春の夜祭
文芸サークル「空がみえる」
春の
文芸同人「空がみえる」作
天国は本当に実在したんだよ、だけど、やっぱり帰ろうと思ったんだ、と夫が
妻は両の掌で、夫の左手を、慈愛に満ちた皮膚の温度を伝わらせて包み込んでいた。
夫の右腕は、根元から失われていた。隻腕になってしまった。
夫の天国昇天談は続いた。それは夫自身の原体験を克明に映写した情景の描写であった。妻は威儀を正し傾聴した。伴侶が奇跡的に息を吹き返したことを心底休神するべき筈であったのに、妻はさながら、老い先短い肉親の遺言を一字一句聞き逃さぬよう、全神経を総動員し、夫の
そのような顛末の結果、夫の休職期間中、東京を
代々江戸っ子家系の妻が、異郷での新生活に順応してきた頃、暦はもう四月を数えていたが、地方柄の気候で毎日煖房が欠かせなかった。自家用車の給油と灯油の購入を済ませた夫妻は、
彼は隻腕の日々に適応できた。社用車を走らせていた就業中、車道を逸脱し電柱に正面激突したという不慮の交通事故を起こし、搬送先の病院で右腕を肩先から切断する手術を施されたのである。首から上にも点々と傷痕が残っており、
妻がエンジンを切るまで、彼は身動きを取らなかった。ハイブリッドの微弱な静音と振動が完全に消え去ると、彼は初めて左手でシートベルトを外し、扉を押し開ける。扉を目一杯、限界まで拡げ、そして開ける時より若干の強い
「やあ! お疲れ様!」と、夫が晴々しい気勢の言葉を向けるや否や、年輩女性の店員も、パッと晴れやかな笑顔を返し「あら、まあ! こんなに買い込んで、今日も夜通しどんちゃん騒ぎなのね」と世間話を始める。その手は流れ作業で商品を読み込ませている。妻は半ばぞんざいな仕草で一万円札を置いていたが、それは彼女の機嫌が悪いのではなく、常日頃からの性格からであった。その証拠に、客と店員の垣根を外して雑談している二人を、奥床しく淑やかな、何事にも麗しくなだらかに対応できる人柄を窺わせる沈黙で静観する。
「本当に災難だったわねえ、腕、利き手なんでしょ。
「その自慢の右腕だってさ、今やこの有様だよ! そういう昔話は老人の悪癖だよ、おばさん。生活の方も心配は要らないよ、今は
妻は夫が中学時代、部活動に青春を費やしていた過去を今ここで知った。
既に釣り銭を受け取る姿勢である妻に、小柄でふくよかな、いかにも近所の世話焼き好きな
「奥さんも大変ねえ、ただでさえ主人が、ねえ……何て言えばいいのかしら……」と、あからさまに夫の右の袖を盗み見しながら、「旦那の実家に身を置いて生活するなんて、今日び立派で殊勝なお嫁さんだわ、本当に、こんな田舎で暮らすなんて、東京の人には何かと不便でしょう、相談があればいつでも言ってよ、助けに行くわね」など延々と喋り続け、大袈裟な仕草を挟み、「そうそう、私の下の息子は役所に勤めているのだけど、年度の異動で障害者福祉の部署に配属されたって、もしかしたら、自家の子がお二人に職場の窓口でお世話になるかもしれないわね」と、図々しく恩着せがましい発言を並べる。夫は磊落に哄笑する。それに対し妻は、模範的な礼節めいているが、尚且つ曖昧な、幾分謎めいてすらいる、肯定や否定を含んでいない、愛想の欠片も浮かんでいない透徹とした表情であった。店員婦人は相変わらず笑顔のまま、空気に困ったように再び夫の方を見やる。妻の側からでは、その横顔に陰険な感情が見え透いていた。有料の袋を山積した商品の上に置く腕が、更年期障害特有の岩漿的感情の噴出にも似た勢いで振るわれた。
夫は至極快活な調子で訣辞を会計台に残し、妻を追った。籠の中身は整然としている。だがしかし、妻はその意味するところを明瞭に察知していた。客が袋に詰めなければならないので、籠の段階で几帳面に整頓されていると、一先ず全体を転覆させなければならないので、構造的に上下があべこべで、物理の条件から二度手間なのである。夫が振り返り会計へ左手を振ると、それに親しげに応える年輩店員は、黙々と袋
