第二十九話 あばよっ!
単なるペアではなく、夫婦になったこと。俺らは、それをすぐキャップに報告した。キャップは俺らを冷やかすでもなく、うっすら笑みを浮かべて一度頷いただけだった。
「了解した」
コメントは入植が完了してからな。キャップの表情からは、そういう含みが見て取れた。
俺がフリーゼとまとまったことは、普段付き合いのあるやつにはすぐオープンにした。俺らの先を越してすでにペアとして行動していたタオとエミ、リズとフライは、ほっとしたと思う。そうそう、ウォルフにも伝えたんだが。あいつはフリーゼを芯から怖がっているので、おまえも本当に物好きだよなあという表情だった。フェアリーに毎日精を吸い取られているおまえには言われたくないね。まあ、幸福の形は人それぞれってことにしとこう。
夫婦と言っても、俺たちには母星のシステムが適用されない。母星での登録も社会保障も入植地には意味がないからね。まさにそっちはそっちで勝手にやってくれ、だ。
だが、夫婦というのがたとえ能書きであっても、俺たちの関係は形式だけのペアや気楽な恋人同士などでは決してない。永遠を誓い合った仲になったんだ。それは、フリーゼの心境に劇的な変化をもたらした。あいつには、誰かにすっかり心を預けるという経験が一度もなかったんだろう。これまでずっとむき出しになっていた威圧感が消え、まるで幼児に戻ったかのように無防備になり、俺にどっぷり甘えた。
もし俺が本当に女を扱い慣れたプレイボーイなら、フリーゼの度を越した甘えっぷりをうっとうしく感じたかもしれない。でも、俺はずっと女に飼われていた。したくなくても女に媚びなければならなかったんだ。だから、フリーゼが心身の全てを俺に無条件に預けようとすることが、どうしようもなく愛おしかった。
入植地に着くまでの日々は、まさに
愛の言葉を交わし、肌を合わせて貪り合い、快楽の坂を上り詰めて一体となり、絶頂を極めてそのまま眠る。そして、ふと目を覚ますと。隣にいつもパートナーの確かな息遣いがある。俺もフリーゼも、そのことに言いようのない幸福を感じたんだ。俺たちが生きるために手放さなければならないものは、もう何もない……と。
しかし、時は俺たちをいつまでも甘やかしてはくれなかった。到着日が近づいて、間もなく入植地に到着するという船内アナウンスが繰り返し流れ、俺たちの意識は強制的に厳しい現実に向き合わされた。そしてフリーゼは闘気を、俺は冷静さを、それぞれ取り戻した。
「いよいよね!」
「ああ。いよいよだ」
今の幸福がこれからもずっと続くという保証なんかどこにもない。幸福は維持するものじゃないんだ。開拓者ならば、挑んで勝ち取らなければならない。ペアがゴールじゃなく、ペアになってからがチャレンジのスタートなんだ!
◇ ◇ ◇
何一つトラブルの発生はなく、三隻の大型艇は俺らを静かに入植先の惑星に運んだ。
「入植地に到着しました。職員のみなさんは、到着後速やかにセンターホールに集合してください」
アナウンスが流れた時。船はすでにドックに入って停止し、クラッチャーが解除されていた。船内の大型ディスプレイには、施設の全容が映し出されている。下船開始までの間、俺らはそれをじっと見つめていた。
無人作業機によってすでに組み立てられていた大型施設は、これまで俺たちが過ごしてきた訓練所の佇まいとそれほど変わらない。違うのは、それが地下ではなく地上に設営されているということだけだ。
俺たちが荷物を持って下船し、新施設のエントランスゲートをくぐった時。俺たちを出迎える者は誰もいなかった。一人暮らしの真っ暗な自室に帰って、自ら明かりを点ける感覚。その侘しい思いを、俺だけでなく大勢のメンバーが共有しただろう。
そうさ。そこには、これまで当たり前のようにあったキャップの姿がなかったんだ。たった一人とは言え、必ず新入りを直接出迎えてくれたキャップ。心細かった俺たちは、どっしり構えてようこそと声をかけてくれるキャップの笑顔に、どれほど元気付けられて来ただろう。俺たちは、キャップの欠落に言いようのない寂しさを覚えたんだよ。
船内に流れていたアナウンスに従って、全員が真新しいホールに集まる。ステージの上に立っていたキャップが、笑顔で俺たちを出迎えた。入植を取り仕切る大役を果たしてほっとしたんだろう。出発前の緊張と刺々しさは消え、俺たちが訓練所でいつも慣れ親しんでいた温和な雰囲気に戻っていた。その姿を見て安堵したのは、俺だけではなかったはずだ。
全員が揃ったのを確認して、キャップがガイダンスを始めた。
「諸君。長旅お疲れ様。これからここで新しい生活を始めるにあたり、まず基本的な運営システムの話をしておきたい」
ホール正面の大型スクリーンに、施設全体の平面図が映し出される。
「今我々がいるセンターホールを含め、艇の発着ドックを中心としたエリアがセンターエリアになる。医務室やジム、ラウンジなどの共用施設は全てここに集約される。そして、このセンターエリアから放射状に、ほぼ等間隔でユニットの居住エリアが配置されている。ユニット間は決して近距離ではない。あるユニットで生じた問題が内部で解決できない場合は、近隣のユニットに助力を求めるよりセンターエリアに持ち込んだ方が早く解決するだろう」
キャップが、ぐるっと俺らを見渡した。
「それを、よく覚えておいてくれ」
はあ? えらく変わったシステムだな。そう感じたのは俺だけだろうか。
「次に、ユニットについて」
キャップが映像を切り替えて、ユニットの施設図を俺らに示した。
「ペア三組のプライベートスペースを三角形の頂点に置き、その中心部に共用利用設備を配してある。基本的なコンセプトは施設全体と同じだ。共用域をどのように使うかは、ユニット内で好きに決めてくれればいい。こちらからは一切指示しないし、その意味もない」
なるほど……。
「そして、ペアだが」
一度言葉を切り、キャップが目をつぶった。
「出発前にペア決定を急かしていたのは、そうしないと君らがいつまでたっても動かんからだ。そして、どうペアを組むかより、ペアの意味をしっかり考えてほしかったんだがな」
口調は穏やかだったが、キャップの顔に笑みはなかった。
「ペアに求められるものはなにか。君ら自身の課題として、問題提起がまだ続いていると考えてくれ。当然だが、こちらで提示するペアやユニットの構成はあくまで暫定であり、一切の拘束力を持たない。随時君らが適応しやすい形に組み替えてもらって構わない。ただし!」
キャップが、ごつい声を張り上げる。
「君ら自身の努力と行動によって、な」
ホール内が水を打ったように静まり返った。
「この入植地での基本ルールは訓練所に準ずるが、違反者に対する罰則はない。当然、秩序が保たれるかどうかは君らの自律意識に依存する。よろしく」
訓練所では暗黙の了解事項だった規則適用の緩さが、入植地では明示された。あえて野放しにすることで、逆に自制をもたらす……か。キャップの面目躍如だな。
「入植開始にあたって、俺から公式に出すアナウンスはそれくらいだ。ここの施設や運営システムの細部については、インフォによく目を通しておいてくれ。まあ、基本は訓練所と変わらん。戸惑うことはそんなにないはずだ。それと、訓練所で使っていた相互交流用の電子掲示板はそのまま維持する。上手に活用してくれ。さらに!」
にっと笑ったキャップが、両手を腰にあてて身を乗り出した。
「母星との間で確保されるやり取りは、物資だけじゃない。人の出入りもこれまでと変わらん。対応を、よろしく頼む」
よろしく頼む? 協力してくれじゃなくて? キャップのセリフに強烈な違和感を抱いたのは俺だけではなかったようで、ホール内が不安げにざわついた。左手を俺らに向けてかざし、ざわめきを抑えたキャップが声のトーンを落とした。
「最後に、本部からではなく俺から君らにどうしても伝えたいことがある」
立て板に水で淡々とシステム説明をしていたさっきまでとは、雰囲気が一変した。入植直前に示していた苛立ちと刺々しさ。それが突然全開になった。
「そいつはきっと、君らが聞きたくないことだろう。だが、どうしても今のうちに種明かしをしておかないとならん!」
はあ? 種明かしだあ?
「まず。この入植地には太陽がない。君らは、本部でしつこいほどそう言われてきただろ?」
そう。耳タコだよ。
「それは大嘘だよ。太陽はちゃんとある」
手元のリモコンを操作したキャップが、ホール天井の遮光板を開いて館内の明かりを落とした。満天の星に飾られた夜空が見えるはずなのに、そこにあるのはただの暗黒空間。いや……ごくごくわずかに赤い巨大な球体が、無言で俺らを見下ろしていた。空が、そいつに遮られているってことか。
「母星の属する星系にごく近い場所。そこに別の星系があると確認されたのは、ほんの数十年前のこと。当時はまだ探査に時間がかかったため、それがよくある小惑星なのか、別の天体系なのかが判然としなかった。だが精査を繰り返した結果、それが他星系の名残だと判ったんだ。大きな星雲のもっとも縁部。恒星一つ惑星一つだけのぼっち星系で、恒星はほぼ寿命が尽きかけている。すでに冷え固まりつつある赤色矮星がほとんど光を失い、赤外線だけをちょろちょろ吐き出してる」
あっ! 叫んだのは俺だけじゃない、館内の何箇所かで声が上がった。
「可視光を失っているから、太陽が黒いんだよ」
キャップが、頭上の不気味な球体を指差した。
「早かれ遅かれ、老いぼれた黒い太陽は太陽ですらなくなる。だが、その老化速度は俺らの老化速度よりもはるかに遅い。早くても数千万年後。へたすりゃ億年レベルだ。いくら俺らが長命でも、そこまでは付き合えないな。俺らが、黒い太陽の老後の心配をする必要はないんだ」
天井を閉じて館内の明かりをつけたキャップは、今度は施設のある惑星の話をし始めた。
「ここは太陽が黒くなるまでずっとこんがり丸焼けだったから、生命が存在しうる可能性はほとんどない。大気も水もなく、あるのは広大な荒地だけだからね。実際、何度無人探査を繰り返しても生命の痕跡は見つからなかった。星系外からの未知の存在のアクセスも、まあないだろう。で、君らがもし野心のある経営者なら、大枚を叩いてここで
う……。ないな。確かに論外だ。キャップの厳しい指摘はまだ続いた。
「資源の徹底循環利用で新規資源への依存性を極限まで下げている母星の状況を鑑みる限り、事業団が宣伝しているような資源開発前提っていう線はありえないんだ。そして純粋な科学調査をするには、有人観測はあまりにコストがかかりすぎる。じゃあ、なぜ? なぜ連邦政府は、こんなばかげたプランをぶち上げたんだ?」
ばかげたプラン……か。これまで全く疑いを持っていなかった入植の目的。それが揺らぐと、全てがうさんくさく思えてくる。
「言っておく。連邦政府の立案自体には悪意も裏もない。くだらない企みに大金を投じるバカはどこにもいないよ。ただ、政府の本当の狙いは資源探査じゃない。閉塞感の打破だ」
な、なんだあ、そりゃ?
