ウラミノート
「……何だ?これ」
ある夏の日の夕方、いつものように学校から家に帰ろうとした俺は、バス停近くの植え込みに何かが落ちているのを見つけた。誰かの落とし物だと思って拾い上げてみると、それは薄汚れたノートだった。表紙は雨水か何かで湿ってボロボロになっているが、赤い油性ペンで「ウラミノート」と書かれているのが読み取れる。気味が悪いと思いつつも好奇心から最初のページを開くと、そこには直線的な文字でたった2行の説明文が書かれていた。
──このノートに、あなたが恨んでいる相手、殺したい相手の名前を4人分書きましょう。
──書き終わったら、元あった場所とは違う、誰かが拾ってくれそうな場所に隠しましょう。
なるほど、これは「不幸の手紙」や「チェーンメール」なんかの派生というわけか。どこの誰が始めたか知らないが、悪趣味なことをする奴もいたものだ。
……そこで素直に元の場所に戻しておけばよかったのだが、なんとなく気になってページをめくってしまった。そこには1行に4人ずつ、それぞれ異なる筆跡でびっしりと誰かの名前が書き綴られていた。次のページも、その次のページも……いかにも恨みを込めて書いたという感じの力強い文字もあれば、紙の劣化によってほとんど読めなくなっている、細くて弱々しい女性のような文字もある。これだけ多くの人間が、殺したいほど恨む相手の名前を4人も挙げられるのだという事実に底知れない恐怖を覚え、思わず圧倒されてしまう。もしかして、このノートには何かすごい力が宿っていて、名前を書くと本当に何かが起こるのではないだろうか。……そんな風に錯覚するほどに、そのノートからは魔力のようなものを感じさせられた。
不意に我に返り、こんなことをしている場合じゃないとノートを戻す。……が、手を放した瞬間、妙な不安感に駆られた。……俺はこれをここに戻していいのだろうか。俺が戻せば、次に見つけた誰かが拾って中を見るだろう。その誰かは、俺と同じように戻すのだろうか。それとも、自分が恨んでいる相手の名前を書き込んで別の場所に置くのだろうか。──あるいは俺自身、「これに名前を書き込んだらどうなるのか」に興味があったのかもしれない。そう考えてみると、1人、2人と嫌な奴の顔が思い浮かぶ。殺したいほど恨んでいるつもりはないが、「死んでもいいかもしれない」という程度には思えてくる。
途端に俺は自分が怖くなって、慌ててその場から逃げるように走り出した。そうしないと、俺はあのノートを持ち帰り、名前を書き込んでしまいそうだと思ったからだ。
翌日、俺は同級生のHにウラミノートの話をしてみた。Hは小学生の頃からの友達で、家が神社をやっている。だからどうというつもりもなく、なんとなく話題に出してみただけなのだが、Hの反応は俺の予想よりも大きかった。
「……それ、どこにある?」
「え?誰も拾ってなければ、うちの近所の植え込みだけど……」
「……今日学校が終わったら、僕をそこに連れて行って」
「なんだよ、お前も見たいのか?」
「僕の予想通りなら、それは厄介な呪いの儀式だ」
「えっ……」
「とにかく、学校が終わったらすぐだ」
「……わかった」
放課後、俺はHと共に昨日ウラミノートを拾った場所へと向かった。少し位置が変わっているような気はしたが、ノートはそこに置かれたままだった。
Hはノートを拾い上げ、無言でパラパラとページをめくった。かと思うとパタンと閉じ、そのまま歩き始めた。
「どうしたんだよ、H」
「うちでお祓いをする」
「お祓い?」
「こいつはかなり危険な状態になってる。このまま戻すのはまずい」
事態がよくわからないまま、俺はHの父親が神主をしている神社へと向かうことになった。別に俺は行かなくてもいいらしいのだが、Hのただならぬ雰囲気に気おされてついて行くことにしたのだ。
この神社はこの辺りではそこそこ有名で、正月には初詣の参拝客でごった返している。とはいえ、普段は閑散としているし、俺も初詣以外の時にはそうそう訪れない。
「父さん、ちょっといい?」
「おう、何だ?」
「これなんだけど……」
Hの父親はノートを受け取って中を開くと、途端に表情が険しくなった。
「……これ、どこで見つけた?」
「Mヶ丘のバス停横の植え込みで、Nが見つけたらしい」
「……ああ、N君。お久しぶり」
Hの父親は俺の顔をちらと見て軽く会釈をすると、すぐにHの方に向き直った。
「とにかく、すぐにお祓いをしよう」
Hの父親はそう言って立ち上がり、いそいそと準備を始めた。俺は帰りたいとも言えず、そのまま残ることにした。
──それから1時間ほどかけて、念入りな儀式が行われた。少なくとも初詣の時に見られるそれとは雰囲気が大きく違っていて、二人とも真剣な表情だ。ようやく儀式を終えたHは、額を汗で光らせながら俺の前に戻ってきた。
「一応お祓いはしたけど、まだ安心はできない」
「普通に捨てちゃダメなのか?」
「これだけ大勢の怨念が込められた状態だと、燃やしたり埋めたりすると辺りに呪いが振り撒かれる可能性がある。長期間同じ場所に置いておくのも良くないから、神社で保管するわけにもいかない」
「じゃあどうするんだよ?」
「いい?よく聞いて。このノートに、“誰のものでもない名前”を書くんだ」
「誰のものでもない……?」
「名前として実在していても構わないけど、とにかく君が知っている人物として存在しない名前だ。君にとって一切の恨みを伴わない、空っぽの名前を4人分書き込むんだ。そして、誰かが拾いそうな場所に置いてくる」
「ちょっと待ってくれ。そもそもこれって何なんだ?本当に呪いの道具なのか?」
「ああ、古い呪いの儀式だ。ノートに書かれている通り、恨みを持った人物の名前を書き込んで、次の誰かの手に渡らせる。次の誰かはまた名前を書き込んで、さらに次の誰かの手に渡らせる。これを繰り返すことによって、このノートは“純粋な怨念の塊”になる。名前が集まれば集まるほど呪いは強力になり、存在しているだけで辺りに悪影響を及ぼすようになるんだ」
「……一体誰がそんなことを」
「わからない。普通の呪いの場合は呪いを解く際に術者の思念を読み取り、それを打ち消すように解呪するんだけど、これは不特定多数の怨念を集めて行うから、術者の特定ができないし、解呪も難しくなる」
普通の呪い、という言葉にツッコミを入れようかと思ったが、彼のあまりに真剣な表情を見ると茶化す気にはなれなかった。
「一ヶ所に留まらせるとそこに呪いが振り撒かれるから、定期的に場所を変える必要がある。だけどそのうち、これの使い方を知っている人物の手に渡る可能性もある」
「呪いを仕掛けた犯人ってことか?」
「それもあるし、別の誰かかもしれない。とにかく、無数の怨念を利用して大規模な呪いをかけることができてしまう人物だ」
「じゃあどうすれば……」
「だから“誰のものでもない名前”を書き込むんだ。純粋な怨念の塊の中に、空っぽの不純物を混ぜてやる。そうするとそこからほころびができて、儀式を失敗させられる」
「そんな簡単に失敗するのか?」
「わからない。けど、今はそれ以外に処分のしようがないんだ」
俺はHに言われた通り、俺の知る範囲内に存在しない名前を4人分でっち上げて書き込み、普段通らない道の植え込みに隠した。Hは俺に、このことは誰にも言うなと釘を刺した。
数日後にその場所を見に行ってみると、ノートは既になくなっていた。おそらく誰かが持ち去ったのだろう。
「なあ、あのノートって近くにあるだけでも呪いの影響があるとか言ったよな?」
「うん」
「それって具体的にどういう影響なんだ?」
「人の恨みを呼び起こす、とでも言えばいいかな……元々誰にも恨みを抱いていないような人でも、ちょっと手にしていただけで嫌な奴のことが思い浮かぶようになったり、長時間近くにあると殺意を掻き立てられて、そのまま争いや殺人事件の元になったりする」
それを聞いて、俺はノートを手にした時の感覚を思い出した。
「人の感情というのは共鳴するもので、強い恨みにあてられると心を乱されてしまう。あれはそういう性質を利用した狡猾な呪いだよ」
あのノートがどうなったか、俺には知る由もない。
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