改めて自宅への帰途に着くと、道中、夫は同じ中学校の野球部で仲間だった旧友の話をした。妻は運転に集中しながら、耳だけをそちらに寄せていた。互いの自宅も町内で近く、親睦が深かったのだと夫は語った。車内は夫の趣味で邦楽のロック・ミュージシャンが流れている。赤信号に捕まったと同時に偶然途中からだった再生曲が次の楽曲に替わる。些か喋り疲れたのか夫は口を閉ざす。音楽は張り詰めた透明感のある
二人が帰宅すると、週末恒例の鍋の宴には早い時刻であったが、一名、先客の靴が無雑作に玄関に転がっていた。安物の履き潰されたそれは、一目で義弟であると妻に察せられる。彼女の推理は正解で、義弟は勝手知ったる離れ家屋の中から顔を覗かせた。既に若干仕上がっている酔顔を呈している。妻は柔和に微笑んだ。彼女に無神経なほどの馴れ馴れしさで挨拶した義弟は、その手に提げられている中身の大量の買物袋を一つ引っ掴むと、晩餐を待ち焦がれる風に踵を返した。灯油缶をいつもの場所に置く夫を
妻が灯油容器を持って居間に行くと、唯一の足である原付自転車を見かけなかったことを義弟が兄から指摘されていた。すると二束三文で売却したと返答が来たので、兄の方は満更でもなさそうに渋面を作った。
鍋は複数の種類を並べるので、下拵えに時間を要する。妻は手短に夫の確認を得ると、居間と仕切りがない台所で準備に取りかかった。
彼女が要領良く炊事をこなしているその背中の先では、兄弟が他愛もない会話を広げている。
「また、玉を打って、金と時間を無駄に浪費したんだろう」
「その通りなんだ。今月の家賃が危なくて、嘘偽りなく、切実に金欠だ」と、悪びれもせず、弟が笑声も織り交ぜて言った。
この兄弟は同じ腹から産まれたとは思えないほどに対称的で、甲は勤勉な優等生、乙はのらくらの道楽息子であった。手を焼いた両親は、下の息子に脛を囓らせない為に家から叩き出したが、結局飲む打つ買うの放蕩癖は直らず、度々実家に赴き金銭をせびっては、刹那的な享楽に費やすばかりである。箸にも棒にもかからない専門学校を中退して以降、怠惰と奔放に拍車がかかり、最早母屋の方では勘当同然にあしらわれてしまう始末である。しかし、兄の帰省が家族の図式を一変させた。それまでは弟も最低限の
居間の中央の大きな座卓があり、兄弟は斜めに腰を着ける。冷蔵庫の麦酒が一個、空けられていた。最後の一口が先客の喉に嚥下された。
妻がスイッチを押していた電気ストーブが稼働を始める。弾ける音に続き、重々しい熱の波動が音波と共に室内へと浸透し始める。
「家賃か」と、麦酒を飲み干した弟を虚心に傍観し、兄は殆ど芝居の稽古みたくな調子で改まった。同時に弟も先だって裏を取っていたかのごとく相好を崩す。「支払は銀行振込だろう、明後日の月曜日、用意しておくから」
「コンビニなら、今すぐにでも引き出せるじゃないか」
だがしかし、兄は意見を曲げなかった。台所で立ち働く妻を一瞥し、相手に対して迂遠に事情を確かめさせようとする。町内でも農村に近い自宅は、最寄のコンビニエンス・ストアへ気軽に歩いて行ける距離ではない。夕餉の仕度に入っている妻を、再びわざわざ外に出すのは、彼の腑に落ちない段取りである。まして、仮に弟を商店に連れると、あれこれと購買で無用な出費になるのも必至である。休職中の月々の手当と貯蓄があるといえども、兄は自分なりの節度を以て弟への便宜を図っている。
兄の思惑を汲み取った弟は、家賃の立替えと、あわよくば煙草の一箱でも奢られようとしていた皮算用を引っ込め、執拗に食い下がろうとしなかった。弟は嫂の黙々とした動作に目を投げた。兄弟の同じ視線の先で、妻は颯然として鍋仕度に専念している。今夜は水炊き、味噌、朝鮮漬物の三種類を揃えた。
