春の夜祭

文芸サークル「空がみえる」

 

春の夜祭よまつり

                     文芸同人「空がみえる」作




 天国は本当に実在したんだよ、だけど、やっぱり帰ろうと思ったんだ、と夫がうそぶいたのは、酷い交通事故に遭い、昏睡状態から漸 ようよう回復した直後であった。予断を許さない状況下、妻は片時も夫の傍を離れずに寄り添っていた。深刻な生死の境を彷徨ったはてに、心電図等医療器具に繋がれて病室の寝台に横臥しているままの夫は、不安と安堵の混在した精神状態が瞭然とした己の細君さいくんを優しく慰撫するかのごとく、空回りの冗談が口をいて出ただけであったかもしれないのだが、言葉を紡いだ口調は妙に真剣味を帯びていたので、悲哀と痛切とが凝固した妻の感情を氷解させ、すると彼女の双眸から汪々おうおうたる涙の粒が滂沱と溢れ出た。齢二十八年の人生において、彼女は夫の生還に面際したこの日、絶後たる勢いで我を忘れた号泣の衝動に支配されるしかなかったのである。

 妻は両の掌で、夫の左手を、慈愛に満ちた皮膚の温度を伝わらせて包み込んでいた。

 夫の右腕は、根元から失われていた。隻腕になってしまった。

 夫の天国昇天談は続いた。それは夫自身の原体験を克明に映写した情景の描写であった。妻は威儀を正し傾聴した。伴侶が奇跡的に息を吹き返したことを心底休神するべき筈であったのに、妻はさながら、老い先短い肉親の遺言を一字一句聞き逃さぬよう、全神経を総動員し、夫の訥々とつとつと続く物語の聞き手に回った。

 そのような顛末の結果、夫の休職期間中、東京をあとにして郷里で過ごすことを彼に提案されると、妻は一も二もなく首肯し、異存を皆無に賛成した。存命している両親からの承諾が得られたのは、夫の実家が二世帯住宅になっており、祖父母が両方他界し、離れの家屋が空いている、それだけの額面通りに実際的な理由でしかなかった。練馬区の自宅マンションについて、妻の従姉家族に管理を任せるに始末が整った。必要最低限の荷物だけを自家用車に積み込み、夫婦は都内の喧騒が遠い、大学進学の為に上京するまで夫が暮らしていた彼の故郷へ出発した。秋のない、長引く色濃い晩夏から忽然と無彩色の季節に急変したような歳末の慌ただしい出来事であった。

 代々江戸っ子家系の妻が、異郷での新生活に順応してきた頃、暦はもう四月を数えていたが、地方柄の気候で毎日煖房が欠かせなかった。自家用車の給油と灯油の購入を済ませた夫妻は、夕餉ゆうげの鍋の買出しの為に、次にその帰路の途上にあるスーパーマーケットに立ち寄った。助手席の夫は、店内の駐車場で車を後進させている妻を横目に一瞥し、隣の運転が終わるまで大人しく降りるのを待つ。彼の左手は伸びていた。そして、反対側の肩から先は、厚手の冬着の袖が不自然に垂れ下がっている。あたかも車に乗っている最中の彼の内心を物語っているかのように、弱々しく、しなびた風に、重力に従っている筈が、波々と連なる幾つもの皺の襞が本来あるべき存在の欠如を如実に示している。

 彼は隻腕の日々に適応できた。社用車を走らせていた就業中、車道を逸脱し電柱に正面激突したという不慮の交通事故を起こし、搬送先の病院で右腕を肩先から切断する手術を施されたのである。首から上にも点々と傷痕が残っており、就中なかんずく、凍り付いた痙攣のごとき左目尻の裂傷と、打ち所の悪かった頬骨の変形は、最早彼に事故を境に別人へと豹変させたと思われるほど、その風貌の印象を異形にした。現在の彼は、自ら運転する術は持たないのは勿論、助手席に腰を下ろしている状態でも、事故の衝撃が脳裡に鮮烈として甦り、心気的に窮屈な胸の苦しみを屡々しばしば覚える。安全運転が第一の妻の隣に座っている時でさえ、いつどこで、いかなる不運が飛び込んでくるかしれない。それでも退院当初よりは、乗物に対する恐怖症は幾分緩和されてきた。こうして妻の運転に同道するのも、彼にとっては社会復帰を目標とした訓練の一環という思惑も含まれている。

