美術室の君

 ──初めて彼女を見た時のことはよく覚えている。放課後の美術室の床に座り込んで、クレヨンでスケッチブックに絵を描いていた。

 綺麗な人だな、というのが率直な感想だった。夕日に照らされた姿はどこか儚げで、高校生らしからぬ色気を纏っている。その姿に見惚れた僕は、しばらく廊下に佇んでいた。……端的に言えば、僕は彼女に一目惚れしてしまったのだ。


 それからしばらく経ったある日、再び同じ場所で彼女を見た。気になった僕がおそるおそる美術室に入ると、彼女は一瞬だけこちらを見て、すぐにスケッチブックに目を戻した。


「あの……」


 僕が声をかけると、彼女はキョロキョロと辺りを見回した後、ひどく驚いた様子でこちらを見た。何かを言うように口を動かしているのに、何も聞こえない。それに気づいた彼女は、手元のスケッチブックに文字を書いてこちらに見せた。


≪私が見えるの?≫


「え?……そりゃ、見えますけど……」


 それを聞いた彼女は、ゆっくりと僕に手を伸ばす。そしてその手が僕の腕に触れたかと思うと──触れなかった。彼女の手は、手品か何かのように僕の腕をすり抜けて空振った。


「えっ!?」


 信じがたい光景に驚愕する僕とは反対に、彼女は「やっぱりね」といった表情をした。再びスケッチブックに文字を書き込む。


≪私 死んでるんです≫


 ──話によると、今の彼女は幽霊になっていて、この美術室から出ることができないらしい。室内にあるものに触れたり動かしたりすることもできず、スケッチブックとクレヨンだけが思い通りにできるそうだ。それらは僕には触れられなかったので、どうやら彼女の霊体の一部らしい。美術の授業中も、美術部の活動中も、彼女は部屋の隅で黙々と絵を描いているのだという。僕は美術の授業を取っていないし、部活にも入っていないので知らなかった。こんなことなら選択授業は美術にするべきだったな、とか、今からでも美術部にでも入れないかな、などと思った。


 それからというもの、僕は彼女と話をするため、美術部の活動日以外は毎日のように通うようになった。彼女も僕以外に話し相手がいないので、喜んで僕を迎えてくれる。生前は画家を目指していたという彼女は、僕のために毎日新しい絵を描いてくれた。彼女の絵はとても美しく、僕の心に安らぎを与えてくれる。僕以外の人間には見えず、写真にも写らない彼女の絵は、僕だけが観ることを許された特別なもののように思えた。


 だが、そんな日々は着実に終わりへ向かいつつあった。彼女のスケッチブックの余白だ。彼女は元々一人で絵を描いていたのだが、僕と出会ってからは筆談にも使うようになった。その結果スケッチブックのページ消費が早くなり、残りわずかとなってしまっている。霊体だから勝手にページが増える、などという都合の良いこともなく、一枚、また一枚と確実に減ってゆく。ほかのものに書き込むこともできない以上、これが尽きた時が僕たちの会話ができなくなる時だ。


≪どうしてあなたはここに来るの?≫


 彼女は小さな文字でそう書き込んだ。


「どうしてって、そりゃあ……先輩に会うためですよ」


 改めて口にすると、なんだか恥ずかしい。けど、どうやら彼女の質問の意図は違うところにあったようだ。


≪ほかに友達はいないの?≫


「それは……」


 僕には友達と呼べる人がいない。それどころか、いわゆる「いじめ」を受けている。周囲の生徒たちから無視されることが多いし、頻繁に物がなくなる。もうこんな学校はやめてやろうかと思っていた時に彼女と出会い、今日に至るまで彼女を心の支えとして学校に来ているのだ。


「実は、僕──」


 僕は彼女にそのことを伝えて、やがて悩み相談のようになった。彼女は僕の話をじっくりと聞いてくれて、無言で頷く。やがてクレヨンを手に取って、先程の文字の下にゆっくりと書き始めた。


≪私も経験があるからよくわかる≫


「……そうなんですか?」


≪私が死んだ理由がそうだから≫


「えっ……」


 僕は言葉を失った。そういえば、彼女がなぜ死んだのかは今までに聞いたことがなかった。


≪だからあなたは生きて≫


 力強い文字で、そう記す。


「……わかりました」


 高2の春休み……卒業まで、あと1年。彼女のために、僕は生きようと決意した。


◇◇◇


「先輩、やりました!僕、志望校に受かったんです!」


 その報告を、僕は誰よりも早く彼女に伝えた。とっくに“言葉”を失った彼女は、身振り手振りで僕を祝福してくれる。


「僕、美大に行くことにしたんです」


 合格するまで隠していたことを、彼女に打ち明けた。驚いた顔をする彼女に、僕は続ける。


「先輩の遺志を継いで、先輩の代わりに夢を叶えるんです」


 彼女は少し戸惑いを見せた後、ニコリと笑って、僕の肩に手を乗せた。もちろんその手はすり抜けたけど、僕には確かな温もりが感じられた。


 ──卒業式が終わった後、僕は最後の挨拶のために美術室を訪れた。


「先輩」


 彼女はいつものようにそこにいた。でも、僕が声をかけても振り向かず、手だけをこちらに出した。「見るな」という意味のようだ。


「……泣いてるんですか?」


 彼女はしばらく向こうを向いて俯いていたかと思うと、袖で目元を拭い、こちらを振り返った。その表情は笑顔だけど、どこか悲しそうだ。


「先輩。最後に一つだけ、伝えたいことがあるんです」


 彼女は赤く腫れた目で、僕の顔をじっと見つめた。


「僕……ずっと先輩のことが好きでした」


 彼女の反応は思ったよりも薄い。「知ってたよ」といった感じだ。


「変ですよね、叶うわけなんてないのに」


 彼女は無言のまま、窓の外に目をやる。かと思うと、窓際に置いていたスケッチブックとクレヨンを手に取って、こちらに戻ってきた。


≪目を閉じて≫


 筆談の文字でほとんど埋まった表紙に、赤いクレヨンでそう書いて見せた。僕は言われるままに目を閉じる。すると、不意に温かい感覚が僕を包み込んだ。錯覚なんかじゃない。確かに僕の体は、彼女に抱き締められている。驚いて目を開けようとした時、唇に温かいものが触れた。頭が真っ白になりながらも、僕は彼女を抱き締め返した。


「頑張ってね」


 僕が目を開けた時、彼女の姿はどこにもなく、僕の手にはスケッチブックとクレヨンが握られていた。それは、今まで一度も触ることのできなかった、彼女のものだ。


 ──あれから何年もの月日が流れた。僕は画家として、ほとんど無名ながらも活動を続けている。彼女から貰ったスケッチブックとクレヨンは今でも部屋に飾られていて、彼女のことを思い出しては感慨に耽る。


 今描いているのは、そんな彼女の肖像画だ。写真などの記録が一切ないため、僕の記憶だけを頼りに、スケッチブックにクレヨンで描いている。なぜ画材にそれを選んだのか、描かれた人物が誰なのか、僕以外は誰も知らない。宮永女子高等学校の美術室で過ごしたあの時間と共に、僕と彼女だけの秘密なのだから。


 タイトルは、そう──『美術室の君』。

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