○Fragmentum――金森朋恵●
護るということ
「いってきます、ママ!」
あの日は、あたしが四歳のとき。
今ではあり得ないくらい、とても元気だったとき。
都会暮らしのこととか、
私立幼稚園のこととか、
ほとんどが
「ママ描けたよ~! ママとあたし!」
ちゃんと覚えてることは、お絵描きが好きだったこと。
「あら~上手に描けたじゃな~い!」
描いた絵を、ママに褒められることが好きだったこと。
「やったぁ~!」
「フフ! じゃあ今度は、パパのことも描いてあげてね!」
「うん!」
ママのことが、大好きだったこと。
大企業社長のパパは忙しいから、なかなか帰ってない日々。だからこそ、いつも大好きなママと暮らしてた。
ママが作った、おいしいハンバーグ。
ママが造った、おしゃれな毛糸のマフラー。
ママがくれた、かわいいリボン。
ママがくれた、優しい“よしよし”。
とっても、幸せだった。
でも、あの日が来てしまう……。
「ママ……? ねぇママ起きてよ? 幼稚園遅れちゃうよ?」
大好きなママが亡くなった。
見慣れない病院の白いベッドで、気持ち良さそうに寝てた。
普段いないパパも来て、何も話さずだったけど俯いてた。
そんな突然の別れが、来てしまったの。
「ねぇママ? 寝坊はよくないよ?」
ただ唯一の救いは、幼いあたしにはまだ“死”の観念が無かったこと。
だから、悲しくはなかった。
きっと明日の朝になったら、また起こしにきてくれると思ってたから。
描いた絵を、また褒めてくれると思ってたから。
すぐに何枚も何枚も、ママとあたしの似顔絵を描いた。
もちろん毎日忙しいパパのことも描いた。
三人の家族絵を、一生懸命描いた。
――「おはようございます、朋恵御嬢様」
でも次の日、あたしを起こしにきたのは、見たこともない家政婦さんだった。
それも一人じゃなくて、何人も。
一方であたしは絵をたくさん描いてたけど、褒めてくれるのは誰もいなかった。
むしろ怒られた……。
英才教育派のパパからの指示で“そんなことよりもお勉強しましょう”って……。
その次の日も……
またその次の日も……
それからずっと……
ママは写真でしか、家にいなかった。
「いってきます」
私立小学校に入ると同時に、新傘村に引っ越すことになった。理由はパパの会社が近くに新設されたから。
ただ職場が近くなっても、パパの忙しさは変わらなかったけどね。
送り迎えさえ、家政婦さんたちだったし……。
勘違いしてほしくないのは、あたしは決してパパが嫌いだとは思ってない。
よくママに言われてたから。
『パパはね、精いっぱい働いて、朋恵のこと育ててくれてるの。ママたちのこと、精いっぱい護ってくれてるのよ』
ってね。
でも、最近になってから急に感じた。
なんだかパパは、遠いなって……。
お絵描きは、こっそり続けてたの。
家だと怒られるから、学校で描くことにした。
休み時間、一人黙々と……鉛筆よりもクーピーばかり握ってた。
だって、またママに褒められたいから。
いつか、写真から声が聞こえるんじゃないかって信じてたから。
ずっとそんなことを考えながら、
ずっと同じ絵を描き続けた。
ママと、
パパと、
あたしの、
三人家族絵を。
でもずっと、ママは帰ってこなかった。
「ママ……帰って、こないの? ねぇ、ママ……グズッ……」
そのとき、あたしの感情は改めて気づいた。
写真でしかいないママは、もう動かないんだと。
あたしが描いた絵のように、静止してるんだと。
――もうママは、いないんだと……。
「グズッ……ママ……ママ……ママァァア゛!!」
“死”の観念が初めて生まれ、爆発した一つの心。
それはこの通り、独りのあたしを破裂させた。
止まらない衝動は、家政婦さんたちをも
私立学校の先生たちでさえ、扱いに困ってた。何をしても、泣き叫び続けたから。
友だちなんか、いやしない。
ずっと一人でお絵描きばかりしてたんだから。
ずっと独りだったんだから。
とっても、辛かった……。
「いってきます……」
小学二年生の春。
市立の新傘小学校に転校した。
もちろん、友だちや知ってる人は一人もいない。
ほとんどが変わらない、孤独と共に暮らす世界。
変わったとすれば、徒歩の登下校で疲れるようになったこと。
「よろしくお願いします……」
クラスのみんなにはそう言った。
けど、正直怖かった。
誰かと話すことがあまり慣れてなくて……。
だから、あたしの中でカリキュラムも結局変わらなかった。
好きな物を、
好きなだけ描く。
そんな学校生活が、再開した。
大きな代償と併せて。
――「金森さんって、ちょっと付き合い悪くない……?」
――「なんかいっつも絵ばっか描いてて……やりにくいわ」
――「私立から転校とか……どーせ私たちのことなんか下に見てんでしょ」
――「あー見えて金持ちらしーしねー」
――「へいタッチ! これでお前は金森病だ~い」
――「マジかよ~! お絵描き病なんかヤだわー! お前にもタッチ!」
見掛けは判断へ。
判断は噂へ。
噂は嫌がらせへ。
友だちどころか、ちょっとの会話もしてもらえなかった。
廊下ですれ違うだけで、尖る視線も飛ばされた。
でもね、あたしはみんなを否定するつもりはないの。
だってみんなは、人として当たり前の行動を起こしてるだけだから。
“自分を護るということ”
敵の敵は味方と区別し、集団的自衛権を行使してるだけ。
あたしと同じ境遇に遇わないように避けてるだけ。
こういうとき、世間ではよく“相談しなさい”と持ち掛けられる。
でも実際問題、先生や大人に話しても、見たフリをされるのが世論文化。
改善策は抽象的で、具体的対処法なんか教えてくれない。
時間と比例して、結局“あたしが悪かった”という率を上げようとする。
そして、事が大きくなってからしか対応してくれない。
だからあたしは、誰にも何も言わなかった……。
チームにリーダーがいるように、
家族に大黒柱がいるように、
クラスに一人はあたしみたいな人種が必要なんだろうなって、
自心に言い聞かせるようにした。
「……」
四月中旬の下校道。
小川のせせらぎ。
タンポポを飛ばす春風。
煌めく自然たちを見つめてたとき、ふとあたしの足が止まる。
「きれい……」
以前どこかで聞いたことがある。
この町で映える、この桜木の名を。
千年桜だと。
……描いてみたい。
すぐにランドセルからクーピーとスケッチを取り出し、はしたなくも座り込んでしまう。
今まで人の絵ばかり描いてきたのに、夢中になって線を引き重ねる。
「……できた!」
初めての景色絵画。独り言を叫んでしまったのは、我ながら上手く描けた気がしたから。
帰ったら、写真のママに見せてあげよう。
今あたしが住む町には、こんなにきれいな桜が見れるんだよって。
夕陽を背景に微笑みで立ち上がり、ランドセルにしまおうとしたときだった。
――「なんだよお前ー、こんなトコでも描いてんのかよー」
――「どんだけ好きなの? マジオタクじゃん」
――「毛虫が友だちなんじゃね? 毛虫女だー!」
同じクラスの男子三人。名前までは覚えてない。
下校後の彼らが遊んでる途中に見つかってしまった。
からかわれるのは慣れてるつもり……。
しまい遅れたスケッチを両腕で握り抱え、無視して通り過ぎようとしたけど。
――「何描いたんだよ? 見せろよ?」
「や、やめて!! 引っ張らないで!!」
――「そんなふーに言われたら、余計見たくなるわー」
「放して!! 放してってば!!」
――「ハハ! 毛虫でも描いてたんだよ、唯一の友だちだから」
必死に足掻いた。
でも三対一では勝ち目がない。
スケッチの端に
そのときだった……。
ドゴッ!!
まるで特撮ヒーローのような飛び蹴りが舞い起こった。前にいた男子が吹き飛ばされ、その女子のスカジャン背に代わる。
「三対一で、しかも相手は女……テメェらにプライドはねーのかよ……?」
――「いってー……誰だよ!?」
――「あれ……あいつ、まさか……」
――「でた、タバコ女じゃん!!」
確かに感じたのは、どんよりもしたタバコの嫌煙臭。
その子とは、会ったことがない。
もちろん同じクラスでもない。
誰かだなんてわからない。
ただね、これが運命の出逢いだったの。
――同級生、
「“ザコのくせにイキがるヤツを許さねー”……そーいうのをプライドっつーんだよ……まだこの女をイジメんなら、テメェらまとめてシバく」
一転してダークヒーロー染みた台詞だけど、男子たちを威圧してた。怖じ気付いたのか、彼らはすぐに逃げてしまう。
彼女のおかげでスケッチも無事だ。
良かった。
「あ、ありが……」
「……おい」
「は、はい……?」
感謝の言葉尻を被せた彼女は名も告げぬまま、座り込むあたしを見下ろした。無愛想の怖い顔で、ランドセルとは似合わない舌打ちを鳴らす。
「なんでお前がイジメられるか、わかっか? それは、お前が弱いからだ。ずっと静かで、ずっと独りで、ずっと黙ってっからだ……」
初声は酷く刺さった。
思わずスケッチを抱いたまま、彼女から目を逸らしてしまった。
でも、人の話は最後まで聞くものだ。
「――だから、ウチに護らせろ……今日からお前は、ウチの手下だ」
後半の言葉の意味は正直わからなかった。相変わらず鋭い目付きで女の子っぽくない彼女。
けどあたしは、前半の言葉で既に胸を打たれていた。
この子が、あたしを護ってくれると言ってくれたから。
「どうして、あたしなんかを……?」
「人を護るのに理由がいるかよ……?」
「……あたし……グズッ……」
「な、なんで泣いてんだよ? ……っ! おい!」
刹那、涙に暮れる独りが、呆気に取られる一人に抱き着いた。
強く、ギュッと。
弱々しい両腕がいつも以上に張っていた。
だって、初めての経験で凄く嬉しかったから。
当たり前ではないことを、当たり前のように呟いてくれたから。
“誰かを護るということ”
「あたし……グズッ、あたし、金森朋恵っていいます……」
「お、おぅ……ウチは焔優香……つーかお前、いい加減泣き止めよ!」
思い返せばこのときからなのかな……?
あたしが泣き虫になったのは。
あたしの見る景色が光り始めたのは。
突然の
時間を共にすればするほど、初対面時には気付かなかったことも覚える。大変なこともたくさんあったし、直してほしいことも多々表れた。
「んだよ! こんな居残りやってられっかよボケー!」
「ちょっと焔さん落ち着いて!」
とにかく乱暴で言葉は汚くて、
「……あ、焔さん。今日は……一人下校?」
「バーカ。いつものことだよ……」
近づいてくる人なんてまずいない……。
「誰だよ? ウチの手下傷つけたヤツは? テメェか? ぜってぇ許さねーからな!」
「焔さん……」
でも、曲がった事が大嫌いで、
「グズッ……ウチ約束する……朋恵のこと、一生護るって……」
「焔さん……」
隠しきれないほどの優しさを持ってる……
「ゆぅちゃん!」
「な……なんだよ、その女っぽい名前……?」
「かわいくて良いと思ったから。ね、ゆぅちゃん」
「あ~
――それが、ゆぅちゃんなの。
なぜあたしと関わろうとしたのか……詳細は正直わからない。
最初は手下と呼んだ辺り、ゆぅちゃんにはゆぅちゃんなりの思惑があったのかもしれない。
でもね、
ゆぅちゃんがいるから、あたしは元気になれる。
ゆぅちゃんがいるから、あたしは楽しくなれる。
そんなゆぅちゃんと、あたしはいっしょ。
きっとこれからも、ずっと。
だからわからなくても、平気だった。
それにゆぅちゃん、隠すことあまり得意じゃないし。
何となく、察しも付いてた。
また、初めて考えることもできたの。
こんなあたしでも、
独りだと勘違いしていた一人でも、
――たった一人でも、誰かを護れたらって。
ねぇ、ママ……
見てくれてるかな……?
いろいろあったけど、
あたしは今、
――とっても、幸せだよ!
生まれて初めての
ママと同じぐらい大切な存在と出逢えたから。
“誰かを護るということ”の価値を知ったから。
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