 妻がエンジンを切るまで、彼は身動きを取らなかった。ハイブリッドの微弱な静音と振動が完全に消え去ると、彼は初めて左手でシートベルトを外し、扉を押し開ける。扉を目一杯、限界まで拡げ、そして開ける時より若干の強い膂力りよりよくでしっかりと元の位置に戻す。車体越しに妻の姿を認める。まだ買物の時間帯でもないのだが、外は暮れないうちでも肌を突き刺すように寒く、冷たい。二人は足早に店内へと移動していった。のべつ幕なしに流れる騒々しい音楽の下で、買物籠に溢れそうなくらいに鍋の材料を積み上げると、会計に足を運び、暇そうに突っ立っている店員の前に立ち止まる。会計台に二個の重い籠を置くと、妻の方は滑るように清算の側へ横に動いたが、夫は年輩の女性である店員に明朗な声で挨拶を投げかけると、気さくな様子で肘が直角になるような具合に片腕を挙げるのであった。夫の目尻の傷痕は温かい表情になると、中年ならではの細かい皺と同化し、見分けがつかなくなる。

「やあ! お疲れ様!」と、夫が晴々しい気勢の言葉を向けるや否や、年輩女性の店員も、パッと晴れやかな笑顔を返し「あら、まあ! こんなに買い込んで、今日も夜通しどんちゃん騒ぎなのね」と世間話を始める。その手は流れ作業で商品を読み込ませている。妻は半ばぞんざいな仕草で一万円札を置いていたが、それは彼女の機嫌が悪いのではなく、常日頃からの性格からであった。その証拠に、客と店員の垣根を外して雑談している二人を、奥床しく淑やかな、何事にも麗しくなだらかに対応できる人柄を窺わせる沈黙で静観する。

「本当に災難だったわねえ、腕、利き手なんでしょ。自家うちの息子と中学の頃に野球部で一緒だったわね、貴方は三年間、ずっと投手で、豪速球の右腕だって、ねえ」

「その自慢の右腕だってさ、今やこの有様だよ! そういう昔話は老人の悪癖だよ、おばさん。生活の方も心配は要らないよ、今はしばらく休養して、焦らずゆっくり、先の身の置き方を考えるさ」

 妻は夫が中学時代、部活動に青春を費やしていた過去を今ここで知った。

 既に釣り銭を受け取る姿勢である妻に、小柄でふくよかな、いかにも近所の世話焼き好きな為人ひととなりが見て取られる店員婦人は、全ての商品を迅速にかつ丁寧に詰め直して通し終えると、それと同時に無言で佇んでいる妻も会話の輪の中に入れるべく大仰なほどの笑顔を真っ向から差し向けた。

「奥さんも大変ねえ、ただでさえ主人が、ねえ……何て言えばいいのかしら……」と、あからさまに夫の右の袖を盗み見しながら、「旦那の実家に身を置いて生活するなんて、今日び立派で殊勝なお嫁さんだわ、本当に、こんな田舎で暮らすなんて、東京の人には何かと不便でしょう、相談があればいつでも言ってよ、助けに行くわね」など延々と喋り続け、大袈裟な仕草を挟み、「そうそう、私の下の息子は役所に勤めているのだけど、年度の異動で障害者福祉の部署に配属されたって、もしかしたら、自家の子がお二人に職場の窓口でお世話になるかもしれないわね」と、図々しく恩着せがましい発言を並べる。夫は磊落に哄笑する。それに対し妻は、模範的な礼節めいているが、尚且つ曖昧な、幾分謎めいてすらいる、肯定や否定を含んでいない、愛想の欠片も浮かんでいない透徹とした表情であった。店員婦人は相変わらず笑顔のまま、空気に困ったように再び夫の方を見やる。妻の側からでは、その横顔に陰険な感情が見え透いていた。有料の袋を山積した商品の上に置く腕が、更年期障害特有の岩漿的感情の噴出にも似た勢いで振るわれた。

