花見
アカデミアの卒業試験を来週に控えた僕は、ひとりラボにこもって勉学に励んでいた。
アカデミアを卒業すれば高度な研究の認可が下り、さらにはその費用までが援助されるようになる。――という話を聞いて、兄と一緒に入学を決意したのが今から七年前。当時の僕は、まさか七年後の自分がまだアカデミアに居残り続けているなどと想像もしていなかっただろう。
優秀だった双子の兄は、今から五年も前にたった一回で試験をパスしてアカデミアを卒業した。一方で、長い間劣等生であることに気がつかなかった僕はというと、卒業試験という高い壁を前にしてずっと足踏みをしている。
空中に浮かび上がったディスプレイには、もう何度読んだかも分からない過去問の問題文が映し出されている。模範解答は目をつぶったままでも記述できるほどに身体に染みついている。お望みとあらば詳細な解説まで一緒に書き殴ってやれるほどだ。
そうは言っても、最新の研究を題材にして出題傾向を変えてくるのがアカデミアの卒業試験だ。いくら過去問が解けるようになったからといって、無事に合格できる保証は宇宙の塵ほども無い。
そもそも今さらアカデミアを卒業したところで、などと考え始めたとき、ディスプレイ越しに見えていたラボの扉が開いた。
「やあ、もう花見はしたのかい?」
いつも通りの元気な声と一緒に、いつも通りのニコニコ顔の先輩が入ってきた。この数週間で彼女から同じ質問を何度されたか、途中から記録をつけるのを止めてしまったのでもはや知る由もない。
「花だったらそこらじゅうにありますよ。好きなだけ見ていってください」
僕は胸いっぱいの辟易を込めた言葉を吐き捨て、長い間僕を手放したがらない小さなラボを見渡した。机や床の上、壁掛けのラック、そして天井から吊り下げられた鉢の中に至るまで、研究用の植物のサンプルが所狭しと空間を占領している。
研究とは言っても、アカデミアの学生ができることなど高が知れている。それこそ卒業生たちが手掛けているようなビッグプロジェクトに比べれば、お遊びと表現して差し支えない実に稚拙な活動だ。
「君のそのボケは聞き飽きた。花見ってのはサクラを見るに限るんだよ」
「聞き飽きたってのはこっちの台詞です。今日もわざわざ僕がサクラを見に行ったか聞きに来たんですか?」
「ああ、もちろんだよ!」
先輩はディスプレイをぞんざいに弾くと、机に身を乗り出して肯定をする。僕を真っ直ぐに見つめる黒縁眼鏡の向こう側の瞳は、心底うんざりするほど無邪気に輝いていた。思わずため息が漏れる。
「暇なんですね、先輩は……」
「言っておくがサクラは本当に綺麗な花だぞ。君が想像しているのよりも何倍も何十倍も、あるいは何千倍もだ!」
「まるで僕の想像を見てきたかのような言い回しですね」
「当たり前だ。君の考えることなんか私には手に取るように分かる」
そんなわけあるか、と心の中で否定する。本当に僕の気持ちを理解してくれているなら、ナイーブになっている試験直前期に毎日押しかけてきたりなどするはずがない。
「サクラなんて、爪で引っ掻いたような傷だらけの樹皮に出来損ないの人工筋肉みたいな色の花が咲くグロテスクな植物ですよ。見に行く価値なんてありません」
僕の言葉を耳にして、今度は先輩がため息を吐いた。「やれやれ」と言いたげなわざとらしいジェスチャーまで付いている。
「グロテスクなものか。かつての詩人や文豪は皆、咲き誇る桜に魅了されて筆を執ったんだぞ?」
「僕は以前、物書きは全員どこか狂っている存在だという話をお伺いしましたが」
「……誰に?」
「あなたにです」
「ああ、それとこれとは話が別なのだよ」
僕から目を逸らしてニヒルな笑みを浮かべる。都合の悪い議論になるとすぐこれだ。
こうやって何度も何度も同じ花を勧められると、いい加減気が滅入ってくる。今日こそは僕にサクラを見に行く意思がないと知ってもらい、花見に誘うのを諦めてもらおう。
僕はここぞとばかりに言葉を繋げていく。
「おまけに、サクラの花はあっという間に散るらしいじゃないですか。すぐにダメになる植物を見て一体何が楽しいんです?」
「それが良いんじゃないか。いわゆる諸行無常というやつだ」
「いかにも前時代的ですね」
「ほんっとに君は分からず屋だなあ!」
あまりの僕の強情っぷりに痺れを切らした先輩が、右の拳を机に叩きつけた。机の端に乗っていたサンプルのケースが少し揺れる。
「それはお互い様でしょう」
僕は鼻を鳴らした。
先輩がこうもうるさく花見を勧めてくるようになったのは、今から半年ちょっとほど前のことだ。
復元されたサクラが最寄りのミュージアムに設置されることが決まったその日から、先輩はずっと花見に行くことだけを口にしている。 公開初日も真っ先にミュージアムに乗り込んで、閉館時間までサクラを見ていたんじゃないかと思っている。
アカデミア時代から近々代文学を研究していた先輩にとって、数多の作品に描かれているサクラは、中でも特別な花だった。幼い頃から「私が生きている間に見られたらいいな」と何度も口にしていたのを僕は知っている。
