欠けて満ちる
「月ってさ、世界の縮図みたいだよね」
俺が一人で寝転がって夜空を眺めていると、唐突に彼が話しかけてきた。
「それはどういう?」
彼は時々、何の前触れもなくこういった話を投げかけてくる。彼自身の退屈しのぎなのか、それとも俺を退屈させないよう気遣っているつもりなのかはわからないが、とにかく何の脈絡もなく哲学的な話を始めるのだ。もちろん俺も退屈なので、彼の話にはありがたく付き合わせてもらう。
「欠けている状態から徐々に満ちていくけど、完全に満たされてしまうとまた欠けていく。そしてすべてが欠けた時、再び満ちようと求め始める」
そこで彼の話が止まった。俺の返答を待っているのだろう。
「……人間の欲望の話か?」
「それも含めて、世界の全部だよ。あらゆるものは完全な状態を求めて進歩や発展を遂げるけど、それらは完成した瞬間から崩壊を始める。永遠に満たされ続けるものなんてなくて、そう見えるものはすべて“まだ満たされていない”状態に過ぎないんだ」
「聞いたことがあるな。建物を崩壊させないために、わざと不完全な状態にしておくんだっけか」
「そういう話もあるね」
彼の口調は「ほかにもまだある」と言いたげだ。何かほかの例を挙げなければと考えていると、彼が先に口を開いた。
「例えばそう、生物の繁栄と衰退もこれに当てはまると思う。すべての生物はそれぞれの完成形を目指して進化し、その数を増やしてきた。でも生物として完成されて進化が止まると、今度は同種の中での競争が始まり、やがて自ら滅びの道を歩み始める」
彼が何のことを言っているかは、俺にもすぐにわかった。
「……でも逆はどうなんだ?月の喩えを使うなら、滅亡してゼロになった状態からまた満ちていくんだろうが、一度絶滅した生物は二度と繁栄しないだろ?」
「そうだね、生物はその性質上、“ゼロ”を迎えてしまったら二度と満ちることはないかもしれない。でも、限りなく“ゼロ”に近付いたとしても、完全に失われてしまわなければ、そこから取り戻そうという動きが起こるはずだ」
「そんな悪あがきみたいなもので再生できるのか?」
彼はしばらく黙り込んだ後、空を見上げて言った。
「最初の生物って、何だったと思う?」
「最初の生物?……いや、知らないな」
俺が子供の頃に読んだ本では「地球上の生物は宇宙から飛来した微生物が進化して生まれた」なんてことが書いてあったような気がするが、だったらその飛来した微生物はどこで生まれたんだという話だ。ここで彼が尋ねているのは本当の“最初の生物”の方であろう。
「僕も知らない。でもきっと、“ただの物質”から“生物”になった瞬間がどこかにあったはずだ」
「それはまあ……そうだろうな」
海中を漂うタンパク質か何かが、自らの意志を持って動き始めた瞬間。物質としての化学的な反応ではなく、生物としての「生きよう」という本能で動き始めた瞬間――俺たちが生きている時代から途方もなく遡った過去に、確かにそんな瞬間が存在したはずである。
「じゃあ、その“最初の生物”はどうやって増えていったんだろう?」
「……分裂とかじゃないのか?」
極めて原始的な構造の生物である以上、雌雄などは存在せず、子供だとか卵だとかいった形のものでもなく、単に「自己の複製」としての分裂によって増殖していたと考えるのが妥当だろう。
「僕も君と同じ考えだ。きっと“最初の生物”は分裂によって自らと同じ構造のものを生み出し、その数を増やしていった……」
「んで、それがさっきの話と何か関係あるのか?」
「もちろん。関係があるからこうして話しているんだ」
彼はむくりと体を起こし、辺りを見渡した。
「今、この世界は極めて“ゼロ”に近い状態だ。言うなれば、“生物が誕生する前”に戻ろうとしている」
月明かりに照らされた虚無の世界を眺めながら、俺は彼の話に耳を傾ける。
「そして、おそらく僕たちは“最後の生物”になる。そうでなくても、少なくとも“最後のヒト”であるはずだ」
「だろうな。ヒトは俺たちの死をもって絶滅する。そうなれば二度と繁栄はしないだろう」
「まだだよ。まだここにいる。まだ絶滅していない」
