お前を脱処女させてやるから、俺をオタサーの王子にしてくれ!

海老名五十一

01 最終痴漢電車

 『マリア様がみてる』の世界に男はいないというが、それは違う。シリーズ初巻の『マリア様がみてる』(無印)は、電車通学をするリリアン女学園の生徒たちが同じ車両に乗り合わせることで痴漢を近づかせない、という挿話ではじまる。同性間の結束をしめす、いい導入だと思う。

 しかし、と俺は思う。

 自分が痴女に遭うとなれば、そのようなことは言っていられない。

 自宅の最寄り駅から、高校まで五区間。満員の車内で吊革につかまって歴史の教科書を読んでいたが、高校まで二駅を残すところで臀部に違和感を覚えた。

 その直前の駅で乗車してきたのだろう。窓ガラスの反射で背後をみると、新聞を折り畳み、片手に持った中年女性がいた。スーツで、紙面に視線を落としている。外見からは強制猥褻を行うようにはみえない。

 《痴漢行為》の防止のために、埼京線の全車両に防犯カメラが設置されたときは「大袈裟な」と思ったが、こうして当事者になると、その必要性がよくわかる。歴史の教科書を読む男子高校生、、、、、など、絶好の狙い目に見えたのだろう。

 この世界の変異には気付いていたが、まさか自分が痴女に遭うとは…

 見知らぬ中年女性に尻を揉まれるなど、まさか想像するはずもない。

 ここは駅で見た《痴女防止ポスター》のように声をあげるべきだろうか。無論、ポスターのイラストに描かれていたのは男子高生だ。だが、ここで騒げば、警察の事情聴取に付きあう手間もとられるし、学校に遅刻してしまう。それに、あと二駅我慢すれば済むことだ。俺は無視を決めこむことにした。

 だが。

「この人、痴女です!」

 同じ制服の男子高生が中年女性の腕を掴み、高々と上げた。

 中年女性は顔を紅潮させて弁明した。

「痴女なんてしていないわよ!」

 そう言い、俺を凝視する。この中年女性が勝利感を覚えることを考えると不愉快だったが、面倒を避けるため、俺は同意した。

「はい。痴女なんてされていません」

 男子高生は俺を見て逡巡したが、当人の意思を尊重することにしたらしい。反論はしなかった。

 中年女性は男子高生を睨みつけると、隣接する車両に移動していった。

 男子高生には見覚えがあった。

「同じクラスの笹木、だよな」

「ああ。草鹿でいいんだよな。下の名前は創平だっけ」

 笹木はテニス部だ。同じ県立西武高校二年一組の同級生でも、帰宅部の俺とは接点がない。書類上は文芸部に所属しているが、オタクしかいなかったため、新入生のときに入部してすぐ幽霊部員になった。

 俺と笹木は通学路を共にした。

 礼儀として感謝を述べる。

「さっきはありがとな」

「困ったときはお互いさまだろ」

 笹木は快活に笑った。

「それにしても」と笹木は話題を転じた。「実際、被害に遭ってるのは俺たち男なのに、テレビでは痴女冤罪を防ぐ方法、みたいな特集をしやがって腹が立つよな」

「周防正行の映画の影響じゃないか。『それでもアタシはやってない』だっけ? でも、これもテーマは痴女じゃなくて、刑事司法だけどな」

「だよな! なんで痴女の冤罪にばっか注目するんだろうな」

「性犯罪が人格の名誉に直結することや、痴女が立証を証言に頼る犯罪で、冤罪を証明しにくいこととかが理由かな。でも、根本的には、性に関する利益が男女間でトレードオフだからだと思う。だから、対立構造になりやすい。それに欲望を煽り立てるものだから、なおさら当事者を攻撃的にする」

「へえ」と、笹木は感心したような声をあげた。「今まで話したことはなかったけど、草鹿って頭いいんだな」

「別にそんなことないよ」

 そう言ったのは謙遜ではない。俺はこの世界の性に関する価値観をもたない。笹木が感心したのは、そうした立場論から離れた視点が新鮮だったからだろう。

「俺も前に痴女に遭ったことがあるけどさ。実際に被害に遭う前は、痴女に遭ったら捕まえてやろう、って思ってたけど。そのときになったら怖くて声を出せなかったよ。そのせいでその日は一日中、怒りがおさまらなかったし。お前は冷静ですげーよ」

「ハハハ…」

 俺は苦笑した。

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