃避するという手段があった。

 この異常事態にあっては、並一通りの書物では足りない。俺は秘蔵していた『ゼロの使い魔』の最終巻を読むことにした。『ゼロの使い魔』は作者であるヤマグチノボルが物故したことにより、長らく未完のまま放置されていたが、昨年、匿名の代筆者により完結編が著わされた。代筆のため、期待が裏切られることを懸念して敬遠してきたが、評判はいい。もとより、内容が良否いずれにしろ、大きな感慨を得るだろうことはまちがいない。

 が、『ゼロの使い魔』の最終巻は自室の机から消失していた。

 妹の紬に尋ねる。紬は中学二年生だ。

「紬、俺の部屋から『ゼロの使い魔』の最終巻を持っていかなかったか?」

「え? 紬、そんなタイトル知らないよ。ラノベ?」

「惚けるにしてもひどいな。『ゼロ魔』を知らないわけがないだろ」

 言いかけ、直感する。この世界で男女の貞操観念が逆転しているということは、文化的環境もかなり違っているはずだ。とすれば、元の世界の書物が、この世界では著わされなかったということも大いにあり得る。

 自室にもどり、本棚を調べた。『ゼロの使い魔』の最終巻どころか、シリーズ全巻がない。他にも、ライトノベルの著名なタイトルがほとんどなくなっていた。本棚の空間には、代わりに岩波文庫や新潮文庫などの海外の古典作品が収まっている。

 出版社のホームページ、書店、アマゾンの在庫も検索したが、結果は該当なしだった。その後、ウィキペディアを渉猟し、やはりこの世界では元の世界のライトノベルの大半が消失していることを知った。

 呆然としていると、ドアが叩かれた。

「お兄ちゃーん。はやくお風呂入ってよ。お兄ちゃんが入らないと、紬が入れないじゃん」

「どうして紬が先に入らないんだ」

 そう言って、この世界では男女の貞操観念が逆転していることを思い出す。この世界では、思春期の息子を慮って、女性の後に入浴せずに済むようにしているのだろう。無論、俺には理解できない感覚だ。

 ライトノベルの大半が世界から消失したショックが抜けず、呆然としたまま機械的に体を洗い、風呂から出る。

 リビングに行くと、紬が飲みかけのジュースを吹きだした。

「お兄ちゃん、服!」

 俺は全裸だった。

 母も意図的に視線を避けている。

 父が厳しく言った。

「創平、年頃の男なのだから、家の中でも全裸はやめなさい」

 自室に戻り、机で頭を抱える。

 電撃文庫、富士見ファンタジア文庫、スニーカー文庫、ガガガ文庫。中学生のときからライトノベルを読みはじめ、今なお、読書調査でライトノベルが読書の冊数の対象外であることに憤慨する俺だ。ライトノベルの大半が消失したという事実は受けとめるには大きすぎた。

 俺は調査をすることに決めた。しかし、思い当たるライトノベルの大量にある場所は一つしかなかった。

 明日文芸部に行かなければならない。そう考え、憂鬱になった。

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