第2話十年間求めたもの

 それから十年、三十歳の誕生日までに百万円の返還金を完済した。

 あの寒い夕方から、ひかり差すことなく。

 石油ストーブ、アナログテレビ、一人暮らし用冷蔵庫、電子レンジは必要最小限の電化製品と見なされ、安田家が押収された物体は一つもなかった。

 代わりに、一週間に一回、後任の三十代男性職員が記帳した家計簿と私の給与明細の提出を求めた。

 そのたび、母は弁論ができず大声で泣いた。

 半纏、ババシャツ、股引、レッグウォーマーを着用しても、涙一滴で全身が冷えていたようだ。

 手を握ると、氷像のようだった。

 私も制服の下にババシャツ、毛糸のパンツ、黒の六十デニールタイツを装備していたが、母のように冷えを感じることはなかった。

 冷えを察知する心の秒針が止まっていた。

 涙すら出てこない。

 成人式に欠席したことで自ら同級生と距離を置き始め、私には人情たるものが失せていたと思う。

 職員に手間をかけさせることに対する申し訳なさなど、演技以外の何物でもなかった。

 あまりにも薄っぺらく化けの皮にすらならない私を、母は恐れた。

 母の許容範囲を超えたのだろう。二十一歳の誕生日、初めて自分の出生を知らされた。

 またしても、私の心の秒針が一本折れてしまった。

 怒りも、悲しみもない。

 ただ、平たい顔立ちの母親とまったく似ていないことに納得した。

 多くの男子生徒が気味悪がっていたこの青い瞳の由来も、今では理解している。

 あくまで情報だ。そして、反面教師の教材でもある。

 すべてのシングルマザーが尊敬できるとは限らない。

 お金、教育、国の制度。すべてにおいて知識が一つでも欠けると子どもにツケが回る。

 やがて母子揃って破産する。

 経験者として、過ちを繰り返すことは許されない。その代償を払う存在が私にはない。

 私自身は結婚もしていなければ出産も未経験だ。

 先に生きる母が私の力になれるはずがない。

 母に子どもを産ませた男が手を指し延ばすことなど、なおさらあり得ない。

 誰一人信用せず、五年が過ぎた。

 二十五歳のとき、私は母とは真逆の人生を送るべく、返還金の支払いと貯蓄を開始した。

 毎月一万円を貯蓄用通帳に入れるのがやっとだったけれど、一年間で十二万の積み重ねを数字として目の当たりにした。

 節約に対するさらに熱い思い入れを感じ、私は空腹も物欲も感じにくくなった。

 すべては「まともな人生」のため。

 同僚にファッション費を抑えることに対して見下されたが、自尊心に触れることが一度もなかった。

 夫の収入に守られ、自分の小遣いだけを稼げば良いという状態の人間にとやかく言われる筋はない。

 彼女が私の返還金を代理で支払うことなど、言われなくても断るはずだから。

 誰も助けてくれない。すべては自分自身だ。

 家族にすら心を許さず、恋人を作ることなく五年が過ぎた。

 三十歳の誕生日、私はようやく母の生活保護返還金を完済、同時に自分の貯蓄が六十万円を達した。

 母の小遣いのやりくりをしながらの生活は決して楽ではなかった。彼女に節約する意味、目的を説得するにもずいぶんと精神力を消耗した。

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