兄は週末の鍋を毎度存分に楽しんでいた。旧知の間柄を招き、鍋を囲むのは、現在の彼にとって至福の夜であった。仕事の接待で予定を立てた晩餐よりも、格段と自宅で催す週末鍋の方が愉快であった。妻が居る。弟が居る。肝胆相照らす友が居る。鍋の調理の仕上がりよりも、席の顔触れが何よりの醍醐味であった。
座卓を一つ追加し、宴の席を拡大すると、時を同じくして招待した面子がぽつぽつと揃ってきた。地元の国立大学を出た中学教諭、農協職員、うだつの上がらないフリーター、離婚して帰郷したシングルマザーの順番で離れに訪れ、今晩は夫婦と義弟を含め、男が五、女が二、合計七名の人数となった。
鍋もガスコンロの上に移し、横に並べた形で、いずれもがぐつぐつと音を立て、箸が付けられるのを待っている。
さあ、始めよう、と夫が口火を切った直後、妻は奥床しく腰を上げ、手洗いに向かった。どのように謙虚に振る舞っていても、夫の地元の人間関係に、依然も壁を感じている。だがしかし、夫の破顔し、和気藹々と歓談する様子を見るのは安穏であった。上半身が片輪となった夫の、それによって郷里に移り住み、真実の素性を臆面もなくさらけ出している横顔を見ると、妻は余計な心配や不安が和らぐのを実感する。彼女は仮にこの土地で夫が再就職を決心したとして、何一つ反対の意思を持つことはないと自覚していた。
風呂場に隣接している手洗を出ると、尿意を催したので順番を待っていたのか、扉の外に佇む義弟と遭遇した。妻は一瞬、当惑したが、足を滑らせて場所を譲ろうとした。すると義弟に擦り寄られた。この無軌道な暮らしに沈没している男が、妻は内心では好印象を抱いていなかった。
「大変だなあ、
妻は先刻の店の会計と同様、漠然とした表情を努めて浮かべた。休職を満喫している夫自身に対して、何ら隔靴掻痒たる心持ちを向けていない。むしろ、周囲を取り巻く多くの他人の、その一方的で身勝手な、自己中心的な同情心が煩わしかった。それは越冬の歳月で嫌というほどに思い知らされた。夫は隻腕であるのを前途の死活問題としていない。それなのに、周囲が、彼を知る誰もが、そうした幾分豪放な楽観で構えている夫への、無神経な、押し付けがましい善意や憐憫が微かな癪だった。本人は極めて自然体であるのに、片腕の欠損という異分子に注視を突き刺し、得手勝手な拡大解釈を加える人々を前にすると、妻は殊更にそつのない態度を前面に出すのである。
居間へ戻ろうとする妻を、義弟が正面に回り込んで阻んだ。
「兄貴とはどうなんだい、満足しているのかい」
妻は発言の意図が解せなかった。数秒置いて、義弟の下卑た、蟒(うわばみ)で、品のない想像を察した。それは妻に生理的嫌悪感を覚えさせた。妻は一貫して潔白に受け流し、義弟と壁の隙間を通り抜けようとした。
「持て余しているんだろう、素直になりなよ、何だったら俺が相手をしてやってもいいんだから」と、義弟が遂に単刀直入な本音を吐露した。それは忌まわしき劣情の腕となり、妻を拿捕しようと絡み付く。妻は薄暗く狭い手洗前の廊下で、首だけを義弟に向けると、店の会計の場合と同然に、明白な感情の含まない、のっぺらぼうめいた
鼻白んだ義弟は、それ以上の付き纏いを諦め、先に居間へと退散していった。妻はもう一度、手を洗いたい気分になった。ここからでも、鍋の盛況が響いてくる。片輪の旦那を背負っている、その重荷から解き放ってやろうというのに、そのような私利私欲の肉声が、妄想の形態をなして、自身の胸中を毒して来ているかのごとき邪念に囚われた。
妻は居間に戻ると、夫に耳打ちし、母屋へ義理の両親にも同席の誘いを促す旨を伝えた。鍋をつついての談話の花は、やはり夫の不具について咲いていた。その談笑は、母屋へと向かう途中の妻の耳にも届いていた。