 夫は至極快活な調子で訣辞を会計台に残し、妻を追った。籠の中身は整然としている。だがしかし、妻はその意味するところを明瞭に察知していた。客が袋に詰めなければならないので、籠の段階で几帳面に整頓されていると、一先ず全体を転覆させなければならないので、構造的に上下があべこべで、物理の条件から二度手間なのである。夫が振り返り会計へ左手を振ると、それに親しげに応える年輩店員は、黙々と袋めを行なっている妻の背中に、細めた双眸の中から覗く、余所者よそものと認識しているが故の鋭く密やかな敵愾心の視線を注いでいた。田舎を見下す東京人の小娘め、と瞳の奥底が陰々炯々いんいんけいけいとぎらついていた。

 改めて自宅への帰途に着くと、道中、夫は同じ中学校の野球部で仲間だった旧友の話をした。妻は運転に集中しながら、耳だけをそちらに寄せていた。互いの自宅も町内で近く、親睦が深かったのだと夫は語った。車内は夫の趣味で邦楽のロック・ミュージシャンが流れている。赤信号に捕まったと同時に偶然途中からだった再生曲が次の楽曲に替わる。些か喋り疲れたのか夫は口を閉ざす。音楽は張り詰めた透明感のある分散和音アルペジオに始まり物悲しげな旋律が重なり、小刻みな律動で進むハミングが交わる演奏へ転換すると、すぐまた、今度は四弦重低音の短い間奏が挿入され、そして囁くような歌唱に進行した。夫は再生に合わせ、歌詞を小声で口ずさむ。夫の歌声を通じて強調される歌詞の節々が、妻には自分に送られているのであるまいかと錯覚された。

 二人が帰宅すると、週末恒例の鍋の宴には早い時刻であったが、一名、先客の靴が無雑作に玄関に転がっていた。安物の履き潰されたそれは、一目で義弟であると妻に察せられる。彼女の推理は正解で、義弟は勝手知ったる離れ家屋の中から顔を覗かせた。既に若干仕上がっている酔顔を呈している。妻は柔和に微笑んだ。彼女に無神経なほどの馴れ馴れしさで挨拶した義弟は、その手に提げられている中身の大量の買物袋を一つ引っ掴むと、晩餐を待ち焦がれる風に踵を返した。灯油缶をいつもの場所に置く夫を余所よそにして、妻は家屋と自動車を往復し、もう一つの買物袋を後部座席から居間の方へと移動させた。夫が遮二無二なって不器用に電気ストーブの容器を取り出し、灯油を補給しようとしていたので、妻がそれをそっと制止し、途中で交代した。

 妻が灯油容器を持って居間に行くと、唯一の足である原付自転車を見かけなかったことを義弟が兄から指摘されていた。すると二束三文で売却したと返答が来たので、兄の方は満更でもなさそうに渋面を作った。