「そうは言っても、ヒトは雌雄揃って子供を産まなければ繁殖できない生き物だからな。“最初の生物”と違って、ここから増えることは絶対にない」
「まだわからない?僕たちはこれまでの歴史における“最後のヒト”であると同時に、これからの歴史における“最初のヒト”でもあるわけだよ。これまでの“ヒト”の常識が通用するとは限らない」
「……さすがにそれはないだろ。月だって欠けた後に満ち始めるのは、欠けたのとは反対側からだ。これから先に新たな生物が生まれて栄えるとすれば、それは俺たちが絶滅した後、一度“ゼロ”に戻った後だ。今から何億年も前に起きたのと同じように、俺たちとは関係のないところで次の“最初の生物”が生まれる。それだけの話だ」
「本当にそうかな?」
待ってましたと言わんばかりに、彼はすぐに切り返した。
「……というと?」
「僕たちの遠い祖先となる“最初の生物”より前にも、生物は存在したかもしれない。例えばA、B、Cの3つの生物が別々に生まれ、それぞれ異なる性質を手に入れた。その中で『分裂して自らのコピーを残す』という性質を持っていたのがCだけだったとすれば、AやBは“最初の生物”になれなかった“最初の生物”ということになる」
「不滅の存在でもない限り、個としての死が種の絶滅になるわけだからな」
彼は俺の言葉を聞いてフフッと笑った。
「もしかすると、Bは『不滅』という性質を手に入れたかもしれないね。僕たちが知らないだけで、この世界のどこかに“最初の生物”よりも前から存在し続けている生物がいるかもしれない」
「……いるわけないだろ、不滅の生物なんて」
「分裂する生物の常識では、ね」
なるほど、分裂して自らのコピーを残すことによって『種の不滅』を獲得したのがCだとすれば、純粋に己の存在のみを残し続けることによって『個の不滅』を獲得したBが存在してもおかしくはない。
「とはいえ、そうして『種の不滅』を手に入れようとしたCの子孫だって、こうして滅んでいるじゃないか。結局『完全なる不滅』なんてものはなくて、満たされた瞬間に欠け始めるんだろう。同様に、欠けたものが満たされる時も“欠けきった瞬間から満たされ始める”のであって、一度“ゼロ”を迎えなければ再生はしないんじゃないか?」
「考え方としてはそれも悪くない。でも思い出してみてほしい。“既に僕たちは分裂を始めている”ということを」
その言葉を聞いて、はっと我に返る。
そうだ、俺たちは……いや、“俺”は元々一人の人間だ。この地球上にたった一人残され、孤独のあまり人格が分裂してしまったが、俺はあくまで“ヒトの一個体”であるはずだ。
「僕たちが分裂したのが『孤独を紛らわすため』か、それとも『個体数を増やすため』か……賭けてみない?」
「バカバカしい。俺はヒトだ。いくらなんでも分裂して増殖するなんてことはあり得ない」
「もし“最初の生物”に意識があったとしたら、同じことを考えていただろうね」
既に月は西に傾き、東の空が明るくなりつつあった。俺たちはあと何回、この太陽を見ることができるだろうか。俺たちが死んでこの地球上が“ゼロ”の状態になったら、次に太陽を見るのは何者なのだろうか。
地球上で初めて光を認識できる機能を獲得した生物はクラゲだと聞いたことがある。だが、それも実際に見た人間がいるわけでもないし、これから先に生まれる生物がこれまでの生物と同じ進化を遂げるとも限らない。そもそもこれまでの生物が“地球上で最初の生物”だったかどうかも定かではないし、これから先に“次の生物”がいるかどうかもわからない。
月の満ち欠けは、ものの喩えで挙げられただけだ。例外はいくらでもあるだろうし、地球の生物が同じように欠けて満ちる保証はどこにもない。そしてそれは、仮に俺たちが分裂して“最初の生物”になったとしても、永遠に知ることのない事象だ。
結局のところ、俺たちが知ることのできる世界なんてものは、この地球上のごくごく限られた範囲に過ぎないのだから。
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