「母星は、必要以上に安定してしまった。危機はないが、夢もなくなったのさ」
目を血走らせて、キャップががなった。
「母星近傍の惑星にすら滅多に有人探査をかけなくなった。それは、資金の問題でも技術の問題でもない。チャレンジしようとするやつが激減したからだ!」
そ……うか。
「自らの運命をかけて未知に挑む。それは破壊と創造を併せ持ったプロメテウスの火だ。母星では、そいつを心に宿したやつが消えかけてるんだ」
右拳を握りしめたキャップが、それを俺たちに向かってぐいっと突き出す。
「今回の惑星探査。初の星系外探査だ。宇宙開発の揺籃期であれば、調査隊員志望者には不自由しなかっただろう。だが今は状況が全く違うんだよ! 未知に挑む気概のあるやつはまだいるはず……政府は一縷の望みを抱いて大々的に募集をかけたんだ。だが」
ぐりぐりと音がしそうな勢いで、キャップがホール内を睨み回す。
「訓練所に居着いたのは、母星にどこにも居場所のない俺たちだ。本部の連中は俺たちを見下して、開拓者という名誉ある立場から、母星と全く異なる空間で人間が生息できるかどうかを試すモルモットに格下げしちまったんだよ!」
ざわざわざわっ! 館内が一気に殺気立った。だがキャップは殺気を嘲笑で塞いだ。
「はっ! モルモット? 大いに結構なことじゃないか。俺らは母星での扱いがモルモット以下だった。病原菌扱いだ。俺らは存在してはいけないものとしてずっと追われ、差別され、狩られていたんだ。それよりは、開拓者の名誉を掲げてここで暮らす方がずっとマシだっ!」
これまで溜めに溜め続けていたキャップの怨嗟が、一気に爆発する。
「
荒い息とともに怨嗟を吐き捨てたキャップは、ぐいっと顔を上げて俺らを見回した。
「訓練所では、俺は事業団の上部役員として母星を代表する立場にあった。だから君らに無理を言って、迷惑をかけたかもしれない。だが、訓練所はもうない。俺は自動的に所長を解任される。これから、母星との交渉は各ユニットで個々に行ってくれ」
そ、そういうことかっ!
「母星の代表者としての俺の仕事は、事故やトラブルなく入植を成功させることだ。こうして全員無事に入植が果たされた。俺の仕事は終わった。あとは一入植者の立場に降りる。所長とかいうくっそ忌々しい肩書きとは永遠に縁を切らせてもらう。
◇ ◇ ◇
それは、あまりに強烈な訣別宣言だった。キャップが憤然とホールを出た後、俺たちはホールの中でぴくりとも動けず、しばらく無言で固まっていた。だが少しして頭が冷えてくると、キャップの意図がじわりと見えてきた。キャップは所長を辞めて母星に帰ると言ったわけじゃない。訓練所の所長という立場には二度と立たない……それだけじゃないか。
あれだけ激しい口調で罵ったこと。それは、単に母星の
ああ、キャップ。間違いなくそうだ。俺らは……とことん甘かったな。
事業団に騙されたと感じたんだろう。フリーゼが、真っ赤になって怒り狂っていた。その肩を叩く。
「出ようぜ。さっさとユニットの環境を整えよう」
「ブラムは、頭に来ないのっ?」
「俺が本当の開拓者なら、な。残念だが、俺の志望動機は逃亡だ。それは認めざるをえない」
「う……」
「母星の連中にざまあみろと言うには、まず俺たちがここで生き延びないとならん。そっちが先だよ」
俺のセリフが聞こえたんだろう。大勢の職員が一斉に立ち上がって移動を始めた。
俺は、自分自身に言い聞かせる。
「
【第二十九話 あばよっ! 了】
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