2.

 私が最初にその能力……いわゆる『霊視』……を自覚したのは、たぶん幼稚園に通っていた時だったと思う。

 ひょっとしたらそれ以前にも『見えていた』のかも知れないが、幼い頃の事なので憶えていない。

 ある日、幼稚園の教室で、黒いモヤモヤとしたが、沢田という若い女の先生の右肩にまとわりついている事に気づいた。

 それは常にグニャグニャと形を変えながら、触手のようなものを何本も伸ばしたり、伸ばしたかと思ったらまた引っ込めたりを繰り返していた。

 伸びた触手の先端は細かくピクピク震えながら先生の目や鼻や口を嫌らしくで回していた。

 肩の上に黒いグニャグニャした塊が乗っていて、その触手に顔中をで回されているというのに、先生は全く気にする様子が無かった。

 いや、気にしていないというより、そもそもその存在に気づいていないようだった。

 私は幼いながらもその黒い『何か』に禍々まがまがしいものを感じた。

 取りかれた先生本人も含めて、このことは誰にも言っちゃダメだと本能的に思った。誰かに言ったら今度は私自身の体にあの嫌らしい塊が乗り移るような気がしたのだ。

 一週間か、あるいは一ヶ月間くらいか、どれくらいの日数だったかは憶えていないが、とにかく私は幼稚園に通い続け、黒いモヤモヤしたを肩に乗せた沢田先生と同じ教室で過ごした。

 先生は、相変わらずに気づいていないようだった。

 が肩に取り憑いて以降、徐々じょじょに先生の体調は悪くなっていった。血の気のない青ざめた顔、荒れた肌、目の下のくま、げっそりせた頰……先生の健康が少しずつ害されているということは幼い私にも見て取れた。

 そしてある日を境に、沢田先生は幼稚園に来なくなった。

 理由は私たち園児には知らされず、ただ「沢田先生は急に幼稚園に来られなくなりました」とだけ告げられ、しばらくのあいだ園長先生が代理となって私たちの面倒を見た。

 一ヶ月か二ヶ月の後、新しい先生が採用されて私たちの教室を引き継いだ。

 沢田先生に一体いったいなにがあったのか?

 それが分かったのは一年後、小学一年生の時だ。

 同じ幼稚園に通い、そのまま同じ小学校に進んだ男子たちが、放課後に噂しあっている声が耳に入ったのだ。

「幼稚園のときにいた沢田先生……なんで急に居なくなったか知ってるか?」

「恋人に包丁で刺されたんだって」

「死んだの?」

 確か、こんな会話だったと思う。

 幼稚園を辞める直前の顔色の悪さから、てっきり先生は健康上の理由で園を辞めたのだとばかり思って居た。

 まさか、殺されていたなんて。

 それにしても、あの黒いモヤモヤした塊は何だったのか?

 私が『死神』という言葉を知ったのはもう少し後だったが、とにかく私はを不吉で禍々まがまがしい何か、触れてはいけない何かとして認識するようになった。

 誰かに話すことすらはばかられた。

 できれば見たくもなかった。

 でも、そういう訳には、いかなかった。

 一年に一度くらいの割合で、あの黒いモヤモヤしたを見るようになった。

 は必ず、人間の肩か背中にまとわりついていた。

 取りく人間はさまざま、私が目撃した場所もさまざまだった。

 通りを歩いていたOL風の女、母に連れられて行ったショッピング・モールの店員、信号待ちをしていたタクシーの運転手、映画館から出てきた大学生、ファストフード店にいた家族連れの父親……

 みんな、あの幼稚園の先生と同じように、精神的にも肉体的にも健康を損なっていそうな暗くやつれた顔をしていた。

 小学四年生の時、私の中でに対する嫌悪と恐怖が決定的になる事件が起きた。

 同じ小学校に通っていた小学二年の女の子が、母親とその内縁の夫に虐待されて亡くなったのだ。

 学年の違うその女の子と友達だったわけじゃない。

 全校行事で体育館やグランドに集合した時に、あるいは休み時間の廊下で、放課後の玄関で、校門で、すれ違ったり遠くで見かけたりしただけだ。

 肩から首のまわりにかけてあの黒い塊をまとわり付かせているから何処どこに居ても目立った。霊視能力のある私にとっては、という意味だが。

 肩に不吉なを纏わり付かせたその少女に声をかけたのか? と聞かれれば、いなと答えるしかない。

 私は、その名も知らぬ下級生の少女を、ただ遠くから見守っていただけだ。

 禍々しいものが見えたからといって……が誰かの体に取りいていたからといって、私には何も出来ない。テレビに出てくる霊能力者のように気の利いた呪文の一つも唱えられるわけじゃない。

 ただ『見える』というだけだ。

 ただ遠くから成り行きを『見守る』だけだ。

 私は本能的に、を恐れた。

 取り憑かれた不幸な人々に不用意に近づいて自分自身に害が及ぶのを恐れた。

 そして学年が二つ下のその少女は学校に来なくなった。

 何日かった朝、学校へ行くと、カメラやマイクを持った大勢の大人たちが校門を取り囲んでいた。

 その夜のニュース番組で、少女の母親とその情夫が死体遺棄の容疑で逮捕されたとアナウンサーが言った。

 アナウンサーのバックに、私たちの学校の校門が合成され映し出されていた。

 親たちにけられた死体遺棄容疑は、やがて児童虐待と殺人の容疑に切り替わった。

 私は自分の部屋に閉じこもり、ベッドの上でうつぶせになって泣いた。

 泣きながら、これが偽善者の涙であると自覚していた。

 私は誰かが困っていても……誰かが虐待され生命の危機に瀕していたとしても……誰かの不幸が、困っている人を助けもせず、ただ恐れ、遠巻きに見物しているだけの卑怯ひきょうな人間だ……そう思った。

 その後も『黒い塊』に取り憑かれた人々を時どき見かけた。

 しかしさいわいにも……と言うべきか、少女虐待死事件以降、同じ学校の生徒や近しい人々の中に取り憑かれた者は居なかった。

 近しい人でなければ……嫌でも毎日視界に入ってくる人でなければ……一瞬で視界から消えさるきずりの人ならば、それほど良心が痛むこともない。

 きっと私の知らないところで、取り憑かれた人々は健康な生活を害され不幸にみまわれ、やがて死ぬのだろう……でも、それこそ私の知ったこっちゃないよ……と自分に言い聞かせた。

 そしてこの『見える』という能力を誰にも(両親にさえ)明かさず、あくまで普通の女の子を演じながら成長した。

 公立の小学校からそのまま公立中学に進学し、高校は私立の女子校を選んだ。

 そして、とうとう……二年生で同じクラスになった咲希さきという少女の肩に、あの黒い塊が取り憑いているのをしまった。

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