 鍋は複数の種類を並べるので、下拵えに時間を要する。妻は手短に夫の確認を得ると、居間と仕切りがない台所で準備に取りかかった。

 彼女が要領良く炊事をこなしているその背中の先では、兄弟が他愛もない会話を広げている。

「また、玉を打って、金と時間を無駄に浪費したんだろう」

「その通りなんだ。今月の家賃が危なくて、嘘偽りなく、切実に金欠だ」と、悪びれもせず、弟が笑声も織り交ぜて言った。

 この兄弟は同じ腹から産まれたとは思えないほどに対称的で、甲は勤勉な優等生、乙はのらくらの道楽息子であった。手を焼いた両親は、下の息子に脛を囓らせない為に家から叩き出したが、結局飲む打つ買うの放蕩癖は直らず、度々実家に赴き金銭をせびっては、刹那的な享楽に費やすばかりである。箸にも棒にもかからない専門学校を中退して以降、怠惰と奔放に拍車がかかり、最早母屋の方では勘当同然にあしらわれてしまう始末である。しかし、兄の帰省が家族の図式を一変させた。それまでは弟も最低限のやましさと後ろめたさから、冷遇を受けるしかない実家と心情的に距離を取っていたが、良くて寛大、悪しきは情に弱い、そうした兄の存在が元来の図々しさを増幅させ、来訪の頻度が多くなっていた。兄もまた正反対な気性の弟と不思議と馬が合うので、慢性的に窮乏している弟に馳走を図り、経済的な援助、むしろ寄生虫に自ら餌を与える真似をしているのであった。弟の野放図で利己的な、業突張ごうくつばりな側面の別には、兄にのみ理解が通っている感情の線が潜んでおり、結果として弟の実家の敷居を跨ぐ難易を軽くしていた。

 居間の中央の大きな座卓があり、兄弟は斜めに腰を着ける。冷蔵庫の麦酒が一個、空けられていた。最後の一口が先客の喉に嚥下された。

 妻がスイッチを押していた電気ストーブが稼働を始める。弾ける音に続き、重々しい熱の波動が音波と共に室内へと浸透し始める。

「家賃か」と、麦酒を飲み干した弟を虚心に傍観し、兄は殆ど芝居の稽古みたくな調子で改まった。同時に弟も先だって裏を取っていたかのごとく相好を崩す。「支払は銀行振込だろう、明後日の月曜日、用意しておくから」

「コンビニなら、今すぐにでも引き出せるじゃないか」

 だがしかし、兄は意見を曲げなかった。台所で立ち働く妻を一瞥し、相手に対して迂遠に事情を確かめさせようとする。町内でも農村に近い自宅は、最寄のコンビニエンス・ストアへ気軽に歩いて行ける距離ではない。夕餉の仕度に入っている妻を、再びわざわざ外に出すのは、彼の腑に落ちない段取りである。まして、仮に弟を商店に連れると、あれこれと購買で無用な出費になるのも必至である。休職中の月々の手当と貯蓄があるといえども、兄は自分なりの節度を以て弟への便宜を図っている。

 兄の思惑を汲み取った弟は、家賃の立替えと、あわよくば煙草の一箱でも奢られようとしていた皮算用を引っ込め、執拗に食い下がろうとしなかった。弟は嫂の黙々とした動作に目を投げた。兄弟の同じ視線の先で、妻は颯然として鍋仕度に専念している。今夜は水炊き、味噌、朝鮮漬物の三種類を揃えた。

 兄は週末の鍋を毎度存分に楽しんでいた。旧知の間柄を招き、鍋を囲むのは、現在の彼にとって至福の夜であった。仕事の接待で予定を立てた晩餐よりも、格段と自宅で催す週末鍋の方が愉快であった。妻が居る。弟が居る。肝胆相照らす友が居る。鍋の調理の仕上がりよりも、席の顔触れが何よりの醍醐味であった。

 座卓を一つ追加し、宴の席を拡大すると、時を同じくして招待した面子がぽつぽつと揃ってきた。地元の国立大学を出た中学教諭、農協職員、うだつの上がらないフリーター、離婚して帰郷したシングルマザーの順番で離れに訪れ、今晩は夫婦と義弟を含め、男が五、女が二、合計七名の人数となった。

 鍋もガスコンロの上に移し、横に並べた形で、いずれもがぐつぐつと音を立て、箸が付けられるのを待っている。

 さあ、始めよう、と夫が口火を切った直後、妻は奥床しく腰を上げ、手洗いに向かった。どのように謙虚に振る舞っていても、夫の地元の人間関係に、依然も壁を感じている。だがしかし、夫の破顔し、和気藹々と歓談する様子を見るのは安穏であった。上半身が片輪となった夫の、それによって郷里に移り住み、真実の素性を臆面もなくさらけ出している横顔を見ると、妻は余計な心配や不安が和らぐのを実感する。彼女は仮にこの土地で夫が再就職を決心したとして、何一つ反対の意思を持つことはないと自覚していた。