母屋では、夫の両親が、広々とした殺風景な居間でそれぞれ寛いでいた。週末夕刻の情報番組を無関心に視聴している舅の傍らで、肩を並べてソファに座っていた姑が、律儀に一言断りを置いてから姿を見せた妻に「どうしたの」と声をかけた。妻は舅姑の両方と良好な関係であった。夫の両親からすると、上京して都会の女を娶った長男は、まさしくその妻の存在が家に飾る錦である風に接していた。
用件を告げられた老夫婦は、既に夕飯を済ませたと言って、離れの宴に参加するのを固辞した。いわんや、妻の心の所在する箇所も見抜いていた。
「こっちにいていいのよ」と、姑が
「ねえ、こっちにいていいのよ」という、恬澹な性格の姑の発言は、今の妻に、一服の安らかな疾風のごとく感じられ、心が揺れた。
鍋の宴は
「花見をやろう」と、夫が快活に言った。鍋の席は満場一致の大賛成であった。
「今年は寒さが長引くね。桜前線の話も聞かないな」
義弟が相の手を挟む。
「散歩がてらに観察しているけれど、今月中には桜も咲くだろう。是非とも盛大に大会を開こうじゃないか」
小酔声で、夫は場を乗り気にさせた。妻にも意向を問うと、芳しい反応が返ってきた。電気ストーブと鍋の湯気が綯い交ぜとなり、居間全体が蒸し風呂のようになっていた。
時刻が二十二時を数えると、鍋も空になり、それぞれが暇乞いをした。夫は風呂は翌朝にすると言い、寝室がある二階へ上がって行った。
妻は、後片付けを終えると、軽くシャワーを浴びるだけにして、寝巻姿で夫婦一緒に使っている蒲団に入った。傍らの夫は仮寝に近い状態で、漸進的に睡魔が訪れているのか、彼女が蒲団に入ってきたことも、気付いたか気付かずにいるかの模糊たる様子であった。彼女は眠気がなく、全くの明瞭たる意識の上で蒲団に横臥していた。極力全身の緊張を解して寝る態勢に移ろうするが、頭脳はそうした心向きに従わず、彼女は益々覚醒の持続に鬱屈とするばかりである。彼女は特段、夫の日々の姿勢に不平不満を持っているのではない。死の瀬戸際まで陥った夫が生きているだけで、それ以上の何を希求するというのであろう。それは不相応な分際の贅沢であると、彼女は分別を弁えている。だがしかし、彼女は夫に附随するあらゆる周囲の他人が露呈する、好奇と忌避じみた目線、明け透けな同情の中に見え隠れする独善的な観念に徐々に神経を磨耗させていた。そのような彼女の心境は、脈絡もなく東京時代の回想へと彼女を送り込み、そして電気毛布を敷いた温かい蒲団にくるまり、明かりを落とした寝室で、夫の気配を身近に感じながら、その夢想に半ば強引に連れ去られた。「花見をやろう」という夫の声が、残響となって就寝の形をとっている彼女のもとへと去来した。結婚当初、小金井の公園で二人、現在と変わらない時季に夫婦だけで夜桜を観に行った記憶が甦った。僅かもおくびに出さなかったが、夫は愛着のある郷里を生活の拠点に置きたがっていたに違いない。彼女は帰省してからの夫の破天荒ぶりに、そのような解釈を自らに与えている。夫が上京したのは現実上の条件に占められたに過ぎず、更にまた、妻である自分自身との馴れ初めもそうした夫の地元との絆を消し去る効果として作用しなかったのだろう。妻は暗い天井を凝然と見つめていた。眠ろう、眠ろうと、頻りに自分に言い聞かせるのだが、却って頭脳は強い思考の為に活溌に冴え、意識の鮮明度は高まり、研ぎ澄まされた刃物のように、あるいはまた、燃え盛る炎から飛沫のごとく散る火の粉のように、彼女を捕えては放さない。夫は
〈了〉
♪ナイフ / La'Mule
春の夜祭 文芸サークル「空がみえる」 @SoragaMieru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます