第8話空虚の心が壊れるとき
凍てつく冬から十年も経ってしまった。
私の心は鋼から、輝きを失った金に代わった。化学でいう王水ですら融けない鎧が完成していた。
私は感情を遠い昔に捨ててしまった。母が病院に行くたびに声を上げて喜ぶ理由が分からなかった。
「ねぇ、ひーちゃん! あの
「ひーちゃん! 〇〇伯父さん、癌だって! もう余命少ないみたいだから、安田家の実態を教えに行かなくちゃ」
一方、金や節約の話になると、母は悲鳴を上げた。
「もう、何なの! ひーちゃんの話は難しすぎる。分かんないよぉ!」
こちらが悲鳴を上げたいくらいだった。母は嬉々として他人の不幸を喜んだが、その度私が困惑したことなど、未だに気付くことがないだろう。
私が憎むべき老害は、寿命や大病で一年ごとに亡くなった。私が三十一歳になるまでに十人は挙げられる。
これまで、私は自分の環境を作り出した者すべてを恨んだ。
時系列でいうと最初にいなくなったのは、トニーという父だった。
その次に伯母、伯父、従兄……何親等になるか分からない、顔すら覚えていたくもない老婆もいた。十年前の職員も、今は退職していると聞いた。
その度、私の感情を向けるベクトルを失った。そして今年、最後の憎親族が消えた。
母は生きているが、交通事故がきっかけとなり介護施設に世話になっている。
身動きできる者としては、誰一人としていない。
私のベクトルは方向を失った。
新たに憎しみを見付けるには、あまりにも疲れてしまった。
私が「私」でいられるには、どうしたら良いのか。
漆黒の迷路を彷徨い始めて三ヶ月後、自分探しを辞めざるを得なかった。
私が勤めていた会社が倒産した。
会社都合での退職を理由に雇用保険を受給したものの、いつまでも無職でいるわけにはいかなかった。
私は「私」が生きるための手段を掴む必要が出た。
それは、兆を超える存在の中から流れ星一つを手元に引き寄せることと同じくらい困難だった。
それでも、私は課せられた問題を解決しなければならない。
すでに崩壊した心が、たった一つしかない体の中で生きるために。
私は元々病院の受付業務をしていた。医療事務ではない。
求める平凡な人生のために資格を取得したかったが、あの冬の出来事が理由で何度も諦めた。
医療従事者としては地位が低いだろうが、仕事として口で生きてきたことには変わりない。
三十代に突入したこともあり、裏方や飲食店など、未経験の仕事に挑戦するという選択肢は浮かばなかった。
同時期に職を失った同世代の同僚が、フェイスブックのメッセンジャーを通じて毎日報告をしてきたからだった。
彼女は私と違い、異性の前でさえケラケラと笑う、ひまわりという名前通りの性格だった。
そんな人間が、再就職活動を始めた途端、数多の向日葵の種をボロボロと落とした。
タイヤショップの販売員、旅館の仲居、コーヒーショップの店長候補。
どれも、年齢の割には経験がないという理由で、不採用になった。
すっかり自信を失った彼女はハローワークに行くことを辞め、実家の農業を手伝うことになった。
それ以来、ひまわりの光を、ブルーライトに浮かぶ文字さえも見ることがなくなった。
一方、私はハローワークに通っているものの、求人票を眺めるだけという毎日を送っていた。
金の重みを誰よりも知っていると自負しているからか、地元の安月給にわざわざ身を投じようとは思えなかった。
雇用保険受給期間が終わると、私は無慈悲な男がいない福祉事務所に出向いた。
事情を説明し、再就職先が決まるまでという条件で、単身生活保護を受けることに成功した。
一ヶ月の国民健康保険料が一万五千円以上という圧迫から解放され、その上、事務所内の就職カウンセラーとの出会いを果たした。
同じ男性でも、公務員でも、これほど人格に差が出るのかと、保護受給一ヶ月目で驚愕した。
そして私は、遂に一筋の光を目の当たりにする。
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