 風呂場に隣接している手洗を出ると、尿意を催したので順番を待っていたのか、扉の外に佇む義弟と遭遇した。妻は一瞬、当惑したが、足を滑らせて場所を譲ろうとした。すると義弟に擦り寄られた。この無軌道な暮らしに沈没している男が、妻は内心では好印象を抱いていなかった。

「大変だなあ、義姉ねえさん、兄貴の右腕代わりを強いられてさ、えッ」

 妻は先刻の店の会計と同様、漠然とした表情を努めて浮かべた。休職を満喫している夫自身に対して、何ら隔靴掻痒たる心持ちを向けていない。むしろ、周囲を取り巻く多くの他人の、その一方的で身勝手な、自己中心的な同情心が煩わしかった。それは越冬の歳月で嫌というほどに思い知らされた。夫は隻腕であるのを前途の死活問題としていない。それなのに、周囲が、彼を知る誰もが、そうした幾分豪放な楽観で構えている夫への、無神経な、押し付けがましい善意や憐憫が微かな癪だった。本人は極めて自然体であるのに、片腕の欠損という異分子に注視を突き刺し、得手勝手な拡大解釈を加える人々を前にすると、妻は殊更にそつのない態度を前面に出すのである。

 居間へ戻ろうとする妻を、義弟が正面に回り込んで阻んだ。

「兄貴とはどうなんだい、満足しているのかい」

 妻は発言の意図が解せなかった。数秒置いて、義弟の下卑た、蟒(うわばみ)で、品のない想像を察した。それは妻に生理的嫌悪感を覚えさせた。妻は一貫して潔白に受け流し、義弟と壁の隙間を通り抜けようとした。

「持て余しているんだろう、素直になりなよ、何だったら俺が相手をしてやってもいいんだから」と、義弟が遂に単刀直入な本音を吐露した。それは忌まわしき劣情の腕となり、妻を拿捕しようと絡み付く。妻は薄暗く狭い手洗前の廊下で、首だけを義弟に向けると、店の会計の場合と同然に、明白な感情の含まない、のっぺらぼうめいたおもてを顕然とさせた。

 鼻白んだ義弟は、それ以上の付き纏いを諦め、先に居間へと退散していった。妻はもう一度、手を洗いたい気分になった。ここからでも、鍋の盛況が響いてくる。片輪の旦那を背負っている、その重荷から解き放ってやろうというのに、そのような私利私欲の肉声が、妄想の形態をなして、自身の胸中を毒して来ているかのごとき邪念に囚われた。

 妻は居間に戻ると、夫に耳打ちし、母屋へ義理の両親にも同席の誘いを促す旨を伝えた。鍋をつついての談話の花は、やはり夫の不具について咲いていた。その談笑は、母屋へと向かう途中の妻の耳にも届いていた。

 母屋では、夫の両親が、広々とした殺風景な居間でそれぞれ寛いでいた。週末夕刻の情報番組を無関心に視聴している舅の傍らで、肩を並べてソファに座っていた姑が、律儀に一言断りを置いてから姿を見せた妻に「どうしたの」と声をかけた。妻は舅姑の両方と良好な関係であった。夫の両親からすると、上京して都会の女を娶った長男は、まさしくその妻の存在が家に飾る錦である風に接していた。

 用件を告げられた老夫婦は、既に夕飯を済ませたと言って、離れの宴に参加するのを固辞した。いわんや、妻の心の所在する箇所も見抜いていた。

「こっちにいていいのよ」と、姑が矢庭やにわに言葉を発した。背筋を伸ばして立っている妻は、義弟との応酬の嫌な余韻を、その一言で霧散させられた心地だった。

「ねえ、こっちにいていいのよ」という、恬澹な性格の姑の発言は、今の妻に、一服の安らかな疾風のごとく感じられ、心が揺れた。

 鍋の宴はたけなわであった。妻は夫の右隣に座し、利き腕を失った彼の為に、齷齪と世話を焼いた。毎日の努力の賜物で箸を使うのに苦労しなくなったが、やはりいまだと実生活の彼方此方あちこちで支障があった。

「花見をやろう」と、夫が快活に言った。鍋の席は満場一致の大賛成であった。

「今年は寒さが長引くね。桜前線の話も聞かないな」

 義弟が相の手を挟む。

「散歩がてらに観察しているけれど、今月中には桜も咲くだろう。是非とも盛大に大会を開こうじゃないか」

 小酔声で、夫は場を乗り気にさせた。妻にも意向を問うと、芳しい反応が返ってきた。電気ストーブと鍋の湯気が綯い交ぜとなり、居間全体が蒸し風呂のようになっていた。

 時刻が二十二時を数えると、鍋も空になり、それぞれが暇乞いをした。夫は風呂は翌朝にすると言い、寝室がある二階へ上がって行った。

 妻は、後片付けを終えると、軽くシャワーを浴びるだけにして、寝巻姿で夫婦一緒に使っている蒲団に入った。傍らの夫は仮寝に近い状態で、漸進的に睡魔が訪れているのか、彼女が蒲団に入ってきたことも、気付いたか気付かずにいるかの模糊たる様子であった。彼女は眠気がなく、全くの明瞭たる意識の上で蒲団に横臥していた。極力全身の緊張を解して寝る態勢に移ろうするが、頭脳はそうした心向きに従わず、彼女は益々覚醒の持続に鬱屈とするばかりである。彼女は特段、夫の日々の姿勢に不平不満を持っているのではない。死の瀬戸際まで陥った夫が生きているだけで、それ以上の何を希求するというのであろう。それは不相応な分際の贅沢であると、彼女は分別を弁えている。だがしかし、彼女は夫に附随するあらゆる周囲の他人が露呈する、好奇と忌避じみた目線、明け透けな同情の中に見え隠れする独善的な観念に徐々に神経を磨耗させていた。そのような彼女の心境は、脈絡もなく東京時代の回想へと彼女を送り込み、そして電気毛布を敷いた温かい蒲団にくるまり、明かりを落とした寝室で、夫の気配を身近に感じながら、その夢想に半ば強引に連れ去られた。「花見をやろう」という夫の声が、残響となって就寝の形をとっている彼女のもとへと去来した。結婚当初、小金井の公園で二人、現在と変わらない時季に夫婦だけで夜桜を観に行った記憶が甦った。僅かもおくびに出さなかったが、夫は愛着のある郷里を生活の拠点に置きたがっていたに違いない。彼女は帰省してからの夫の破天荒ぶりに、そのような解釈を自らに与えている。夫が上京したのは現実上の条件に占められたに過ぎず、更にまた、妻である自分自身との馴れ初めもそうした夫の地元との絆を消し去る効果として作用しなかったのだろう。妻は暗い天井を凝然と見つめていた。眠ろう、眠ろうと、頻りに自分に言い聞かせるのだが、却って頭脳は強い思考の為に活溌に冴え、意識の鮮明度は高まり、研ぎ澄まされた刃物のように、あるいはまた、燃え盛る炎から飛沫のごとく散る火の粉のように、彼女を捕えては放さない。夫は到頭とうとう睡眠したようだ。規則的で健康的な寝息が彼女の左の耳朶を微かに擽る。気の合う仲間と鱈腹の晩餐を楽しみ、そして翌朝目を覚ますと、これといって予定のない徒然と安息の出来る日曜日である。経済的には今年度も充分に安泰な懐事情である。収入が危うければ、妻は自分が働きに出るのを厭わない。それは夫を愛しているからなどという浪漫な思慮ではなく、より夫婦という社会的最小限の共同体を維持しようとする本能的な直観の所以であった。彼女は夫の郷里に骨を埋めるであろう確固たる予感を、動揺もせず、小さな迷いの断片もなく、純然と受容している。人生の伴侶が死地から戻ってきたのならば、いかなる出来事に対する可能性の想像も容易いというものである。次は真実、突如として死別が訪れるかもしれない。次に夫が失うのは、肉体ではなく魂であるかもしれない。そのような想念を実際の暮らしの模様と照らし合わせると、否応になく二人の個的な連帯だけでは済まされないのっぴきならない環境が眼前に展開される。彼女は誰も憎んでいなかった。誰も恨んでいなかった。誰も嫌ってすらいなかった。個人の人格と言動を峻別していた。なればこそ、あたかも推理小説の作中人物が全員、殺人事件の犯人であるのではないかという支離滅裂な思考の構造を、自ら脱却させることも難しかった。彼女は川端康成『片腕』という小説を想起した。いつどこで何の由来で読んだのか、記憶は定かではないが、内容を鮮明に思い出すことができた。水入らずの扶助で暮らしを立てていかねばならない夫婦であればこそ、自分の右腕を、夫の肩先に接着させられるとならば、彼女は安易なまでにその魔界的な行為を躊躇なくするであろう。夫の肉体の欠如は何ら夫婦生活に汚点も瑕疵も刻むことなく、ただ不易な事象として昨日より遥か遠くの時系列の彼方にある。過去の事実として夫婦相互に決着がついている。だがしかし、夫を隻腕の障碍者と認識する大勢の人間の無自覚な振る舞い、無神経な冗談、些か尋常な良識を欠く冗談が、彼女を慢性的に疲弊させていた。桜はいつ、開花するだろうか。彼女は取り留めもなく推量した。しつこい夏と秋のなかった分だけ、冬は厳しく四月を襲っている。沖縄や九州に知人がいれば、桜花の蕾具合を伝聞するのも手段であるが、悲しいかな、彼女は自分が狭小な世間の中で育ってきた人物であるのを痛感させられるだけであった。弛緩した連想を続けていると、うつらうつら、彼女も舟を漕ぎ始める。次第に現実の輪郭がぼやけて薄らぎ、彼女は強調されて聞こえていた心臓の拍音からも解放された。寝室は眠りに満たされる。明日は必ず訪れる。夫の右腕は東京に置き去りにしたまま、かけがえのない日々を続けていかなくてはならない。彼女は悪夢を見た。それは夫の子を身籠り、出産したが、先天的に右腕が欠損した嬰児であったのだ。そして悪夢の場面が唐突に切り替わり、今度は畸形の癒着結合(シヤム)双生児を孕む夢であった。彼女は飛び起きるようにして瞼を開けた。冷たい静謐が宇宙のように暗く茫漠とした寝室で空気と同化し、微細な遍在と循環をなしている。彼女は殆ど無意識に夫の右肩に手を触れた。儚い切断面の皮膚の感触が伝わってきた。仮にもし夫の種を孕むのであれば、我が子も宿命的な畸形を負わされるのであろうか。強迫的な愚にも付かない妄念が彼女に取り憑いた。地鳴りのような鈍重な衝動が、彼女の奥底で唸りを上げる。「花見をやろう」という夫の声が、幻覚として彼女の鼓膜を介さず頭脳に直接響いた。それは自分に対する断固とした命令に思われた。希望的観測を客観的な事実として形成させなくてはならない、そのような短絡的で、線を結ぶのではなく、点と点を一跨ぎにするような、論理の飛躍じみた執念の萌芽を呼び起こした。それは拡大と分散を繰り返し、差し縺れる情念の束を増幅させながら、彼女の内部で堅牢な熱の塊へと変化していく。彼女はそっと蒲団を出た。寝室の扉が開け閉めされるのも、眠り耽っている夫には気付かれなかった。彼女は足音を消して階段を下り、暗がりの中を居間へ移動すると、電気ストーブの容器を取り出した。