02 学園ソドム
昨今、流行りの異世界転生モノのように、トラックに轢かれればわかりやすかったのだが、俺の場合、いつの間にか世界が変わっていた。そもそもトラックに轢かれようにも、車両が大型になればそれだけ排気音も大きくなるのだから、轢かれるまで気付かないというのはおかしい。聴力に優れた若者ならなおさらだ。
グレゴール・ザムザはある朝、目覚めると毒虫になっていたし、ヨーゼフ・Kは朝食中に裁判所の職員に連行された。あるいは、MMORPGのテストプレイヤーに選ばれるのはそれに近いかもしれない。
俺が異常に気づいたのは昨日のことだった。
この世界では、貞操観念が男女で逆転しているらしい。埼京線では痴女が問題になるし、テレビでは女芸人が下ネタを披露する。男性アイドルの水着グラビアが雑誌の巻頭カラーを飾るし、男がするナンパが《逆ナン》だ。変わらないのは埼玉銘菓、十万石まんじゅうの味だけだ。
そうしたわけで歴史の教科書を読んでいたが、およそ、第二次世界大戦以降から歴史が分岐しているらしい。それ以降は、年表に現われる重要人物も女性が主だった。
その日、俺は登校する前に鏡を見た。この世界の貞操観念が逆転しているということは、男子高生の自分は元の世界における女子高生に相当するはずだ。女子高生はそこにいるだけでチヤホヤしてもらえる存在だという甘い認識を俺はもっていた。
だとすれば、こちらの世界に転移したのはかえって得だったかもしれない。
鏡で自分の顔を見る。やや真面目そうな他は特徴のない、没個性な顔だ。昨日まではそう思っていたが、この世界では十人並みの容姿と言えるかもしれない。そう思い、俺はニヤけた。
「お兄ちゃん、いつまでも洗面所を占領しないでよ」
中学生の妹の紬(つむぎ)が文句を言う。
これが元の世界だったら、俺が鏡を見ていただけで、キモいだのナルシストだのと罵られていただろう。つまり、この世界では男子高生が鏡を見るのは自然なことなのだ。こうしたことにも、世界が変わったことを実感した。
次の学課は、この世界に転移してから初めての体育だ。貞操観念が変わったからといって体育の授業内容が変わることもないだろう。そう思い、俺は体操着に着替えるべく服を脱いだ。まだ女子が教室に残っているが、気にするほどのことではない。
「な」
笹木が大声を出した。
「なに着替えてるんだよ!」
「次の時間は体育だろ。着替えなければ校庭に移動できないじゃないか」
やはり、この世界では体育も元の世界のものとはちがうのだろうか。
「そこじゃなくて、なんで教室で着替えてるんだよ。女子が見てるだろ!」
「え」
周囲を見渡すと、男子が呆気にとられていて、女子が俺を凝視していた。近くにいた男子が制服のジャケットを放り、笹木がそれをかぶせた。
「じゃあ、どこで着替えればいいんだ」
「男子更衣室に決まってるだろ。その格好じゃ廊下を移動することもできないから、早く服を着てくれよ」
笹木は女子からの視線を遮るように俺の前に立った。女子は気にしていないように顔を背けていたが、当人からは、横目でチラチラと見ているのがよくわかる。
ともかく、服を着直す。
記憶では、校舎には女子更衣室のみが具備されていて、男子は教室で着替えていたはずだ。この世界では、男性の貞操観念が高まったために男子更衣室も設置されたのだろう。
「それにしても、男女両方の更衣室をおくスペースなんてよくこの校舎にあったよな」
笹木に言う。
「なに言ってるんだよ。水泳はプールに更衣室兼備のシャワー室があるけど、通常の体育は女子は教室で着替えだろ」
俺は沈黙した。
俺が揉めて、すでに休み時間が半ばを過ぎていたため、女子は大半が着替えをはじめていた。
「えい」
笹木が下着だけになった女子の脇腹を突く。
「もー、着替えてるんだからやめてよー」
女子はそう言うが、口元がにやついていて、本気で怒っている様子ではない。
「ね、見て見て」
女子テニス部の伊月が笹木に声をかけた。伊月は明るい性格で、いわゆるスクールカーストの最高位に位置していた。
「胸筋鍛えてるからかな。またおっぱいがおっきくなっちゃった」
両腕を頭の後ろで交叉させて、ブラジャーに包まれた乳房を突き出した。
俺は卒倒しかけた。
「ほら、触ってみ」
「えー」
笹木は露骨に嫌そうにしつつ、腕だけを伸ばして、胸を揉んだ。
「ね、おっきくなってるっしょ」
「いや、知らんし」
眩暈を覚える。
「『ソドムの市』だ…」
やはりこの世界には順応できそうにない。俺は認識をそう改めた。
俺は足元のふらつくまま、男子更衣室に行き、体操着に着替えた。
着替えが済むと、不条理に対する憤りが沸きあがってきた。
「どうして、俺たちだけやましいことをしてるみたいに隠れて着替えをしなければいけないんだ」
「男子が下着を晒したら、風紀が乱れるからじゃないか」
笹木が適当にいなす。
「下着にしたって、水着と面積は変わらないじゃないか。どうして下着だけ隠さなければいけないんだ」
そう言うと、笹木は言葉に詰まったが、考えつつ反論した。
「たしかに、男子だけ着替えを隠す合理的理由はないかもしれない。けど、現状としてそれが当然と思われているんだ。特別な理由がないかぎり、逆らう必要はないだろ。それに」
と、笹木は言葉を足した。
「俺は女子の見ている中で着替えをするなんて、絶対に嫌だ」
俺は涼宮ハルヒが教室で公然と着替えたのと、同じことをしてしまったらしい。『涼宮ハルヒの憂鬱』でその下りを読んだとき、ただハルヒが悪目立ちするためだけに、そうしたのだと思っていた。だが違った。ハルヒは正しい。間違っているのは世界の方だ。
俺は一人、内心でそう思った。
体育に参加すると、女子が遠くから俺を盗み見ていて、しかも、口元にいやらしい笑みを浮かべていた。男子が更衣室を利用するとはこういうことか、と俺はようやく納得した。
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