――だから本当は、僕が先輩に見せてあげたかったのだ。
「サクラは我々81エリアの住人の祖先、つまり地球ではニッポンと呼ばれていた地域に、実に深く根付いた植物だったんだよ」
「ええ、何度も聞きました」
「せっかく81エリアで生まれ過ごしているのに花見をしないなんて、愚の骨頂だとしか思えないよ」
「どうとでも言ってください。どうせ僕は双子の愚の方ですから」
「……なんだ君、まだ嫉妬してるのか」
先輩の顔が一瞬で曇った。言葉に乗っていたテンションも一気に小さくなる。
「そりゃあ当然嫉妬もしますよ。どうして同じ日に同じ親から生まれたはずのアイツがあんなにも優秀なのかってね」
僕がそう言うと、先輩の眉の角度が下がり黒縁眼鏡の奥に隠れた。
認めるのは悔しいが、双子の兄は僕の何倍も優秀だ。何でもそつなくこなせる優等生だ。僕と同じ日に生まれ、同じ日にアカデミアへ入学し、同じように植物学の道を志した兄は、今や僕の手が届きそうにない高みまで辿り着いている。
卒業して間もなく近々代植物学を専攻して研究を始め、エリア中、いやネオアース中の期待を背負ったサクラの復元プロジェクトのリーダーとなった。そして去年ついにプロジェクトは成功し、兄は若くして世界中から名の知られる研究者となった。
その裏で、先輩のためにサクラを復元するという夢さえ断たれてしまった僕はまだ、アカデミアの卒業試験にも合格できないでいる。そもそも今さらアカデミアを卒業したところでやりたいことなんて残っていない僕は、ただ兄への嫉妬心を育てることしかできないのだ。
「いくら双子と言っても他人は他人だ。他人なんだから差があって当然だろ」
「埋まる差ならまだマシですよ」
「埋まると思ってるから君も頑張ってるんだろ?」
「……分かってるなら邪魔しないでくださいよ」
「私が邪魔かい? これでも君を応援してるつもりなんだけどね」
「どこが」
悪態をついて僕は頭を抱えた。
僕の気持ちを何一つ分かってくれない先輩に嫌気が差した。将来に何の夢を抱けない自分に絶望した。
「もう迷惑ですから僕に構わないでください。応援とかしなくていいですから」
「早く出て行ってください」と続けようとした僕の頬を先輩の右掌が襲った。突然のことで痛みも思考も追いつかない。
「いい加減にしろ! 早く花見の準備をすればいいだろ!」
「そ、それだけのために殴ったんですか!?」
「分からず屋は殴ってでも連れて行く!」
「せめて殴る前に言ってください」
「うるさい! 一緒に行くぞ!」
顔を真っ赤にして声を張り上げる先輩を見て、なんと言うか、諦めがついた。僕は左頬をさすりながら立ち上がり、鉄の味がする唾を飲みこんだ。
「なあ、サクラは最高だっただろ!」
ラボに戻って来るやいなや、先輩は大きな声で僕に同意を求めてきた。僕は定位置に腰かけて素直に頷く。
「ええ最高でしたね。最高にどうしようもない植物でした」
「君は本当にひねくれてるなあ」
「本心です」
先輩は僕の方を少し申し訳なさそうな表情で見ていた。彼女の視線が僕の頬に向けられているのは気のせいではないだろう。
先輩は咳ばらいをひとつしてからまた話し始める。
「……いいか君、君は知らないかもしれないが、近々代のことわざじゃサクラが咲くっていうのは……」
「合格を意味するんですよね。覚えてますよ」
先輩が目を丸くした。
彼女にとっては意外なことかもしれないが、僕は先輩のした話を忘れた試しは無い。大昔に僕のおやつを勝手に食べたときの言い訳も、去年の卒業試験に落ちたときにかけてくれた慰めの言葉も、目をキラキラさせながら教えてくれた近々代文学に現れるサクラの描写も、目をつぶったままでも記述できるほどに覚えている。
だから僕は心の底から思うことを口にする。
「あんな植物、見たところで何の願掛けにもなりませんよ」
「それはどういう意味だい?」
先輩が含みのあるような笑みを浮かべた。
「あんなの、サクラじゃないってことですよ」
兄が復元したというサクラを見たとき、僕の中に渦巻いていた嫉妬の念は一瞬にして弾け飛んでしまった。兄のサクラはどう見ても不完全だった。ツルツルの幹に黄色がかった花弁。確かにサクラと同じ遺伝子を持った植物かもしれないが、先輩の崇拝する近々代の文豪たちが表現したサクラとは似ても似つかない代物だった。
「そうかそうか。まあいずれ植物のプロフェッショナルになるであろう君がそう言うなら、まあそうなのかもしれない。仕方ないから今後私は、あれをサクラと呼ばないことにするよ」
先輩は澄ました顔でそう言った。君の考えることなんか私には手に取るように分かる、そう言われた気がした。
「さて、花見はもうしたのかい?」
「サクラ以外は花見じゃないんでしょう?」
「ああそうさ。だから私はもう少しだけ待っていることにするよ」
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