忘れずに百円ライターも寝巻のポケットに潜らせ、そのまま取って返すように玄関へ向かい、夕方にガソリンスタンドで満杯に買った灯油の青い缶を空いた手の方に引っ提げて、両手が塞がっているにも関わらず車の鍵を指に引っ掛け、そのような状態であるから、玄関を開けるのも一苦労であった。一旦手荷物を地面に置くという選択肢が思い浮かばないほどに、彼女は熱にうなされたように、悪夢の残滓に背中を押されていた。何者かに付け狙われている感覚、それは彼女に酷く現実味を帯びた形で迫っていた。そして頭脳の片隅で、尋常の境界線を踏み越える事因は、存外に卑近なものであるのだろうと冷静な客観視を据えていた。彼女は迅速に容器と灯油缶を車の後部座席へ放り込むと、自身は運転席に回り、シートベルトを着用し、至極模範的な整然とした動きでもつてエンジンを目覚めさせた。時間帯からして、新聞配達の二輪くらいしか公道を走る音はしない。そんな静寂の中、彼女は車を発進させる。義弟の住所である木造アパートには、出発から十分程度で到着した。敷地内の駐車場へは入らず、塀に沿って停車させた。エンジンは回したままにした。彼女はまず電気ストーブの容器を使い果たす心算で、それだけを手に持って二階建て八部屋の木造アパートの裏手に足を進める。息が白く凍り付いていたが、なぜかしら肌は苛烈な寒さを物ともしなかった。容器が開封され、アパートの壁に中身がぶちまけられる。そして彼女は、ポケットから取り出した百円ライターを点火し、そこではたと顔色を変えた。火を消し、寝巻の裾を膂力で千切った。そして再び火を点け、切れ端を燃やすと、その火種をアパートの壁に向けて放擲した。火の手は驚くほどの速度で膨張した。対称的に氷のような夜風が彼女の周辺を通り過ぎた。車へ戻り、塀を越して燃焼の度合を見守っていると、着々と昂然たる火焔が勢力を増していくのを確認し、木造アパートを後にした。義弟はよく寝煙草をする。それで何度かこのアパートの管理人から厳重注意を受けていることを彼女は思い出した。車を運転する彼女の頭の中は乱雑になっており、だがしかし、彼女の意識は明確な焦点を喪失していなかった。どれだけ散漫な思考に陥っていようとも、凝固した感覚の針によって秩序だった行動を貫くことが可能であった。次に彼女はスーパーマーケットの店員婦人の邸宅前に車を停め、正面の門から堂々と侵入した。今度は重い灯油缶を携え、義弟の木造アパートと同じ行動を繰り返した。灯油は明日の分くらいは残しておいた。この土曜未明の、彼女の一連の行動を目撃した者は誰一人いなかった。彼女は帰宅を果たし、電気ストーブの容器に缶に余った灯油を移すとそれを本体に直し、そして車や自宅の鍵、百円ライター、あらゆるもの全てを元通りに戻し、それこそ手洗の為に起きただけであったがごとく、平然とした足取りで寝室まで辿り着いた。もっと灯油があったらよかったのに、それなら今晩中に鍋の面子全員のもとへ回れたのかもしれない、と考えながら蒲団に我が身を横たえた。体躯を隣接させる夫婦の距離は、夫の右腕が欠けた分だけ僅かな隙間が生じている。夫は寝相を変えることなく、深い熟睡の淵で無防備に鼾なのか喉を鳴らしているのか判別のつかない大きな寝息を立てている。妻の冷えきった身体は、電気毛布と夫の体温を通じて、初めてその温度変化に伴う感覚を喚起させられた。それでも彼女の冷静沈着な精神は固まったままであった。彼女はそれから、今日はぐっすりとよく眠ることができるだろうと思った。

                              〈了〉



♪ナイフ / La'Mule

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